砂漠のなかの、儚い人の夢

郁崎有空

砂漠のなかの、儚い人の夢

 ぎらつく太陽の下で地平線までも埋め尽くす、無限に続くような真っ白い砂漠を歩く。わたしのほかに、彼女がもうひとり。

 わたしの歩幅は彼女には小さすぎて、彼女の歩幅はわたしには大きすぎる。歩幅の小さいわたしに対して「そういうところはかわいいね」と彼女はいつも言うけれど、わたしとしても歩幅以外がかわいいやつにそう言われるのがいつも癪でならない。

 喉がからからに乾いて、ぼろぼろの革製リュックから表面の擦り切れた金属製の水筒を取り出す。蓋を開けて、そのまま中の水を少しだけ口に含む。水はとても生温くてほとんどぬるま湯だったけれど、このご時世にそんな文句も言っていられない

「私のなかに入ればいいのに」

 水筒の中のぬるま湯に渋面を浮かべていると、彼女は自らの頭を指してそう言った。

「言い方が気持ち悪いからやめてくれる?」

「は? 気持ち悪くないし。カナタが心配だから言ってんでしょうが」

「ともかく、心配される筋合いはないから。あなたもわたしも同じ人間だし、人間のわたしが、同じく人間のあなたの中に入ることなんてできるわけないでしょ」

「……いつまで認めないつもりなの?」

「認めるもなにも、紛れもない事実でしょ」

 彼女はハジメ。わたしよりちょっと大きくて、わたしより気が小さくて心配性なわたしの親友だ。わたしがあまりに小さいから、歩幅の大きい彼女にはいつも気を使わせてしまっている。だから、それ以上に気を使わせたくない。

 砂漠を越えるのも命懸けだし、せめて砂漠を越えられるほどの走破性を持つ車が欲しかった。しかし、あいにくそんなものはなかなか見つからない。簡単に見つかるものは鉄くず屋スクラッパーに回収されバラバラ部品になったり、盗賊連中に乗り回されたりしたりして、見つかったとしてもすでにオシャカなんて場合もある。

 それに、仮に車が見つかったとして、わたしは乗れてもハジメは絶対に乗れない。だから、わたしは車が欲しいと思いながらも、彼女と対等であるために自らの足で歩いている。

 ハジメはわたしの足取りに合わせて一歩進んで立ち止まり、大きな身を振り返らせた。

「やっぱり、私ひとりで歩いたほうが早くない?」

 そう問う彼女に、わたしの足取りが止まる。

 そんなことは分かっている。だけど、それはハジメがもうすでにそうであることを認めることと同じで、わたしはそれを許せない。

 ためらいのあまりに砂を踏みにじっていて、ブーツを履いた足がなかば砂に埋まってしまっているのに気づく。わたしはそこから抜け出すために彼女から視線を外して、砂から足を抜いてまた歩きだす。

「早ければいいってもんでもないでしょ。あなただって、お腹が空けば動けなくなるんだから」

「だからこそ、だよ。私が歩く間にカナタが私のなかで体力を温存しとけば、たとえ私がダメになっても、カナタが余裕を持ってその先に進めるし」

「そういう自己犠牲的な思考、わたし大嫌い。童話なんかじゃいつも生き残れないし、『死んでも神様のところに行くからいいよね』って片付けられるのが気に食わない。神様が何様だって話よ」

「……自己犠牲的なのは、そっちでしょ。そうじゃないなら、私を壊れるまで使ってよ」

「しつこいわね。どう言われたって、あなたをそういう使い方するのは絶対に嫌だから」

 暑さで頭が茹だっているのか、こうやって苛立ってしまうことが多い。そして、いつも彼女と喧嘩する。彼女の頭は茹だることはないだろうけど、きっと普段からわたしに対して思うところがあるのだろう。気を使わせたくなんかないのに、知らないうちに気を使わせてしまっているのだと考えると、それがただ怖くて仕方ない。

