第47話 最終話 雨のち晴れ
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向日葵の花は太陽の方を向くのだと誰かに教えてもらったことがある。それが誰であったのかは覚えていない。
夏の午後、陽炎の立つ路地に人通りは疎らであった。額に浮かぶ汗をハンカチで押さえて路地を曲がる。見知った公園が見えた。
緑の塊に近づいていくと、せわしない蝉の謳歌が更にその音量をあげたように聞こえてきた。
目先にある黄色い花が空を見上げている。玉置訪花は、目的地を間近にして空を見上げ、その眩しさに目を細めた。
何処かに何かを忘れてきてしまったような感覚。実際に忘れ物をしたわけでは無いのだが、心からは何かがスッポリと抜け落ちていた。
――私は何を無くしてしまったのだろうか……。
直ぐ側で、黄色い花が風に揺れる。気付けば、いつの間にか自分の背はその花を追い越していた。
幼少の頃の記憶とともにその家の呼び鈴を押す。家の中から「はーい」と元気な声が聞こえて少しホッとした。
コロリン。背中の方でグラスの中の氷が踊った。立ち込める線香の香り、立ち上る白い糸のような煙。見上げる先、天国に彼女はいるのだろうか。仏壇の前で手を合わせ、目を瞑りながらそんなことを考えた。
「ありがとうね、訪花ちゃん」
彼女の母親が笑顔を見せた。今もまだ悲しみの中にいるだろうに、傷など癒えていないだろうに。……それでも彼女は笑顔を作って見せてくれた。もう吹っ切れていると言わぬばかりに。
「本当に、馬鹿な子。困った人を見たら放っておけないんだから……。人助けなんて……自分が死んじゃったらどうしようもないじゃない」
困り顔で笑う彼女の母親。しかしそこに暗鬱さはなかった。
誰のことも恨むことの出来ない別れ。たとえ自から死地に赴く行為だったとしても。愚かなことだとは言えない。ましてや誰のせいにも出来ない。
欅が死んでから、計る事の出来ない時間が過ぎていた。
旅立ちは、今から二年ほど前の夏休みのことだった。吉野欅は、交通事故でこの世を去っていた。交差点で小学生の女児を助け、その身代わりになったのだ。
人はいつか死ぬ。そのことだけは平等である。
最近、隣町の高校生が立て続けに二人も亡くなったと聞いた。それらも事故だった。若者が死ぬことはやはり辛いことだ。死んだ者は帰ってこない。
――ピンポーン。
「あら? 誰かしら?」
呼び鈴が鳴り、彼女の母親が玄関に向かう。一人残された部屋で、欅の写真を見た。彼女はそこで満面の笑顔を浮かべていた。
「……欅」
帰りは、二人になった。彼女は隣町の高校に通う同級生。名前を宮本円香という。
訪花と共に手を合わせた彼女は、欅の事を戦友と評していた。
周囲に辛く当たられていた彼女を欅が助けたのが始まりだったそうだ。その後、標的が欅に移ったのだが、今度は円香が欅の味方になった。そうして二人で力を合わせて悪者をやっつけたのだという。
「それで? 円香ちゃん、その悪者は今は?」
「高校には入学したよ。でも、今は不登校になってる」
「え? まさか今度はその子が?」
「違う違う。誰も桐島華蓮に意地悪なんてしてないよ。ただ……」
「ただ?」
「周囲がみんな大人になった。そういうことなんだと思う」
「大人?」
「みんなさ、もともと意地悪なんて好きじゃないのよ。当たり前よね。そんなことやるのも見るのも気分が良いことじゃない。ほとんどの人は、やりたくてやっているわけじゃない。その時はただ、力の強い意見に流されているだけっていうか、どうしていいか分からなくなっているだけっていうか」
「うん」
「本当は、欅や私みたいに出来ればいいんだけどね」
「そうだね」
「今の桐島さんのことだって、みんなで仲間外れにしたわけじゃないのよ。みんな少しずつ大人になって、距離感が持てるようになって、普通になっただけなんだと思う」
宮本円香は言った。桐島華蓮の行動が特異なことなのだと。
人の嫌がることを平気で行う人間は人からも嫌われる。他人の心が分からない人間は、やがて周囲との間に軋轢を生みだし孤立を深めていくのだと。
――本当に不憫なのは桐島華蓮なのかもしれない。だが、本人が気付かぬ以上は救いようがない。そういうことなのだろう。
****
上弦の月を背にした社が黒い木々の合間に浮かぶ。丑三つ時に人影は無かった。
たった一人、厳かな空気の中に足を踏み入れたハルは、その大樹の前に立ち、幹に手を触れ、思いを馳せた。あの雨の日から今日まで色々なことがあった。……本当に色々なことが。
そこにあった悲しい事件の象徴はもうない。決戦の日に起こった運命の転換がその呪いを根から消し去ってくれていた。
