二
黄金色の藁の上に、馬はその体を横たえていた。ビー玉のような瞳が等間隔に並んだ天井の梁をぼんやりと見つめている。浅い呼吸にあわせて、ぴんと張った黒い肌が上下を繰り返す。その首元に武本は優しく手を添えた。膝の下で、乾燥した藁が音を立てた。
大往生。天寿を全うした。
廣瀬が確定した事実として語ったように、来るべき時はもう間際まで迫っているようだった。往年、その体から湯気のように立ち昇っていた生命力は、すでにそこにはなかった。それでも、千里を駆けた駿馬としての威厳は少しも失われてはいない。武本にはそう感じられた。
――俺たちの夢、か。
「老驥櫪に伏するも志は千里にあり」
廣瀬が武本の思考を読んだように、独り言ちた。
その時、先刻くぐってきた馬屋の入り口の脇で、衣擦れのような物音が聞こえた。二人が同時に振り返る。スケッチブックを抱えるようにしてうずくまった少年が、怯えた表情でこちらを見つめていた。坊主頭に頬を赤く染め、雪国らしい上下揃いの防寒具をまとった少年は、小学校低学年ほどに見えた。
「なんだ、お前また来てたのか?」
廣瀬が驚きよりも呆れを含んだ声を上げる。その問いかけに、少年はほんのわずかに二度頷いた。武本がゆっくりと立ち上がる。
「誰です?」
「わかんねぇんだ」
「わかんないって……」
「近所の家の坊主だと思うんだけど、どこの家かはわかんねぇんだわ。少し前からたまにここに来て、この馬の絵を描いてるみたいだけどな」
「馬の絵、ですか」
「あぁ。見せてみろって言っても見せねぇから、どんな絵描いてんのかは知らねぇけど」
近所の家と廣瀬は言ったが、武本の感覚で近所と呼べそうなところには人の住まう家など一軒もなかった。
しばらくそのつぶらな目を見返していた武本が、少年のほうへと歩み寄る。
「あの馬の絵を描いているんだって?」
少年がやはり見逃してしまいそうなほど小さな首肯で答える。
「おじさんに見せてくれないか?」
これには少年が大きく首を振ったので、武本は驚いた。
「……まだ」
「まだ?」
「まだ、できてない」
「そうか。じゃあ仕方ないな。完成したら、見せてくれるか?」
少年は困ったように首を傾げる。武本は顔をほころばせた。ささくれ立ち、皮膚の硬くなった手を少年の頭に載せる。
「まぁ、気が向いたらでいいけどな」
「おじさんは……」
踵を返そうとした武本に少年が呼びかけた。「おじさんは、あの馬に乗ってレースに出たの?」
「あぁ、一度だけな」
「強かった?」
少年の問いに、武本は目を見開いた。強かったか。少年はそう尋ねた。速かったかでも、勝ったかでもなく、強かったかと。年齢による語彙の乏しさゆえの言葉の選択だったかもしれない。だが、武本には少年があの馬の本質を見抜いているように思えた。
「あぁ、とても……」
そこで言い淀んだが、結局脳裏に浮かんだその言葉を口にすることにした。「まるで、悪魔のように強い馬だった」
少年はどこか満足そうな笑みを浮かべ、再び抱え込んだスケッチブックに目を落とした。
「すぐ帰れよ。今晩はしばれるぞ」
馬屋から出る間際、廣瀬がそう声をかけると少年はやはり小さく頷いた。
夜は廣瀬の妻の幸江が石狩鍋をふるまってくれた。夫妻のほか、住み込みで働く三人の若者たちと食卓を囲んだ。男性が二人、女性が一人。聞けば、みな二十代だという。味噌の甘い香りに自然と顔がほころぶ。石油ストーブと鍋からの熱気で、二重にしつらえられたガラス窓が結露していた。出産の季節を迎えつつある牧場の団欒のひと時は、新しい生命への期待と心地よい緊張感に満ちていた。
夕食の間も幸江は時折壁の時計に目をやっては、食卓を離れて防寒着を羽織った。あの馬の様子を見に行っているのだろう。廣瀬は特に気に留めることなく灰汁をすくっていたが、何度目かに幸江が席を立った時に思いついたように、「あの馬だけは俺たち二人で診ることにしてんだ」と言った。