 かつてのわたしはむしろハジメに気を使う側だった。だけど、いつの間にか世界も彼女も変わってしまって、わたしはむしろ気を使われる側の弱い人間になってしまった。

 ハジメを生かした第三期生体機動兵器計画が、わたしを生かした冷凍睡眠コールド・スリープが、そして全ての始点となったあの戦争が憎い。これらさえなければ、わたしたちは同じ歩幅を進む二人のまま、同じ人生の終着点を迎えられたのに。

 わたしたちはもう、同じ歩幅に戻れない。TBM計画は長い終末の間にすでに風化しているし、どちらにせよあの頃のハジメが元に戻ることだってない。だからせめて、わたしの中では彼女がかつての彼女のままだと扱って、そうして同じ歩幅だと思いながら旅の中で緩やかに死を迎えるしかない。

 わたしがハジメの手によって冷凍睡眠から目覚めた時、彼女は幸せだと言った。わたしはハジメのその姿を見て、不幸だと思った。この小さなすれ違いが、いつか亀裂になるんじゃないかと思っていて、そしてそれは、いま実際に起こっている。

 わたしと彼女はしばらく言葉を交わすこともないまま、また夜を迎えるのだろう。それはあまりに寂しくて、人生で一番の孤独を感じる夜だろうなと思った。




 薄暗くなってきた日の下、細長い筒型の装置の上部スイッチを押して、一人用の繭型携帯テントを膨らませて、なるべく平坦な砂に横向けに半分埋める。ここまで日が暮れると視界も悪いし、夜行性の砂漠ヘビや砂漠グモが活動しはじめてからだと危険だから、諦めてこうして繭の中で寝ることにしていた。

 別に生きる理由もないし、いつの間にか死んでいるなら本望というところはあるけれど、ハジメを置いていくわけにもいかなかった。それに、たとえわたしがよくても、彼女のほうがそうするのを許さないだろうし。

 ハジメはわたしがテントを出すのを見て、なにも言わずに止まった。このままわたしを置いていって、蜃気楼のようにどこか遠くに消えてくれればいいのに。そうすれば、わたしだってためらいなく人生を終わらせられる。

 いつもそんなことを思いはするのだけれど、彼女はそれを絶対にしてくれない。彼女があまりにも優しすぎるから、それが苦しくて仕方ないなんて絶対に言えなかった。わたしはあの日からずっと続いている頼もしいわたしでいたかったし、彼女にもそう思っていてほしいから。

 繭の表面に浮き出た粘着性のある口をぱりぱり開く。鞄を頭の位置に置いて中にすっぽり収まってから、内側に口を合わせて閉じる。肘を曲げてないと天井についてしまうくらいの広さしかないけれど、彼女が見えなくなるこの時間が好きだった。繭が現実からわたしを隔離させて、朝起きたらあの穏やかな日々に戻って、この時代がすべて夢の中の出来事になるかもしれないという期待感があったから。

 胡蝶の夢、というものがある。確か「蝶の夢を見ていたが、もしかしたら本当の自分は人間の夢を見ているだけの蝶なのかもしれない」というような話だったはずだ。わたしはよくあの頃の夢を見る。あの戦争が起こる少し前の、あの楽しかった日々を。

 いまあるこの世界こそが夢であってほしいと思った。そして目覚めて、砂漠の見えない世界のなかで、ハジメと一緒に遊んで回りたい。同じ歩幅で、同じ関係で。

 寝転んだままリュックのなかから写真と充電式の懐中電灯を取り出して、写真に向けて明かりをつける。端が少し擦り切れた写真の中では、深緑に彩られた自然の中であの日のわたしと彼女が二人並んで写っていた。

 ハジメの無邪気な笑顔と、わたしの少しぎこちない笑顔。だけど、そのなかのわたしたちはとても幸せそうで、わたしはこのままこの写真のなかに吸い込まれていきたいと思う。そう思いながら、眠りにつく。