「そのように寂しげな顔をするな。胸を張ってもいいと、私は思うぞ」
背の方から優しい声が降る。
「寂しさなんて……。僕は、良かったと思っているよ」
社の大屋根を見上げて笑顔を作る。そこには、柔らかく光るエメラルドの瞳があった。
「フン。どうだかな、その女々しさ、相も変わらずと思えるのだがな」
皮肉を込めて話し、その可憐は笑った。ハルは苦笑いを返して踏ん切りを付けた。
「仙里様、始めましょうか。仙里様の大刀をここに」
軽く眉を持ち上げ、仕切り直すように言った。そのハルの言葉に仙里がコクリと頷く。
仙里がこれまでに集めた魂魄は五つ、そしてハルがあの夜に玉置訪花から抜き取った魂魄が一つ。これで六つ全てが揃ったことになる。
黒鬼の呪いの正体はもう分かっていた。それは左方自身の恨みでも、右方の策謀でもなかった。古の戦において空へと放たれた黒鬼の力は、側にあった武者、大峰兼五郎義親の魂魄へと封じられ六つに分けられてしまった。それを仕組んだのは雨の一族の仕業であった。
「思いたくないものだな。よもや、八百年もの長きに渡って呪いの入れ物にされていたとは」
「雨の一族は、左方の力を封じる為に仙里様を利用した。大切な神器を手放してでも左方の封じ込めをしたかった」
「結果、私は魂魄の回収と解放を繰り返す輪廻に囚われた。か……。実に下らない」
「左方の封じ込めも、雨音女の殺害も、全て寓話を成ささぬ為。本当に下らないね」
「だがそれも、今夜限りだ」
「そうだね。全部今夜で終わる。仙里様の旅も、大峰兼五郎義親さんの救済も……」
話をしながらハルは下を向いた。一抹の寂しさが胸を過っていた。
「どうした、浮かぬ顔をして」
「いえ、何でもありません」
無理に作った笑顔が引きつっていた。しかしその顔を仙里に見られることは無かった。仙里の心はここにはない。その理由をハルは知っている。
嬉しそうに月を見上げる少女。僅かに頬に紅を差す彼女の顔を見れば、あの仙里が、こうも乙女の顔を見せるのかと落胆もするが、それも致し方なしと思う。
大峰兼五郎義親は八百年という長い時間、仙里が想い続けた人なのだから。
「それではいきますよ」
「お、おお」
仙里が、掛け声に応えて小躍りする。まったく、この少女はなんて愛らしいのだろうか……。
ハルは仙里に微笑みかけた。そして彼女から渡された大刀の名を呼んだ。
「
その
――的を外すことなんてない。僕が的外れなだけだ。
ハルは、己に嘲笑を向けた。
「いいぞ! 早くしろ」
はしゃぐように急かせる仙里。ハルは仙里の幸福を祈ってその胸を貫いた。
仙里の華奢な身体が金色に包まれる。その光の中で仙里は一筋涙をこぼした。
ハルは、仙里の胸から飛び出した魂魄を素早く雲華の水鏡に吸い込ませた。
これで後は、鏡の中に映し出された大峰兼五郎義親の魂魄をすくい上げれば万事が終わる。だが……
「仙里様、後は、大峰兼五郎義親さんの魂を解き放つということになるのだけれど……」
本当にそれでいいのだろうか。ハルは迷っていた。魂は、そのままでは今生に留まれない。解放してしまえば、それは直ぐにでも昇天してしまうだろう。
八百年も待ったのにそれでいいのだろうか……。
束の間の幸福を見ることが苦しい。
「なんでお前がそんな顔をするのだ」
「だって仙里様……」
「なんだ?」
「ずっと待ってたんでしょ? ずっと……。だけど、鏡から出してしまえば彼は直ぐに天に帰ってしまう」
「ハルよ……」
「はい」
「あの人は、もう随分と長い間苦しんだのだ。でもこれでようやく救われる」
「……仙里様」
「人の命というものは、失えばそれで終わりなのだ。だからあの日、あの戦場で散ったあの人の命はもう元には戻らない。これは、自然の摂理なんだよ」
「でも、それでもっ!」
ハルは食い下がった。それでも仙里は、何も言わずにその小さな首を振るだけだった。仙里の覚悟を見て口を噤む。これ以上は掛ける言葉が見つからなかった。ハルは銀杏を見上げた。今度は無言の大樹。サワサワと鳴らす葉擦れは、あの時とは違い何も語ってはくれなかった。
――僕は、仙里様に幸せになって欲しい。出来うるならば、大好きな人とずっと一緒にいて欲しい。
この手が、仙里とその思い人との縁を断ち切ってしまうのかと思えば、己の持つ力が恨めしい。再び仙里に悲しい思いをさせてしまうことが辛かった。
「ハルよ……」
「あ、ああ、はい」
「そう気に病むな。私は嬉しいのだよ。だから……」
気丈な顔を見せるが嘘だと思った。やはり仙里も辛いのだ。
