ジョゼフの遺物 下
きょうのシャルルは1人だった。
1人で、あぶないところの仕事に就いている。
具体的には何かというと、なんとグレッグの隠れ家に、彼は単身忍び込んでいるのだった。
と、書けば、シャルルが常識外れの蛮勇の持ち主さながらに見えるかもしれない。しかし、実際は全くそうでもないのだ。ちゃあんと準備はされている。この部屋のあるじたるグレッグは、事前にジュールが外に呼び出しており、夜まで帰って来ない手はずになっていた。
もっとも、普段のシャルルでさえ敬遠するくらいに治安の悪いこの場所に、日が暮れるまでいるなんてとんでもないことだ。さっさと欲しいものを探し当てて、明るいうちにこっそり辞するつもりだった。
だが、とうに日は傾いている。
理由はただひとつ、目的のもの――コレットの証書が、なかなか見当たらないからだ。これを確保せずにとんずらこくなんて、笑えない冗談だ。ジュールのやつにきっとこってり絞られるし、いろいろと台無しになるし、なによりシャルル自身の、埃まみれの誇りが傷つく。
時間は刻一刻と過ぎ去り、焦燥感がじりじり、夕日の角度と一緒に、シャルルの爪先を焼きつつあった。
だから、シャルルは。
机の下の金庫にいやいや取り掛かった。
やけっぱちではない。勝算くらいある。
まず第1に、大事な書類なら金庫に入れるだろうという常識。これはやる側もついついやってしまいがちなので、普通に「ここで見つかる」可能性を視野に入れたものだ。
もうひとつはもっと乱暴だ。
この選択肢は最悪の場合使っていいと言われてはいたが、ジュールが乗り気でないのは見て取れたし、シャルル自身、珍しく納得もした。なんせ、いつも以上、いっそうに不審で、犯罪的なのだから。
シャルルはこの「最悪な場合の、乱暴な手段」を用いてことにあたろうと腹を決めた。
彼がポケットから取り出したのは1本の針金である。もう賢明な読者諸君にはおわかりいただけただろう。酒場のテーブルでグラスやカードをすり替えるのが得意なこの白い指は、なんともはや、錠前破りの心得までもを持ち合わせているのである。いくらか前、空き巣を生業としている男に酒を奢ってさわりを教えてもらったところ、悪事に限って小器用なシャルルはたちまち上達した。結果、そのへんの錠前を片っ端から開けまくるという迷惑行為に走った経験がある。飽きたので、まもなくやめたが。
今ではたまにふっと思い出し、なんとなく書庫の錠前を開けたり締めたりする程度だ。
今回挑む錠前は金庫である。そもそも金庫自体をあまり見たことのないシャルルは、観察するところから始めてみた。
小さい。おそらく、持ち運ぶこともできる型なのだろう。上に革のベルトがついていることもそれを裏付ける。持ち上げてそっと揺さぶる。さらさら、紙が触れ合う音がした。
金庫ごと持ち去って、別の場所で開けるという考えもあった。しかし、金庫という重大なものが明らかに無くなっているのと、部屋が荒らされているがちゃんと金庫があるのとだったら、後者のほうが多少は安心しそうではあるまいか。まぁ、金庫を開けてしまったら一緒なのだけれど。
ちょっとでもいい方向に転がしたい。今必要なのは、金庫の中身であって金庫ではない。そして、急いでいる。決着は、今晩なのだった。
「昔こう言った奴がいた」
シャルルは指を曲げ伸ばしして、金庫の錠前をしげしげと見た。挑むように。祈るように。
「『急がば回れ』ってな。危ない近道するより、いつもの道がいいよ、って話さ」
1人で、小声で、まるでシャルルは金庫に語りかけるが如く、言葉を、零した。
「でも近道をしなくちゃいけねぇんだ。悪いな」
心臓にナイフを差し込むがごとく。針金が、錠前を蹂躙していった。