「できるだけ同じ人間が診たほうが、変化に気づきやすいからよ」
「そうですね」と武本は頷いたが、おそらく理由はそれだけではなかっただろう。
食事が終わり、従業員たちが母屋の二階にあるそれぞれの部屋へと戻り、幸江が洗い物を始めると、廣瀬と武本はぬる燗を片手に居間に場所を移した。
家族経営に近い廣瀬の牧場は、サラブレッドの生産牧場としてはごく小規模なものだった。それでもこれまでに数百頭の競走馬を輩出したが、中央競馬で目覚ましい活躍を遂げたのはあの馬だけだった。
「活躍したからめんこいわけではないんだわ」
廣瀬が武本の猪口に酒を注ぎながら言った。「三十年も毎日馬と向き合ってれば、馬の考えてることはたいていわかるようになる。したけど、こっちの考えてることはなかなか伝わんねぇんだ。あの馬にはそれができた。俺たちの考えてることがあの馬はわかってた。ああいうのを以心伝心って言うんだべかな」
「子どものころから、あの馬はほかの馬と違ったんですね」
武本が徳利を譲り受け、廣瀬に注ぎ返した。廣瀬は黙って頷いた。
「体つきはほかの馬より一回り大きいし、走りに無駄もない。身体的な素質も確かにあった。したけど、あの馬の恐ろしいところは心だ」
「心、ですか」
「あの馬は心に、心で語りかけてくる。人馬一体。比喩じゃなくてよ、本当の意味でそれを感じんだわ」
廣瀬が猪口を口に運ぶ。「あの最後のレース。あれを走った武本さんならわかるんでないかい?」
廣瀬の言葉に、武本はあの馬が自分の心に入り込んできた時のことを思い返していた。それははたして、あの馬の引退レースの最中のことだった。
「あのレースは、なんというか、不思議なレースでした。まるで……」
「競馬じゃないような?」
そう言うと、廣瀬は口の端に笑みを浮かべ、猪口を一気に煽った。それから「ちょっと小便」と膝に手をつき立ち上がる。窓の外に目をやり、「風が出てきたな」と呟いた。雪の粒がガラスに打ちつけていた。
部屋を出て行った廣瀬と入れ違いに、幸江が台所から姿を見せた。手にした皿をテーブルに置く。
「もらい物で申し訳ないんだけど……」
鮭の飯寿司だった。
「すみません、大変な時に」
武本は改めて謝辞を述べた。食事中も頻繁に馬屋に足を運んでいたので腰を落ち着けられるのは久しぶりのはずだったが、幸江は席に着こうとはしなかった。
「いいえ、なんもです。あの馬は特別な馬ではあるけど、こういうことは日常茶飯事ですから」
競走馬を育てるということは、その生死と常に隣り合わせであることを意味していた。特に「死」は、自らが死神としてそれをもたらさなくてはならないことが往々にしてある。幸江の言葉に、夫妻の苦労に思いを馳せるとともに、あの馬がいかに恵まれた生涯を遂げようとしているのかを武本は知った。
「そうだ、おい!」
突然居間の扉が開き、廣瀬が顔を出すなり大声で叫んだ。声は台所に向けられたが、幸江が目の前にいることに気づくと、「なんだ、そこにいたのか」とこぼした。
「私の名前は『おい』じゃないですよ」
「なにをつまらんことを。それより、昨日もらった……」
「これでしょ?」
テーブルの上の飯寿司を指差す。
「おぉ、それだよ。それ武本さんに出してやってくれ」
「もう出てますよ」
「もう頂いてます」
そう言って箸で鮭を摘まみ上げた。
「おう。なら、いいんだ」
廣瀬は微笑むと、再び扉の向こうに消えた。
まったく、と呆れたような笑みを浮かべる幸江の横顔はどこか幸せそうだった。武本は鮭を口に運んだ。甘酸っぱさが舌の先を刺激する。
「私も少しだけ頂こうかしら」
幸江はそう言うと椅子に腰を下ろし、廣瀬の使っていた猪口を持ち上げた。武本が徳利を傾ける。
玄関から引き戸の開く音がした。吹き込む風に年季の入った母屋がガタンと揺れた。
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