ジョゼフの遺物 上

 ジョゼフの葬式が終わって、暫く経った頃。

 ジュールのもとに1通の手紙が届いた。見覚えのある封蝋。気の利いた封筒。上等な便箋。差出人の名前を読まずとも、ジュールはありありとそいつの顔を思い出すことができた。どうせまた関わり合いになるだろうと思ってはいたが、こんなに早く再会することになろうとは。

 手紙にはこうあった。


「親愛なるジャン=ジュール・ボワモルティエ殿

 至急我が離れに来られたし。依頼有り。報酬要相談。詳細は珈琲を飲みながらお話したく。

 汝の友ジャン=シャルル・ド・ロタン」


 ***


「ジャン! 待ってたぜぇ!」

「お元気そうでなによりです、ジャン」


 離れというのは名ばかりで、誰も来ない別建ての書庫に最低限の家具を持ち込み住んでいる、この変人が自称「汝の友」シャルルである。友ではないが共犯者、あまり無下にするのもよろしくない。そういう都合でジュールは律義なことに、可能な限り早くただし常識的な時間帯で、正門を通らずこっそり裏から書庫に参上した次第である。


「じゃ、お湯もらってくるから」

「……至急の用事ですよね」

「手紙にも書いただろぉ。『珈琲を飲みながら』ってな」

「あなたが飲みたいだけでしょう」

「いひひっ、ばぁれた! 本でも読んで待っててくれよ!」


 止める間もなくシャルルは書庫を逃げ出して、軽やかな足音ばかりが耳に残った。まったく、黙って止まっていれば王子様の挿絵のごとく美しいのに、蓮っ葉な喋りと大きな声と、衝動的な行動のせいですべてが台無しである。溜息ひとつ吐き出して、ジュールは本棚を見上げた。何か面白そうな――ここで言う面白さというのは娯楽的な意味合いではなく実利的なそれである――本がないかと視線を走らせたが、すぐには見つけられそうになかった。そもそも背表紙だけでは内容の察しがつかない本が多すぎる。ジュールは仕方なく、手近な本を引っ張り出して、開いては戻し、開いては戻しした。


「ただいまぁ」


 手元の作業にすかり没頭していたジュールは飛び上がりそうになった。シャルルは気にしていないのか気付いていないのか、相変わらずの手際の良さで珈琲を入れ始めた。古い本の匂いと、コーヒーの香りがゆっくり混ざり合ってゆく。


「なぁジャン、なんか面白い本あったか?」

「……はい。大変興味深いものが」

「そっかそっか。はい、珈琲。お前のぶん」

「ありがとうございます。……さて、珈琲も出てきたことですし、本題に入っても?」

「ああ。いきなり呼びつけて悪かったな。手紙の通り、お前に仕事を頼みたくってさ。前はこう、なし崩しっぽいところあったけど、今度はちゃんと俺がお前に『依頼』する。勿論、金も払う」


 前回の共闘は偶然目的が一致しただけなので、特に金銭の受け渡しはないままに終わった。もっとも、「共闘」だと思っているのはシャルルだけなのだが。


「詳しく聞かせてください。言っておきますが、わたくしにもできることと、できないことがありますからね」

「お前じゃなくたっていいよ。お前のつてで出来る奴がいるんだったら、そいつを使ったらいい。金が要るなら、前金でいくらかやるよ。で、オレが何に困ってるかって言うとさ」


 その「困りごと」が始まったのは、ジョゼフの葬儀が済んだ直後だという。

 ロタン家の嫡男であり、なによりシャルル以外の皆から慕われていたジョゼフの死は、屋敷の空気をこれ以上ないほどに重たいものにしていた。

 そんな中、招かれざる客が現れたのだ。

 「客」は質素なドレスに身を包み、暗い顔をした女であった。彼女が発した言葉は、屋敷を一転、混乱の渦に叩き込むには充分なものであった。

 曰く、自分の胎にはジョゼフの子がいると。

 ジョゼフにはすでに妻も子もいた。潔癖なジョゼフが外に女を作るなど、彼を知るものであれば想像もできないだろう。皆嘘だと思ってはいたが、嘘と断じる証拠がない。さらに悪いことに、ジョゼフの死とこの騒動で、もともと体調の思わしくなかった当主が床についてしまった。もはや事態は収拾がつかなくなりつつあった。