***
シャルルは金庫の胎から「切り札」を見事に見つけ出し、約束の場所に急いだ。その場所はシャルルがくだをまいているところからはいくらか高級な、しかし、嫌な雰囲気を持った酒場であった。店の中ほどにジュールがいる。うかつに近寄らないで、入り口すぐそば、カウンターにかけて、様子を見る。
普段ならまっすぐジュールのところへ走って行って「うまくやった報告」をしたいところであった。しかし、今日はどこからどう見ても「普段」ではないし、常ならぬ状況でいつも通りの王道を取らないくらいのアタマはシャルルにもある。
ジュールと同じテーブルに、ジュールよりやや年下の、だが不摂生を絵に描いたような男が座っている。2人の会話から、ジュールではないほうがグレッグ本人だと分かった。
シャルルはそれしかやることがないので、一生懸命耳をそばだてている。
金貸しと商人の攻防は一進一退で、お互いかなりぴりぴりしていることが見て取れた。彼らのぎすぎすした商談を聞きながら、自分ならばもっと気のきいた台詞で切り返すのになとシャルルは思った。
「ジャン、アンタはもう少し賢い男だと思っていたがね。たかだかメイドひとりのこと、いやにこだわるじゃあないか。ひょっとして、いい仲だったのかい? とてもそんなふうには見えないが」
「茶化せば思い通りになるとでも? 浅慮が過ぎるのはあなたのほうですよ、グレッグ。わたくしもわたくしなりの理由で動いているのです」
「それで例のメイドの証書が欲しいって? 天地がひっくり返ったて、そんな大事なもの、渡すわけないだろうが」
「天地がひっくり返る可能性を考慮して、お尋ねしてみました」
「だからな、ひっくり返っても無理なんだよ。そもそも証書は手元にない。お前には見せることすらできないな」
「読むなり焼き捨てましたか? 小説みたいなことをなさる」
「それじゃあ証拠にならないだろう、薄ら馬鹿……ちゃんとあるさ。だが、持ち歩くと危ないだろう。おまえみたいなやつらが寄ってきやがるからな」
「随分な言いようですねグレッグ、わたくしたちは心の友ではなかったのですか?」
「やれやれ、いつの話をしている? 人間関係っていうのはな、見直しも大切だぞ」
「つまりグレッグ、あなたとわたくしはもう友人ではない?」
「当たり前だろう。ちいっと古参だからってでかい顔しやがって……もう俺はあのときのおのぼりさんじゃない。それどころか、今やお前よりも金も人脈も持っているって言っていいくらいだ。この意味が分かるか、ええ?」
「さぁ、わかりかねます。きゃんきゃん可愛く吠えているところ申し訳ございませんが、そろそろこちらも切り札を切らせていただきますよ」
ジュールの金壺眼が、迷いなくシャルルをとらえた。むしろ、随分待たせたなという気持ちで視線を返し、シャルルはそれに応える。グレッグの怪訝な目つきを受け流しつつ立ち上がり、これ以上ないほど優雅な所作でジュールと、ついでにグレッグに流し目をくれた。2人の傍の椅子にすとんと座って、意味深に懐まわりへ指をやる。
「……ジャン、この坊やはなんだ?」
「坊や、ではありませんよ。彼はジャンといいます。そう、わたくしと同じジャンなのです。面白いでしょう。彼は何というか……困ったときには助け合う間柄、ですね。昔あなたとわたくしがそうだったように」
「ほっほう、じゃあそちらのジャンくんは使い走りの小僧っ子ってこったな」
「そういうわけではございませんよ。なぜならわたくしにこの仕事を持ってきたのが、ほかならぬジャンだからです」
グレッグの怪訝な顔をたっぷりと堪能してから、シャルルは人差し指でとんとん、と、自らの心臓の真上をついた。
「名乗るのが遅れたな。ジャンのご紹介にあずかった通りオレはジャン。……ジャン=シャルル・ド・ロタン」
「ロタン」
阿呆のように言葉尻を取って、一瞬呆けた顔になるグレッグ。しかしそこは本職、すぐに先ほどからの陰気な面構えに持ち直した。