 気が済んで懐中電灯の明かりを消し、リュックに戻して眠りにつく。外が砂風にさらされてざらざらうるさいのも、もう慣れてしまった。身体はいつも疲れが溜まっていて、深い水に飛び込むようにたやすく夢の中に入ることができた。

 おやすみ、ひとときの夢。

 おはよう、わたしの現実。




 スマホのアラームがけたたましく鳴り響く。うるさいなと思いながら手探りで画面を叩き、眠気を少し残したまま目が覚める。

 今日は休日だけど、ハジメと遊びに行く約束だった。パジャマを脱いで、黒のカットソーに青いデニムジャケットに灰色のジーンズと、姿見の前で合わせる。うん、いつものわたしだ。

 最後にポーチの中を確かめて、準備を目をこすりながら階段を降りる。

 食卓ではいつもの父と母がいて、わたしがリビングに入ってくるとすぐに作業をやめてわたしを見た。その無機質なものが見つめるような瞳はあまりに不気味で、どうにも好きになれなかった。

「おはよう、カナタ」

「……おはよう」

 朝食はなにひとつの乱れもなく、既視感すら覚えるほど完璧に作られていた。いつもと同じように、目玉焼きにベーコンにサラダに白ご飯。

 わたしはそれをさっさと食べて、化粧ポーチを持って洗面台に向かう。歯を磨いて、長い髪を整えて、薄く化粧をして。ハジメが憧れるわたしを作り上げる。スマホで時間を見ると、そろそろ出る時間だった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 表面上は穏やかだけど抑揚のない、機械的なふたつの声が返ってくる。自動ロックのドアを開いて、外に飛び出した。

 車が走る。車の中では口だけの薄笑いを浮かべた人が機械的に口を動かしている。歩道で通り過ぎる人もどこか目が死んでいるように思えて、声にも抑揚がない。髪が自然のそれには見えなくて、日の下に照らされた肌の光沢がシリコンで覆われているかのように現実味がなく、それがどこか不気味だった。

 逃げるような気持ちでその場を抜けて、待ち合わせにしていた駅前の像のあたりに着く。早めに外に出るようにして駆け足で来たから、まだハジメは来ていない。

 暇つぶしに台座プレートに『創造神の像』と書かれたそれを見る。やせっぽっちでのっぺらぼうな人間の像。ボロ布をまとって、まるで流浪者の風体をしている。どういう意図で置かれたのか、いまいち見当がつかない。

 そうしている間にハジメが来た。白のブラウスの上に茶色のカーディガンを着て、薄赤のロングスカートを履いている。ふんわりしたボブの髪を揺らして、ぶんぶんと手を振って走ってきた。小さな背丈からの小さなスニーカーの足取りが、地面を踏むたびにぽてぽて音がなるようで、それがちょっと可笑しくて笑ってしまった。

「おっまたせー……って、なに笑ってんの」

「いや、あまりに歩幅がかわいいものだから」

「そんなとこかわいいって言われても嬉しくないんだけど。ていうか、他に褒めるところあるでしょうが」

「じゃあ、服もかわいい」

「じゃあってなに! もうちょっと、素直に褒めてよ!」

 ハジメがため息をついて、それから少しだけくすっと微笑む。本当に、彼女はなにをしてもかわいいから、きっとそういうのを言い出したら止まらなくなるんじゃないかと思う。だからなかなか素直に言えない。

 わたしが先導して駅の中に入り、ポーチから財布を出して切符売り場に向かう。相変わらず通りすがったり切符売り場に向かう人々の声に抑揚はなく、それぞれが機械的な表情を浮かべている。わたしは途中で不安になって、振り向いてハジメの顔を見る。