「っつーわけで、毎日ガチャガチャやかましくてよぉ。オレもここから出ないで暮らすわけにゃあいかねぇから、ちょいちょい母屋に行ってるんだけどさ、そのたびに雰囲気悪くてかなわねぇったらないわ」


 深々と溜息をつくシャルル。言われてみれば所作のそのかしこに疲れが見て取れる。無神経なシャルルがここまで参っているくらいであるから、屋敷の騒ぎはそりゃあひどいものなのであろう。


「金は言い値で払う。それに、手段は問わねぇ……あの女の目的を、調べてほしいんだ」

「女を消してくれ、ではないのですね」

「オレもちぃとばかし気になるところがあってさ……その女、昔うちのメイドだったんだ」

「ほほう?」

「その女も兄貴に負けず劣らずの真面目ちゃんだったからよぉ。なんでまた、って思ってさ。個人的に気になるんだ。目的がわかればそれはそれで黙らせやすくなりそうだし、黙らせたら屋敷が静かになって、オレは満足」

「成程」

「で、この仕事、請けるか?」

「請けましょう、喜んで」

「そう言ってくれると信じてたぜぇ」


 シャルルはにいっと笑って、カップの縁を舐めた。


「金はいくら欲しい? 前金は? オレ、きっとお前が思ってるより金持ってるからさ。遠慮しないで言えよぉ」

「そうですね……」


 ジュールは顎に手指を添えて思案した。確かに、金はあればあるだけいい。その一方で、金で買えないとは言わないが、買うのが難しいものも世間には大いに存在する。

 特に、一介の商人の身分では。


「ジャン、わたくしお金はいりません」

「あァ!?」


 シャルルの柳眉がくわっと吊り上がる。「疑い」を絵に描いたらまさしくそうなりそうな形相で、シャルルはジュールに食ってかかった。


「おいおいジャンよぉ、お前も商人なら聞いたことくらいあるだろうが! かつてこう言った奴がいた。『只より高価いものは無い』ってな。金の代わりに、オレから何を搾り取ろうって腹だい、えぇ?」

「人聞きの悪いことを言わないでくださいな。お金の代わりに……ここの本をわたくしに貸して欲しいのです。勿論、きちんとお返しいたしますから」


 この書庫には、軽く見回しただけでも稀覯本が少なくない。ここが今はシャルルの私室であるとはいっても、その壁にはひと財産が眠っているのだ。金を払ってでもここから持ち出したいものを、早くもジュールは見つけていた。


「は? 本くらい只で貸してやるけど?」

「……はい?」


 今度はジュールが眉を寄せる番だった。

 シャルルのいう事には、使用人も含めた屋敷のもので、これほどに書物を愛してやまないのはシャルルそのひとくらいであり、時折兄のルイが孤閨を慰めるべく物語を借りていく程度らしい。それも週に1度もあれば、多いほうだという。


「そんなだから、何冊かお前に貸したってだあれも気付かねぇよ。あ、でもアレはダメだ。あの棚の右上、同じ作家で固めてあるところ。あの辺の本は貸せない」

「理由を伺っても?」

「ルイの兄貴が、いまハマって読んでんだ。続きがなくなったら困るだろ」

「……ほかに、気を付けるべきことはございますか」

「あとは好きに持ってっていいぜぇ。ちゃあんと返してくれるんならな」


 都合のよすぎる方向に計画が狂って、ジュールはしばし途方に暮れた。本は只で貸すから料金は別に払う、とシャルルは上機嫌に言った。我が家たる書庫に価値を見出されてうれしいのであろう。素直に金をもらっておくべきか。それとも。ジュールはいま抱え込んでいる厄介ごとを、端から順番に反芻し始めた。


「ありがとうございます、ジャン。近々本を借りにお伺いしますね。それが只でいいということですと……代金代わりに別のお願いをしても良いでしょうか」 

「内容によるね。オレがやりたくなかったら普通に金払っておしまいでいいだろ」

「実は今、蹴落としたい同業者がおりまして」

「詳しく聞かせて!」


 年相応の少年らしい笑みから、悪魔の微笑へ。短い付き合いでもよくわかる。シャルルはこういう、ぎすぎすした話が大好物なのだ。それこそ、娯楽小説の筋書きあたりを聞いているつもりなのかもしれない。