ハルは覚悟を決めた。自分の感情や価値観で、仙里の気持ちを翻意させようとするのは間違いである。この戸惑いは、ハル自身のものであって仙里のものではない。やっていることは仙里の悲しみの時を長引かせているだけである。だから。
ハルは、雲華の水鏡に力を込めた。
雲華の水鏡が、その意に応えて光を放つ。
放たれた光の中に、見事な体躯の
目の前を少女が駆けた。白い小袖に紫色の可憐な花が舞う。
小袖の少女が、武士の胸に飛び込んでしがみつく。その喜ぶ顔を一目見て、ハルはそこから視線を外した。顔は意図せず微笑んでいた。
「義親さま! 義親さま、義親さま……」
子供のように泣きじゃくる仙里。その仙里を胸に抱いて優しい眼を落とす男。
「桔梗、俺に構うなと言ったはずだがな」
男は悪びれる様子も無く言った。
「だって、だって……。義親さま」
「困った奴だ。いつまでも子供で」
「子供ではありませぬ。桔梗はもう子供では」
「そうだな、桔梗……」
いって義親は、仙里の頭を撫でた。
「義親さま……」
「八百年、長いな。それでも良くやってくれた」
「はい」
「ところで桔梗、お前、名を変えたのでは無かったのか?」
「へ?」
「よもや、仙狸という妖に仙里と名付ける酔狂者がいるとは思わなんだが、それでもその名、なかなかに良いと思うぞ」
「義親様、あなた様は……全て、見聞きしておられたのですか……」
「ああ、そうだな。縛られていた時には、言葉を発することも、感情を表す事も出来なかったのだがな。それでも見聞きは出来ていた」
「左様でござりましたか」
「とにかく礼を言おう。これでようやく自分らしく振る舞うことが出来るようになった」
義親が腕を回し、首を回し、肩を揉んで、やれやれと相好を崩す。
「そういえば、義親さま?」
「ん? なんだ? 仙里」
「仙里?」
「仙里だろ? 今は」
「はあ」
「そこにおるのがお前の新しい主か? 確か、蒼樹ハルとか言ったな」
「な 何を、何を仰りますの?」
仙里は、義親の言葉に目を白黒させて戸惑っていた。
「おい、蒼樹ハルとやら」
大峰兼五郎義親がハルを見てニヤリと笑った。
「は、はい」
「大した奴だとは思うがな。まだまだその剣技は未熟。ならばこれからは覚悟致せよ。この俺が手ずから鍛えてやるからな」
「え? これから? 覚悟? あなたが?」
ハルは、何を言われているのか分からなかった。鍛えると言われても、手ずからといわれても……。もうすぐ成仏する人が何をいっているのだろうか。
「義親さま? そう言えば……」
「そう言えば何だ? 仙里」
「あ、あの……。その……。大変申し上げにくいのですが、天へと召されるのでは?」
「ああ、それな。どうやら逝けぬらしい」
「は?」
「なにせ八百年だからな」
「はあ……」
「そのように永い時を生かされて、どうやら俺も付喪神といったものになったらしい」
「はあ、左様で……って、えええええ!」
「そういうことでよろしくな! 仙里、そして蒼樹ハル。だがな」
突拍子も無い義親の言葉に仙里は固まっていた。不敵な笑みを向けられたハルも、何をどう対応してよいのか分からなくなっていた。
「あ、あの……。大峰兼五郎義親さん? 僕には、ちょっとこの状況がよく分からないのですが」
「その呼び方は少々不敬であるな。普通、真名は主君や親以外には呼ばせぬものでな。といっても今生ではそのような作法も時の彼方。今の場合は仕方なしといえるのだが、それでも俺を呼ぶときは大峰様、もしくは兼五郎様と呼ぶのが相応しい」
「はあ……。では兼五郎様、これはいったいどういうことですか?」
「おい、先ほど付喪神といったろ」
「つくもがみ?」
「なんだ、それも知らぬか、まったく……」
「父上、そいつは何も知らぬ馬鹿なのです」
「え? ちちうえ? ……」
「仙里よ、これがお前が名付けを許した主人なのか、これはもう呆れるも通り超すほどであるな」
「……父上、そうか、兼五郎様は、仙里様の……」
「おい、馬鹿ハル、何をそんなにニヤニヤとしている」
「いえいえ、なんでもありませんよ。仙里様」
夏の黎明は早い。いつしか空は紫色に明け始めていた。
蝉の鳴き声が聞こえ始める。暗がりを残す森の中で耳にする心地よい蝉時雨。
空に開けの明星を見つけてハルは微笑む。
晴れの一日が始まる。今日もきっと暑くなるのだろう。
人の寿命に比べて蝉の生涯は短い。妖怪の生に対して人の寿命も推して知るべしだ。だが、それでもいい。
――僕は今、妖怪に恋をしている。
ー完ー
《初稿》妖怪に恋した僕と英雄譚 -雨中の猫- 楠 冬野 @Toya-Kusunoki
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