四
階段を足早に上る音に、まどろみのような眠りはあっという間に霧散した。まもなくドアが勢いよく開く。
「武本さん、そろそろだ」
その声を聞いた時には、すでにコートを羽織っていた。
外は夜が明ける寸前の藍色の中にあった。風雪はすでに止んでいた。急ぐ息が白く弾む。馬屋に駆け込むと、まず呆然と立ち尽くす幸江の背中が目に入った。その足元で、馬は昨夕と同じように横たわっていた。武本はふと気になり、入り口の脇を顧みたが、もちろんそこに少年の姿はなかった。廣瀬が幸江の肩にそっと手を回した。その肩は小刻みに揺れていた。
馬はこの牧場で産まれ、丸二年を過ごし、本州の厩舎へと旅立っていった。数々の勲章と名声を手に入れ、逸話と伝説を残し、ここに里帰りを果たした。二人にしてみれば、自慢の我が子同然だった。それでも二人はなす術なく見守るしかなかった。死は受け入れざるを得ない現実として、すでに馬の傍らに存在していた。
武本は屈みこむと、馬に手を差し伸べた。指先が触れると、馬は一瞬だけ天井を見上げるようにその長い首をもたげた。あるいは、これから自らが進む道筋を確かめたのかもしれない。
いったいどのくらいの時間が流れただろう。外がぼんやりと白んできたころ、手の下にある老いた馬の呼吸が徐々にゆっくりになった。何かを受け入れるように、あるいは何かを諦めたように、馬はその体を静かに地に預ける。それからまたしばらくの時間が流れた。やがて、馬屋のどこかでほかの馬がその時を告げるように嘶いた。それに呼応するように別の鳴き声が聞こえる。それが合図だったかのように、馬はひっそりと息を引き取った。
悪魔の断末魔にしては、あまりに穏やかであっけない幕切れだった。幸江のすすり泣く声だけが、朝の訪れを告げる鳥のさえずりのように辺りを満たしていた。
武本はゆっくりと立ち上がると、深呼吸とともに合掌した。
今こそ、天に翔け上がる時だ。思う存分、走れ。悪魔よ。
夫妻に一宿一飯の礼を述べ、昼前に母屋を出た。真新しい雪が、冬の朝の透き通った陽光を反射してきらきらと輝いていた。
長い雪道の向こうに待つタクシーの少し手前を、小さな人影がこちらに向かってくる。あの少年だった。毛糸の帽子と手袋はしていたが、上下ジャージ姿のその恰好は、日が昇っても依然刺すように冷たい空気の中では幾分心許なかった。
「寒くないのか?」
すれ違いざまに、武本は赤ら顔に向かって声を掛けた。少年は例によって小さく頷く。
「帰っちゃうの?」
「あぁ、もう用は済んだからな」
そう口にした時に、武本はようやく目の前にある残酷な現実に思い至った。あの馬はもういない。少なくとも生きてはいない。それはつまり、少年が描くべき対象を失ったことを意味していた。
「死んじゃったんだね」
事実を悟った少年が、足元の雪に向かって言った。
「……あぁ」
「僕ね、あの馬を描いてたんじゃないんだ」
「え?」
「あそこにいると、なんとなくイメージが湧くんだ。あの馬じゃない、あの馬の姿が」
少年は手にしたスケッチブックをめくると、首を傾げる武本に向かって差し出した。
「見ていいのか?」
その絵を目にした武本は息を呑んだ。そこに描かれていたのは間違いなくあの馬だった。生気を宿した瞳、風になびくたてがみ、力強さを感じさせる筋張った筋肉。馬は、スケッチブックの上で昔のように駆けていた。まるで、その背後にある抜けるような空と青々と生い茂った芝が見えるようだった。目の前の少年が、たった一本の鉛筆で描いたとはにわかに信じがたい躍動感に満ちた絵だった。
「これは、きみが描いたのか?」
思わず間の抜けた質問が武本の口を衝いた。
「あの馬、すごい馬だったんでしょ?」
少年は問いには答えず、珍しく興奮した様子で武本のコートを掴んだ。
「……あぁ。俺が見てきたどの馬よりも、強い馬だった」
「悪魔みたいに、だよね?」
「あぁ、そうかもしれない」
少年が手を差し出したので、武本はスケッチブックを返してやった。すると、少年は馬の描かれたページを破り取り、再び差し出した。
「おじさんにあげるよ」
「え?」
少年はそれ以上は何も言わなかった。武本はその絵を受け取った。
「ありがとう」
少年はにこりと微笑み、馬屋へと向かって歩き始める。武本が見つめるその後姿に一切の迷いはなかった。馬屋を囲む雪原の向こうに青雲を背負った日高山脈が見えた。
——あの少年は馬屋へ行き、何の絵を描くのだろうか。
ふと頭をもたげた疑問と少年の背中に別れを告げると、武本は再び雪道を踏みしめた。
「空港まで」
タクシーに乗ると、武本はそう告げた。
「はいよ」と運転手が答える。
武本は手にした絵に目を落とした。何度見ても素晴らしい作品だった。単なる技巧の優劣ではない。その絵には魂が籠っていた。もちろん、それはあの少年が生まれ持った才能によるところが大きいだろう。けれども、おそらくそれだけではない。あの馬が少年にこの絵を描かせたに違いなかった。
「会えたのかい? あの馬に」
「え?」
その声に武本は我に返った。バックミラーを見る。来た時と同じ運転手だった。
「あぁ、昨日の……えぇ、会えました」
「そうか、ならよかった。それを聞きたくてさ、廣瀬さんのところから予約が入ったら俺に回すようにって言ってあったんだ。よかったわ、聞けて」
運転手は、心底嬉しそうに屈託のない笑顔を浮かべた。
やはり、間違いなく、あの馬の立ち昇る生命力は、悪魔と呼ばれた怪しげな魅力は、いまも人を動かし続けている。
窓外に目を向ける。舞う粉雪をきらめかせる真冬の太陽に、武本は目を細めた。空へと続く光の道筋に、かつて幾度となく駆けた緑の芝生を思い起こしていた。
『
天翔ける馬(改稿) Nico @Nicolulu
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