 きれいに剥いたゆでたまごみたいに新鮮な肌、琥珀のような色と輝きを放って生きたように潤いのある瞳、なめらかに動く感情の機微。

 ハジメはうろたえて、赤っぽく彩って見えた顔を少しだけ隠すようにした。

「なに? いきなりどうしたの?」

「……よかった」

「えっ」

「ハジメは、ハジメのままね」

 笑みをこぼして、自動切符売り場の列に並ぶ。

「えっ、どういうこと! ねえ――」

 切符売り場が空いて、二人まとめて買う。大人二人で、合計で一三四〇円。わたしが先に払ってしまう。

「どういうことでもない。変わらないっていいわよね、ってこと」

「あのさ、さっきから私のことバカにしてない?」

「してないしてない。額面通りに、そのままがかわいいってことよ」

「そりゃあね。私だってカナタほどスタイルいいわけじゃないし、運動も勉強もダメでぶきっちょだけど、その分だけ相当の努力だってしてるし、だから――」言いながら、切符を引ったくるように受け取る。「だから……もうちょっとこう、上手く褒めてほしい」

 ふと、どこかから風が吹いた。なにか小さいものが髪に触れたような感覚がして触ってみると、細かな砂がついている。

 いつか見た砂漠の光景が脳裏に浮かび、ぞっとした。

「カナタ?」

 ハジメの声に反応して砂を払い、わたしは彼女に向き直る。

「ああ、なんでも。それで、ええと……さっき、言い方悪かったのはごめん」

「え? いや……えっ、いきなりなに?」

「ハジメはわたしより愛想だっていいし、それにわたしにとって、かわいいって悪いことではないと思うから」

 ハジメが切符売り場から後ろ向きで退くのに合わせて、同じくらい足取りを追う。彼女の追いやすい小さな歩幅に、強く安心感を覚えていた。

「いやいやいや……真に受けないでよ! ここはいつも冗談を言うような流れじゃん!」

「……やっぱり、言わなきゃいつか後悔するかもしれないから。わたしはハジメの姿やいち仕草に惹かれるし、実際そんな意味でかわいいし――」

「おいばか! 人前でなに突然言い出してんの! やめて!」

「証拠見せるから。左手出して」

 わたしの言葉に、ハジメが左手を差し出す。わたしはそのわたしより小さな手の甲をそっと持ち上げて口づけする。

 手も唇も、確かにハジメの生身の身体を感じている。こんな彼女を長いこと感じたことがないと思ったのは、あの悪夢のせいか。

 ハジメがすぐに手を引っ込める。視線を胸元に寄せた左手に集中し、赤らめた顔をうつむかせている。

「そういうこと。わかったでしょ」

「……まったく、もう」

 わたしがまた先導して、改札機に切符を通す。彼女も遅れて、急ぐようにわたしの足取りを追う。

 この歩幅が、この立ち位置が大好きだ。




 駅のホームでは人が並んでいた。どこもかしこも、人間味の感じられない顔立ちと声のそれがぞろぞろと並んでいる。ここにいるほとんどがマネキンで、このなかにいる人間はわたしとハジメのたったふたりだけなのではないか。そんな気がしてならなかった。

 不気味の谷、という現象についての話を思い出す。身なりでも声でも、人工物を人間に似せるとある時点で逆に違和感が生じてくるという現象。たとえばマネキンや一時期流行ったボーカロイドなどがいい例で、いわゆる模造物シミュラクラと呼ばれる存在を作るにあたっての壁に値するものだった。

 しかし、そうなると神様に似せて作られたと一説ある人間というものは、実は神様と比べると違和感だらけという可能性もある。わたしたちは、神様を実際に見たことがないからだ。さっきの創造神の像というのも、実際のものとは遠くかけ離れていて、本当はそこらへんの海にいる五本指のヒトデが一番近い可能性だってある。あるいは、ヒトデが神様そのものか。ヒトデの像も、それはそれでアーティスティックな気がする。

