ジョゼフの遺物 中
今日は中間報告の日だ。前のことがあったので、1,2杯なら付き合ってやるつもりのジュールであるが、約束の折、本当に「休憩時間」の記載された手紙がシャルルからきて笑ってしまった。ここまでされたら、土産に肴のひとつでも持って行ってやろうかという気持ちが湧いてくる。事実ジュールはそうした。それを教えて喜ばせてやるのは「休憩」に入ってからだが。
シャルルは来客がジュールであると知ると、それだけは天使のような笑顔で招き入れ、喜び勇んで珈琲のお湯を取りに行った。その間。また本を開いては戻しするジュール。只で貸してくれるという事は、ここはジュールの図書館である。有効に使わなければならなかった。
ふいにノックの音がした。
思わず「はい」と返事をしてから、はっとした。
シャルルはノックをしない。
「誰だい? シャルルは?」
ゆっくりと扉が開けられた。
穏やかな印象の、栗毛の青年だ。顔色は蒼白く、ステッキをついている。
彼は、おそらく――。
「ルイの兄貴!」
シャルルがびっくりした顔で飛び込んでくる。ルイにぶつからないよう、配慮をしたうえで。
「ジャン、きみのお客さんかな。邪魔をしてしまったね。ごめんよ」
「そんなことより、兄貴うろうろしてもいいのか? また熱を出したんだろぉ」
「とっくに引いてしまったよ。まったく、みんな心配性で困ってしまう。今日は、ちょっと散歩」
「わかった。ほどほどにしとけよな」
「うん」
もう1度「邪魔をしてごめんよ」と声をかけて、ルイはステッキをつきながら、そろそろと背中を向けた。書庫の2人は扉を閉めて、ルイが遠ざかっていくのをわけもなく息を殺してそうっと待った。
「嗚呼、びっくりした……本を取りに来たんだな。間の悪いこった」
「わたくし、ルイ様を初めて拝見しました」
「部屋からそんなに出てこないからな」
シャルルの台詞へ抵当に相槌を打ちつつ、ジュールはルイのことを反芻した。彼の言葉はただの1度もジュールに対して向けられていなかった。幾度かちらりと投げかけられた視線は、ジュールが嫌というほど知っているものだ。
敵意。
単に、弟と歳の違い過ぎる、怪しい客だと警戒されているのか。あるいは。
「……ジャン?」
気がつくと、不審そうな顔をしたシャルルが珈琲片手にジュールを見上げていた。
「失礼、少し考え事を。珈琲が冷めてしまっては勿体ないですね」
「おうよ。心して飲め」
珈琲を傾けながら、お互いに調べてきた情報を突き合わせる。元メイドの女については、やはりシャルルの方が詳しかった。
「オレもずうっと書庫住まいって訳じゃねぇ。まだ母屋に住んでた頃から、あの女は知ってるよ」
彼女の名前はコレット。身売り同然に奉公に出されるというお約束で上京してきて、ロタンの屋敷にやってきたのは12のとき。これもお約束で先輩格の使用人に小突きまわされていたのを、偶然通りかかった長兄ジョゼフに助けられたのだという。
そのあとは、女子供が好みそうな流れ、そのまんま。
不遇な立場のコレットに同情したジョゼフは彼女にずいぶんと目をかけていたようで、たびたび彼女の悩みに耳を傾け、さらには簡単な読み書きを教えていたりしたようだ。もっともコレットのみならず、年少の使用人に対しては、ジョゼフは何かと世話を焼いていたのだが。
「1年くらい前に、コレットはうちを辞めた。別になんかあったわけじゃないぜぇ。てっきり嫁に行ったのかと思ったが、どうもそうでもないらしい」
「彼女が辞めてからの足取りは? 何かご存知ですか」
「どっか違う屋敷で、やっぱりメイドをやっているはず。というのも、ジョゼフの兄貴、その後もコレットのことを心配してよぉ。手紙なんかも書いてたみたいだぜ。普通に考えたら絶対怪しいよなぁ。オレも屋敷の奴らも、兄貴がそんなことするはずねぇって思ってっけど、デキてると思われても全然変じゃない」
「そこまでですか?」
「ああ。兄貴とコレットの手紙が出てくるといいんだけどな。そうすりゃあ、コレットの今の勤め先がわかるだろうし、あわよくば中身も拝見して、兄貴と実際どんな仲だったのか確かめられるってもんよ」
まだジョゼフの部屋は片付けられていない。潜り込もうか、とシャルルは考えたものの、あるのかないのかわからないものを探すために、それだけの危険を冒すのは憚られた。シャルルはつける薬もない愚か者ではあるが、利益と不利益を秤に乗せることくらいできるのだ。
ただし、その秤は主観や欲望で壊れていることが多い。
「ロタン家を離れるところまでは、わたくしのネタと同じですね」
「じゃあ、コレットはもうメイドじゃないのかよ……あっ、珈琲もう1杯どう?」
「頂きます」
ジュールはあつあつの珈琲で唇を湿し、期待に目を輝かせるシャルルへと、己のカードを開示した。
「ロタン家を離れた直後はそれで正しいですね。ですが、彼女が奉公した屋敷は、そうそうになくなっています」
「なくな、る?」
