天翔ける馬(改稿)
Nico
一
厳寒のうえに雪の多い冬だった。
新千歳空港を出ると、深々と降る雪が武本を迎え入れた。タクシーを待つ列に並んでいる間にも、積もる雪は刻々とその嵩を増しているようだった。やがて順番が回ってくる。スーツケースをトランクにしまい、後部座席に乗り込むと、ため息とともに身震いをした。
運転手に行き先を告げると、「競馬関係の人かい?」と返事があった。
「まぁ、そんなところです」
かじかんだ手を擦りあわせる。運転手はなおもバックミラー越しに武本の顔をじっと見つめていた。
「あんた、ひょっとして武本さんでないの?」
「えぇ」
現役を退いて十余年。赤の他人から声をかけられることがなくなって久しかったので、武本は少々面食らった。さすがは競走馬と共生する土地柄とでも言うべきか、それとも個人的な趣向にすぎないのか。
きしきしと雪の上を走る独特な音と感触を残して、タクシーはゆっくりと発車する。
「はぁ、びっくりしたな。俺、あんたのこと応援してたんだよ」
運転手は興奮気味に土地のアクセントで話す。
「ありがとうございます」
「そうか、じゃあ会いに行くんだな? あの馬に」
「……えぇ、そうです」
不意に車内を静けさが満たした。雪に音を吸い取られた外の世界が、タクシーの中まで干渉してきているようだった。てっきり会話は終わったのだと思ったころに、運転手がぽつりと呟いた。
「あの馬は、本当に特別な馬だった。あの最後のレースは一生忘れねぇわ」
深い雪のせいで目的の場所に着くのに小一時間かかった。とはいえ、日高山脈の西に位置する鉄道もバスも走っていない小さな街のはずれに行くには、タクシーぐらいしか手段はなかった。
料金を払い、車を降りる。トランクからスーツケースを出し、引こうとするが、雪が邪魔をしてホイールが思うように回らない。武本は諦めてスーツケースを持ち上げた。
「武本さん」
運転手が呼び止める。「あの馬に会ったら伝えてくれるかい? あんたは、俺たちの夢だったって」
俺たち、とは誰のことを指しているのか。ふとよぎった疑問を飲み込み、武本は静かに顎を引いた。
母屋へと続く広い敷地に、せっせと雪を掻く小型のブルドーザーがあった。運転席の廣瀬は作業に熱中していたらしく、かなり近づくまで武本の存在に気がつかなかった。やっと視界の端にその姿をとらえると、少し驚いたような表情を浮かべてからそっと相好を崩し、小さく手を上げた。
「わざわざ内地からよく来たな。寒いべ?」
廣瀬はブルドーザーから降りながら言った。
「えぇ、とても」
幾分ぎこちない笑顔を返す。冬の北海道に来るたびに投げかけられる雪と寒さに関するやり取りが、武本は苦手だった。どのような返事を相手が期待しているのか、考えあぐねるからだ。
「様子はどうです?」
武本の問いが廣瀬の顔に暗い影を落とした。自然とその視線が奥に建つ馬屋のひとつに向いた。
「今夜いっぱい持つかどうかだろうな」
「そうですか」
「大往生だ」
「いくつになりましたか?」
「年が変わって、今年で三十二歳だ。あれだけの成績残して、たいした怪我もなく天寿を全うしたんだからやっぱりすごいわ、あの馬は。さすが……」
——さすがは、悪魔と呼ばれただけのことはある。
廣瀬が飲み込んだ言葉を、武本は察した。
「今夜は、馬屋で寝ていいですか?」
その言葉に廣瀬は目を剥いた。
「馬鹿言うんでないよ。零下二十度にもなるんだぞ。あいつの前に、あんたが死んじまうって」
「そんな」と武本は笑い、廣瀬もつられて笑った。
「俺と女房で交代で様子見るから。その時が来たら起こしてやる」
「……お願いします」
「とりあえず、一回見に行くか?」
「えぇ」
廣瀬は白い息を吐くと、手袋を脱ぎながら馬屋へと向かった。
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