最終話 おはよう、お姫様

 まどろみの中、くしゃりと髪をかき混ぜられた。ずっと昔ーー先代の星騎士イオが撫でてくれた時とはまるで違う。乱暴とも取れる手つきにしかし、ミアは胸に切なさが込み上げてきた。

 うっすらと開いた視界に、白い天蓋が映る。いつもの自室だった。傍らに座るイオの姿もまたーーイオ?

 ミアは半身を起こした。

「おはよう、姫様」皮肉を滲ませて赤髪の星騎士が言った「あいにく、憧れの星騎士様でも王子様でもないが」

 姿形はイオそのもの。しかし纏う雰囲気は蠱惑的で危険な色香を孕んでいる。何よりもミアを見つめる瞳の色は金。

「アトラス?」

「正解」

 イオもといアトラスは自身の手を見下ろした。動作の一つ一つが興味深いらしく、手を開いたり閉じたりしては感覚を確かめている。

「星騎士に乗り移れるの? マレなのに」

「術の構成さえわかればそう難しいことでもない。あとは適正だ」

 ミアが目の前で一度乗り移ってみせたとはいえ、それだけで体得したアトラスはやはり驚嘆すべき実力の持ち主なのだろう。ミアは今更ながら自分を見た。旅服ではなく部屋着を纏う身体に傷は一つもなかった。裂かれたはずの腹には痕跡も残っていない。瀕死の傷を癒し、結界内に入るために星騎士に乗り移ってミアを送り届けた。目の前の、この男が。

「どうして……?」

 出会ったばかりの、それも同胞ならばまだしも敵対する小娘のために、マレがここまでする理由が見当たらなかった。アトラスがミアを助ける必要も義務もなかった。それでも、彼は助けたのだ。

「借りを返しただけだ。恩義を感じる必要はねえ」

 素っ気なくアトラスは言った。

「でも、」

「お前は助かった。大事な大事な星騎士も取り戻した。他に何を望む?」

 違う。助かったのではない。助けられたのだ。たったそれだけの単純なことが、ミアにはとてつもなく大切なことに思えた。自分が気づいていなかっただけで、ミアは守られていた。生まれる前から、ずっと。

「……以前、私を救う価値や義理があるか、イオに聞いたでしょう?」

 アトラスは小さく頷いた。

「お前はあると答えたな」

 自分の命を惜しむ。生きとし生けるものならば誰もが持つはずの本能だ。ミアが星騎士イオの身体を借りて自分を救ったのは、当然のことであり、賞賛されるほどのことではなかった。しかし、イオはーートレミー=ドミニオンは違う。

「私にはあったけど、『イオ』はどうかと訊かれたら答えは違うわ」

ミアは囁くように言った。

「ないわよ、そんなもの」

 実の父親ですら攫われても助けに来てくれないのだ。赤の他人であるトレミーならばなおさらだった。

「イオには命を捨ててまで私を救う必要はなかった。彼は余計なことをしてしまったの」

 結果、彼は死んだ。それを知った時、ミアの胸に様々な想いが巡った。星騎士との離別による悲しみ。巻き込んでしまったことへの罪悪感。ハストラングへの憤り。唯一の支えを失った絶望感ーーの中でも一際強く、衝撃にも似た感情があった。

「でも、余計なことをしてくれたイオじゃなかったら、私はあそこまでたどり着けなかったわ」

 打ちひしがれながらもミアは思った。嬉しい、と。歪んでいると自覚しながらもどうしようもなく嬉しかった。守られた命が惜しくなった。

 アトラスの右手が伸ばされる。癖のある黒髪を慈しむように撫でるその感触に、ミアの目頭が熱くなった。

「よくやったな」

 ああそうだ。自分は褒められたかったのだ。はじめて自分の意志を貫いたことを。

「さて、お前も起きたのなら、タラセドを回収して俺はそろそろ戻るとしよう」

 思わず表情を曇らせたミアに、アトラスは「ふふ」と微かに笑った。湖面が僅かに波打ったような静かな笑みだった。

「安心しろ。オルフィは無事だ。星騎士もちゃんと返す」

 頬に手が添えられる。ミアは促されるまま顔を上げた。すぐそばに金色の瞳がある。息もかかるほど近くで、アトラスは囁いた。

「我は汝」

「ーー汝は我なり」

 反射的に呼応したミアの唇にアトラスはイオのそれを重ねた。柔らかく、温かい感触。軽やかな音を立てて、唇は離れた。

 ミアは泣きたくなった。全身が発火したように熱い。心臓が早鐘を打ち、呼吸さえままならない。ふわふわとした浮遊感もあり、何が何だかわけがわからなかった。

「おい」

 アトラスは低い声で咎める。彼は『イオ』のままだった。ミアが乗り移らないから、戻っていない。

「やる気あるのか」

 不機嫌を露わにするアトラスを前にして、ミアは途方に暮れた。

 答えられるはずもない。帰したくないなどと、マレに向かって、極星を抱く自分が。それでも正直な手は縋るように白い軍服を握った。

 一人で戦うしかないと思っていた。キスで悪夢から目を覚まさせてくれる王子様はいない。自分の力で目覚めて、この騎士と一緒に立ち向かう以外に道はない、と。

 しかし、悲壮な覚悟と決意の裏では願っていた。幼い時からずっと。

 必要とされたい。極星の姫としてだけではなく、ただの一人の人間としてミアを受け入れてほしい。攫われたのなら助けに来て。義務の枠組に収まらないで。絶望する前に一緒に戦って。仕方ないと諦めたりしないで。

「……ど、どうしよう」

「俺の台詞だ。帰れねえだろうが」

「あ……ご、ごめ、」

 涙目で謝罪の言葉もまともに言えなかった。これからどうするべきなのか。自分がどうしたいのかさえ、もはやわからなかった。

 アトラスは狼狽するミアを宥めるように肩に手を置いた。ため息混じりに言う。

「焦るな。失敗するだけだ。そんなに急ぐ必要もないから、落ち着くまで待てばいい」

 イオ、イオ、お願い早くここに来て。ミアは心の中で助けを求めた。落ち着くどころか心拍数と体温は上昇するばかりだ。悪い人だと知っているのに、マレだから駄目なのはわかっているのに、止まらない。想いは勝手にふくれあがる。

(眠っていないで早く助けて、イオ)

 悪いマレを好きになってしまう前に。

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眠れる騎士 東方博 @agata-hirosi

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