「資金繰りができなかったのでしょうねえ。所謂、夜逃げです。嗚呼恥ずかしい。まともな貴族がやることではございませんね。しかし彼らはやってしまい――あとには仕事場を失った使用人たちが残された」
「そのなかに、コレットもいたんだな?」
「ええ、おそらくは」
「それから、コレットがどうしたかはわかるのか?」
「全部は無理ですが、かいつまんでなら」
ジュールによれば、コレットには妹がいるそうだ。その妹が売られそうになっていた。コレットみたいな奉公ではなく、もっと露骨に、娼館に。コレットは姉として、これに耐えられなかった。わが身を顧みず、妹を救えるだけの金子をその華奢な手に集めようとして――コレットは、辿り着いた。辿り着いてしまった。触れてはいけない人間に。
「金貸しです。グレッグ、と呼ばれている男です。この界隈でも、札付きのやつですよ。コレットは何の因果か彼に出会って、借財を申し込んだようですね。その結果は、まぁ、その、なんといいますか」
まず、グレッグはコレットが世間知らずのお嬢さんと見ると、猫なで声もあきらかに、1杯おごって事情を聞いた。とても親身に、ただし実のある助言はなにもなく。ただそれだけで、出てきた田舎と屋敷の中しか知らぬコレットはころりと彼を信じ込んでしまった。彼と彼女はその後も幾度かグラス越しに向かい合った。その結果、コレットの彼に対する信頼は最早ゆるぎないものとなった。
「そうやってとりいったところで、妹を買い戻すだけのお金が手に入る方法がある……と、そそのかしたわけですね」
「随分詳しいじゃねぇの。かいつまんで、とか言っていたくせに」
「かいつまみますか?」
「気になるじゃねーか。ちゃんと聞かせろよ」
「では」
その方法というのが、まさにコレットの取った行動そのものである。手切れ金かなにか、まとまった金をもぎ取ってくるようグレッグに言われているのだ。恩のあるジョゼフ、しかも故人となった彼の名誉を傷つけるような手段を選ぶなど、コレットにはずいぶんな勇気が要ったことだろう。
しかしその時にはもう、コレットの細い肩にかかっているのは妹の命運だけではなかったのである。
「呆れるくらい単純な手なのですがね。『金を持ってくれば、女衒に掛け合って妹を取り返してやる』という文章のずっと下に小さな字で『今までの相談料としていくら取り立てる』と書かれていたそうでして」
「アホらしぃー」
「それに気づかずサインしたコレット嬢は、今回の一件が失敗に終われば、妹さんともども仲良く娼館送りになるそうですさて、わたくしの仕事はもう終わりましたよ。彼女の目的を調べ上げましたからね。さて、これからどうしましょう。ジャン、あなたが自分で、あとはなんとかしますか?」
「まさか」
シャルルはくつくつと、心底面白そうに笑った。ジュールのほうがかえって困った顔をして、彼を見下ろした。ジュールには、自信満々の笑みのシャルルが何を言い出そうとしているのか見当もつかなかった。
「かつてこう言った奴がいた。『各人はその能力に応じて働き、その労働に応じて与えられる』ってな」
「と、おっしゃいますと」
「働いたら働いだだけ、ご褒美はもらえてしかるべき、って意味だろぉ? 今回は順番、逆だけどな。つまりアレだよ。このオレを顎で使う権利をお前はご褒美として頂いたんだから、もっとオレのために働いてくれたっていいんじゃねーのって話をしてんだよ」
「……全く。もっと別のところで、その弁舌を発揮してごらんなさい。あなたの未来はもう少し明るくなると、約束して差し上げますよ」
「嘘こけぇ。オレが喋れるようなところで、オレの長台詞に耳貸す野郎なんていねーよ。結局ジャン、お前は働いてくれるのかい? それとも、お前の中のオレは、これっぽっちで買い叩けるほど安い男なのかい? えぇ、どうなんだいジャン」
ジュールはしばしシャルルのことを、なるべく怖い顔をして見下ろした。だけれどシャルルは臆することなく、得意気な犬の顔でジュールを見返した。
嗚呼、馴れてしまった。これでは怖がらせることなど、よほどでなければもうできまい。
ジュールは、ため息をひとつ、ついた。
「わかりましたよ、ジャン……わたくしもグレッグには恨みがあったところです」
「さっきの同業者といい、お前って潰したいやつしかいないの?」
「そうだとしたら、あなたはとっくのとうにつぶれていますよ、ジャン」
「それはどう受け取ればいい? 悩むな」
「できるだけわかりやすく申し上げたつもりですが……なんにせよジャン、あなたにも働いてもらいますからね。ここで頑張ってくだされば、のちのちの労働が減るかもしれませんよ」
「オレはオレがやりたくて、できることをするだけさ。さぁ、相談を始めよう。長引いちまったな……珈琲はもうないぜ」
「『休憩』しながら考えましょう」
「いいねえ」
シャルルが物入を開ける。
相も変わらず、そこにはワインの瓶がごろごろ入っていた。
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