「成程わかったぞ。死んだ身内が恥ずかしい目に遭わされているから何とかその雪辱をすすいでやろうっていう、涙ぐましい腹だなお坊ちゃん」
「まぁ落ち着けよ平民。オレは静かに寝たいだけで、兄貴が死んだのはせいせいしてらあ」
片手は胸に当てたまま、空いた片手をひらひら振って、シャルルはほの白い頬に侮蔑を纏わせて嗤った。グレッグもそこで侮りをやや、引っ込めた。シャルルがジョゼフのような「善良な貴族の子弟」でないことを悟ってである。
「寝床を騒がせられるのは厭な気持のするもんだろう。例に漏れず、オレもだ」
白魚のような指が上着の中に潜る。中からは一通の封書。奇術師の手つきでシャルルが広げて見せれば、グレッグの眼は倍に見開かれ、反対にジュールは半分に細めて満足げに頷いた。それはまさしく、グレッグがコレットにサインをさせた例の証書だったのである。しかし、まだ終わらない。鼠を嬲る猫が笑ったらこんなだろうという顔をしたシャルルの懐からは、それこそ奇術のようにまだまだ封書が出てくる。1枚。2枚。もっとたくさん。ひとつまたひとつ、丁寧に広げて見せ、そのたびごとに盃を鳴らすような笑い声を立て、だがその眼は間違いなく、グレッグが椅子から立ち上がったときのことをじいっと見据えているのである。
「ど、どうして」
「お宅の金庫が安物だからだよ。つぎはいいやつを買うんだな! で、この証書、欲しいだろ。喉から手が出るほどな。あんたの心がけによっちゃあ、譲ってやってもいいぜえ。よくよく忍耐するこった……かつてこう言った奴がいた。『忍耐、それによって凡人が不名誉な成功を収めるくだらない美徳』ってな。いひひっ」
グレッグは怒りだとか、屈辱だとか、焦りだとか、その手のあまり気持ちのよくない感情で顔を真っ赤にして歯を食いしばっている。綺麗に畳み直した書類の束を、カードのように弄びながら、シャルルは肩を震わせて笑った。グレッグは思わずといったふうにジュールを顧みた。彼の中に残っていた甘っちょろいところが、前々からの知り合いであるジュールを頼りたがったのかもしれない。ジュールは口許だけの笑みで返した。眼は今まさに、グレッグの喉を食い破らんという色をしていた。
いつの間にかテーブルに紙が置かれている。
「さてグレッグ、わが友」
ジュールは、わざと音を立ててインク壺を置いた。
「まずはこの証書に署名していただけますか。まずは、ね」
***
よく晴れたうららかな午後。外に出ないなんて勿体ない、と言われそうな陽気だ。そんな日に薄暗い書庫でワインとブランデーを舐めている、贅沢な男が2人いた。勿論2人のジャンである。今日の酒はジュールの持ち込みであった。ただしシャルルが「好きな酒を買ってこい。代金は持つ」と男を見せたのである。例の件が思った以上にとんとん拍子に行ったので、シャルルなりの礼であった。
「あれからコレットのやつ、ぱったり来なくなってさあ。お陰様で静かになったぜ。ほんとによく働いてくれたな、ジャン」
「いいえジャン、働いたのは専らグレッグですよ。もう褒めてやることもできませんがね」
「でもあいつを働かせたのはジャンだろう。ご苦労さん」
シャルルはご機嫌で、行儀悪くグラスの縁を舐め、くつくつと笑った。そうして今思い出したという顔で「そういや、オレに頼みたい仕事ってなにさ」と、きょとんと訪ねた。
「今日はお祝いですから、言いたくないですね」
「ふぅん。そういうもん?」
「そういうもんです。後日またこっそりお話しましょう」
「あまり楽しい話じゃなさそうだな」
「どうでしょう。人によりそうです」
「愉快な仕事であることを祈るぜ」
ほろ酔い加減の2人は、今日2回目の乾杯をした。
ジャン=ジュールの鉄砲玉 猫田芳仁 @CatYoshihito
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