三
初めてあの馬を見た時、武本は強い馬だと思った。おそらく、それまでに見てきたどの馬よりも速い。だが、それ以上に、強いだろうと。
「あの馬に乗るんだって?」
競馬学校からの二十年来のライバルであり友人が、厩舎の脇で武本に声をかけた。
「あぁ」
居心地の悪そうな相槌を打つ。
「気にすることはない」と彼は笑った。「俺は落ちるべくして、落ちた。仮にもしまた乗ることがあったとしても、やはり落ちるだろう」
「お前にはあの馬を乗りこなせないと?」
「あれは、馬じゃない。バケモンだ。馬のかたちをした悪魔だよ」
彼が吐き捨てたその言葉が、武本はいつまでも忘れられなかった。
実に不思議な強さと不気味な魅力を宿した馬だった。何人ものトップクラスの騎手が大小問わず数々のレースでその馬の手綱を握ったが、ほとんどの場合は先頭争いに関わることもなく惨敗に終わった。彼のように落馬したり、馬のほうが戦意を喪失したりして、レースを終えることすらできない者もいた。
一方で、勝つことができたほんの一握りの騎手たちは、いずれもほかの者を寄せつけない圧倒的勝利をおさめた。辛うじて勝ったなどということはただの一度もなかった。まるで駄馬かなにかと競走しているようだった。
惨敗か圧勝。ふとした瞬間に破壊的な強さを見せつけるその様は、見る者に鮮烈な印象を残した。移り気なカリスマ性に、騎手たちも賭博に興じる者たちも魅了され、心を弄ばれた。
そして、いつしか人はみなその馬を悪魔と呼ぶようになった。
「確かに、初見で感じたよ。強い馬だって」
「強いなんて生半可なもんじゃない」と彼は声を荒げた。「いいか、絶対に乗りこなそうなんて思うな。相手は悪魔だ。あいつに従え。自我を捨てろ。自分を殺せ!」
返す言葉を失っている武本の肩に手を置くと、彼は寂しげに足元に視線を落とし、その場を後にした。彼の左足が地面を擦る音だけが、いつまでも武本の脳裏にこびりついて離れなかった。
ファンファーレが澄みきった冬の空に高らかに響く。すべての馬がゲートに収まる。猛り立った何頭かは鼻を鳴らし、体を揺らした。興奮と緊迫の狭間を衝いて、ほんの一瞬の静寂が訪れる。そこにいる何万という群衆が固唾を呑むような静寂。次の刹那、カシャンという軽快な音とともにゲートが開く。間隙を縫うように人馬が一斉に飛び出す。歓声が湧く。徐々にスピードが上がり、横一線だった馬群が少しずつ縦に伸び始める。
そのほとんど最後尾に武本は付けた。前を走る馬の尻を眺めながら、風の音を聞いていた。どちらかと言えば、静かな出足だった。
馬は芝の上を滑るように駆けた。実に無駄のない美しい走りだった。だが、その走りに武本はすぐに妙な違和感を覚えた。気負いがなさすぎる。これが自らの引退レースであるということは知る由がないにしても、少なくともレース本番であることはわかっているはずだ。幾重にも重なりあって会場を覆いつくしている観衆の怒号と気迫は馬にも届いているはずだ。それならば動物の本能として何らかの感情がそこにはあるべきだった。緊張、焦り、興奮、苛立ち。しかし、いかなる感情も手綱を通して伝わってこない。まるで春の花が咲き誇る草原を闊歩するような優雅さすらあった。
武本は思わずかぶりを振った。ともすれば、自分が戦場のど真ん中にいることを忘れそうになった。鞭を馬の肩口にかざす。視界に入っているはずだったが、馬はなんの反応も示さなかった。
レースはその後もゆっくりと展開していく。向こう正面に達するまでにじりじりと順位を上げたが、それでもまだ馬群の中頃だった。惨敗のほうか。武本は思った。
その時、馬が微かに頭を左に向けたのを武本は見た。振り向くというよりは、顎を引き、背に跨る武本を確認したように見えた。
——お前は耐えられるのか?
内なる声を聞いた気がした時、馬が突如変貌した。まるでギアが切り替わったようにスピードが増したと同時に、それまでの流麗な走りが影を潜め、粗雑さが目立つようになった。姿勢を低く保ち、手綱をきつく握りしめる。怒り。いや、喜びか。感情と呼ぶにはあまりに曖昧模糊としたエネルギーの塊のようなものを武本は初めて感じた。
最後のコーナーに差し掛かったところで、馬は大外に回った。武本の意図したところではなかった。馬の意志が騎手の支配を凌駕しようとしていた。
武本は慌てた。内側に戻ろうと、必死に手綱を引く。それと同時に激しく鞭を入れる。馬はぐんぐん加速した。あっという間に馬群を置き去りにする。速い。速すぎる。いくらなんでも、こんなに速いわけがない。
武本は、馬ではない、なにか別の生き物に跨っているような感覚を覚えた。いや、生き物ですらない。
——これが、悪魔の正体か!
暗い。馬の本来の姿を肌身で感じた武本を襲ったのは、言いようもない恐怖だった。目の前に伸びるのは青々とした芝と、抜けるような空だけのはずだった。数多の観衆と歓声が周囲を満たしているはずだった。それなのに、闇に向かって突き進んでいるような錯覚に陥る。そこには、群衆の姿も視線も声も不在だった。手の先から感覚が失われていく。闇。そこに待つのは死。左足を引きずる旧友の姿が脳裏をよぎった。
「相手は悪魔だ。あいつに従え。自我を捨てろ。自分を殺せ!」
彼の言葉がはっきりと聞こえた。武本は鞭をやめた。手綱を緩める。最後の直線、それでも馬は加速することをやめなかった。全身の筋肉が弛緩した。
霧が晴れるように視界が開ける。空と芝の青さが目に飛び込む。観衆の大歓声が再び耳に届く。えも言われぬ浮遊感があった。まるで、羽が生えたように、馬は天に向かって翔け上がっていく。
十三馬身差。
中盤までの追う展開を考えれば、信じがたい大差だった。
「やはり、あの馬は悪魔だ」
群衆は歓喜し、畏怖の念を込めて口々にそう言った。
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