 などと考えながら、右手の感触を確かめる。交差するように指を絡めて、小さくても明らかな人間のそれを指先にまで感じていく。

 長い間、触れたいと思っていた。なぜだかそんなふうに思えている。

「カナタ、今日なんかおかしいよ?」

 ハジメが前を向いたまま、つぶやくように言う。平静を装った顔をしているけど、手は確かな熱を持っていた。

 ふと寂しさにかられて、わたしの口元がその意思に向かって突き動すように動く。

「……夢を見たの」

「夢?」

「目覚めたらすでに世界は滅びへと向かっていて、大好きな親友がまったく違うものになっていて、大好きだったその子との歩幅が合わなくなるの。だから旅をしてもだんだんとすれ違うばかりで、いまこうして夢だったことに喜んでる」

「それで、あんなこと……」

「だって、後悔したくないじゃない。いつか、夢が永遠に続くようになるかもしれないのに」

『まもなく、――時――分発、――――行きの列車が到着いたします。危ないですから――』

 ノイズ混じりのアナウンスが続いて、電車が到着する。電光掲示板で時間を確かめると、表示される文字は全て文字化けしていて読めなくなっていた。真ん中のアナログ時計も長身と単身がいくつもあって、それがそれぞれ違う時間を指している。

 ポーチからスマホを取り出して確認しても、やはり時間や日にちや曜日が文字化けに侵されていた。

「なにこれ……」

 わたしがそう呟くと、右手の握られる感触が強くなっていた。

「夢はいつか醒めるよ」

「え?」

「……ううん、なんでもない。行こ!」

 ハジメに手を引かれ、電車に向かって走っていく。またもざらざらとした風が頬をなでて、今度は目や口に入ったようになる。電車に乗ってからそれを拭って周囲を確かめると、電車内にはわたしたち二人以外の姿がなかった。

 駅のホームを振り返る。いくつも連なった山盛りの砂がホームのアスファルトやベンチを覆い尽くしている。

 窓の外では、吹いた風に乗せられた砂が景色をどんどん白く汚していった。




 電車内の閉じた扉の前で、二人は立ち尽くす。

 どこもかしこも空いて貸し切りのようになった電車は、あまりに不安をかき立てられる。

 あの人間味のなかった人たちはどこに行ったのだろう。あの駅のホームを覆う砂は一体なに?

 まるで、夢が現実に侵食しているみたい。……じゃあ、ここはどこ?

 疑問を浮かべるたび、外の砂塵が深まっていく。

「きっと、残酷なことだよね……」

 ハジメの消え入りそうなか細い声の中で、なおも右手に温かな感触がある。

「さっきの、どういうこと?」

「時間がきたんだよ」

 彼女が見上げるのにあわせて、わたしも続く。車内の電光掲示板が確かな文字を表示する。

『次は 2089』

 2089……夢の中でわたしと、そして機動兵器になったハジメがいた時代だ。

「逆だよ」

「逆?」

「こっちが夢の中なんだよ。だから、夢はいつか醒めちゃう」

 砂塵が車体や窓を叩き始める。まるで、わたしに出て行けと言うかのように。

 夢? まさか、そんな。だって、いまあるハジメの感触だけが真実で――。

「この手を離したら、私は夢から切り離されて現実になっちゃうんだ」

「どういう……?」

「もう分かってるはずだよ。だからカナタは、本来この時代で求めるはずのなかったそんな繋がりを求めてしまった」

 外で爆音が鳴り響く。それからあまりにも大きな破裂音が豪雨のように連続し、なにかの駆動音とともに車内がガタガタ揺れた。

 とっさに左手で手すりに掴まって、ハジメの手が離れないよう右手を強く握る。ハジメはまるで別れでも告げるような、ひどく寂しそうな顔をしていた。

「そろそろ夢が終わるから、最後にひとつだけ」

「……醒めたくない」

「だめだよ。現実の私が待ってるんだから」

「あそここそ悪夢だよ。親友があんな怪物になっているんだから」

「たとえ怪物になっても、私はカナタにまた出会えたから幸せだったよ」

 外の混じり合ったような轟音が終わり、電車内の壁や天井や床にはいつの間にか糸が張り巡らされていた。

「――だから、たとえ歩幅が変わっても、私から目をそらさないで。見上げてでも見つめていて」

 穏やかにそう微笑んで、ハジメが急に背を伸ばしてわたしの前に顔を近づける。柔らかなものが唇に触れて、小さな風が吹き込まれる。それはしばらく嗅いだことのなかった、甘い花の香りがした。