「大層用心深い男で、攻めあぐねていたのですが、最近ようやく弱みを握りまして」

「それで? オレに何を頼みたい?」

「その弱みを突くにしても、わたくしではやりにくくてですね。ジャン、貴方のような若いかたのほうが動きやすそうなんです。悪く言うと囮なのですが、少なくとも命にかかわる危険はありませんよ」

「本当かぁ? 命は助かったって、手足が足りなくなるような仕事、オレ、ヤだぜ」

「そういうのではないです。絶対安全といったら嘘になりますが、いいところかすり傷でしょう」

「ええと、若いのが動かしやすいんだっけ? ジャン、お前だって手広くやっているんだろうし、手軽に使える若いののひとりやふたり、抱えていたりはしないのか? そういうのにやらせたほうが、わざわざオレのご機嫌を伺うよりも安く済むだろぉ」


 シャルルの機嫌が、じわじわ悪くなってゆく。このままいくと、それは無しだと言われてしまいかねない。詰めの甘いシャルルのことだから、金はきっちり出してくれそうだが。


「……わたくしにも、勿論手下はおりますよ。しかし、所詮はいわゆるチンピラの鉄砲玉、勇気という名の無分別と腕っ節しか取り柄のない連中でして。貴方は違うでしょう、ジャン。貴方は毎度毎度『いいところは顔だけ』なんて仰いますけれどね、わたくし、ジャンにはもっと素敵なところがたくさんあると思っておりますよ」

「ふーん」


 困った。

 シャルルのそれは、いまいち信用していない顔だ。

 確かに、こんなにもまで報酬の受け取りを渋るのは、客観的に見てかなり変だ。

 逆転が必要である。


「念のため、一筆書きましょうか」


 墨壺、羽ペン、羊皮紙。自身の荷物から手早く引っ張り出してシャルルの返事も待たずジュールは書いた。内容は簡単だ。


・シャルルはジュールの仕事を一部手伝うこと。

・その際、シャルルは負傷しても自己責任とすること。

・ただし、ジュールの指示を遂行した結果、一定以上の重傷を負った場合は治療費をジュールが負担すること。


 奇妙なことに、仕事そのものの内容については、一切の言及がされてはいなかった。

 シャルルはしばし即席の契約書を矯めつ眇めつしていたが、声を出さずに頷いて、いつの間に出したのか自分のペンで、するすると小気味いいまでの筆致でサインをした。

 して、しまった。

 まさかサインをするとまで思っていなかったジュールは、柄にもなく額に脂汗を浮かべて、シャルルに問うた。


「サインしていただいた、決め手は?」

「そーだねぇ。怪しい書類なのはびんびんにわかってたぜぇ。でもこれってさ、オレの名前を使って勝手するってことはないんだろ?」

「さすがにそんな非人道的なこと、致しませんよ」

「どうだか!」


 無邪気ともいえる表情で、シャルルはかわいらしく笑った。

 気が気でないのはジュールである。

 正直に言ってもともとは、そういう内容も織り込んでしまうつもりだったのである。そうしたら、末席とは言えど貴族であるシャルルの名前をいいようにして、好き勝手できるようになる上、何かあったらお咎めはシャルルに向かう。あえてそれをやらなかったわけは、なんとなく、と言わざるを得ない。あまり条件を盛り込みすぎても不公平だ。次に活かせばいい。しかし、しかしだ。なぜ次があると思えたのか問われれば、ジュールは当たり障りのない回答を、困惑しながら無様に吐き出すことしかできなあったであろう。


「さて、これで商談成立でいいのかな? なぁジャン、このあと暇か? 一杯、やっていかないか?」

「生憎、わたくしはこのあと先約がありまして」

「ちぇえっ、つまんね。次は付き合えよぉ」

「次からは、お酒の時間込みでお手紙にしたためてくださいね」

「そんなんでいいの? オレ、マジやっちゃうよ?」

「さぁて、どうだか」


 幽かな笑い声を交わして、その日、2人は別れた。

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