「それじゃ、また。現実で」

 突然のことに揺らぐ私の手から指の感触が離れ、目の前にいたはずのハジメがぱっと消える。周囲の糸が収縮して迫り、わたしを閉じ込めるように包んでいく。それは繭になって、わたしの身体を覆うテントになった。

 ……おやすみ、ひとときの夢。

 おはよう、わたしの現実。




 遮光性の高い繭を通して照らされる薄明かりに当てられて、ゆっくりと目を覚ます。繭の口を開いて外に出ると、直射日光が目が眩んだ。

「おはよう、カナタ」

 声がした方を見上げると、巨大な人型機械が三角座りしていた。頭部がコクピットになっていて、その両端に二つのカメラアイを備えている、少しずんぐりむっくりな体型の元少女で、わたしの親友。

 周囲には、ジープや機関銃や赤黒い切断面を晒す塊がごろごろと転がっている。夢で見たとおり、寝ている間に守ってくれたんだ。

「おはよう、ハジメ」

「ようやく、ちゃんとこっちを見てくれた」

 日差しが眩しくて、視線の先に手をかざす。うそ、本当はそれだけじゃない。

「……いままで、ごめん」

「いいよ。これから頑張ろ」

 立ち上がってリュックを担いでから繭型携帯テントの砂を払って、スイッチを押して元のサイズに収縮させる。

 それにしても、リアルな夢だった。唇を指でなぞって触れた感触を思い出してから、携帯テントをリュックの中に戻す。

「それで、どうだった?」

「……なにが?」

「マウス・トゥ・マウス」

 また強く思い出して、恥ずかしくなる。

 そのあと、少し考えて眉根が寄る。

「どうしてハジメがそれを知ってるの?」

「ああ。私ね、テレパスなの」

「は?」

「あ、ごめん。今のウソ。TBMの通信能力をバカなことに使ったなんてまさかそんな――」

「あれ、本当にあんただったの?」

「……ごめん」

 まさか、本当に喧嘩した本人の前で醜態を晒してたなんて。いままでのばかばかしさに呆れを通り越して泣きたくなってきた。

 もう、張る意地もないし、歩く元気もない。だから。

「ねえ」

「ん?」

「わたしがいま、なに思ってるか読める?」

「私ともっと夢の中で色々したかったなうへへ、とか?」

「ハジメとの旅、今日で終わりかな?」

「……もちろん、分かってるよ」

 ハジメが声だけでくすっと笑いながら、金属質な大きな右の手のひらを差し出す。わたしはそこにたんと飛び乗って、親指にしがみつく。

 ハジメの頭のコクピットが開いて、私を乗せた手がそのそばまで上がっていく。わたしがその中に飛び乗ると、風防キャノピーがおのずと閉まっていった。

 内部は兵器とは思えないほどに綺麗だった。そこそこの広さで空調も効いていて、だんだんと室内が快適になっていく。一応戦争で使われた兵器のはずだけれど、わたしのために用意してくれたのかな。そうだったら、少し嬉しいかも。

 さあ、これからどこに行こう。彼女の大きな歩幅なら、きっとどこまでだって行けるはず。

「どこまで行けると思う?」

「どこまで行きたい?」

「まだ決まってない。だけど、ハジメと一緒に死ねるなら、どこでも」

「行き先は一緒、ってことだね」

 果ての見えない地平線に向かって、ひとつの歩幅で歩いていく。終わった世界のなかで、わたしは彼女となにが見れるだろう。彼女と同じ目線で見るものは、一体どんな景色だろう。

 未来なんか見えない世界で、わたしは未来を想像しはじめた。

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砂漠のなかの、儚い人の夢 郁崎有空 @monotan_001

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