美味しいすき焼き

銀文鳥

第1話

 わたしにとってのたまのご馳走といえば、兄さんが作ってくれる鳥のすき焼きと決まっていた。普段はわたしが作るけれど、すき焼きだけは別なのだ。


 そぎ切りにされ、砂糖醤油で甘辛く炊かれた鶏肉のむっちりした食感が、溶いた生卵と絡むとえも言われぬ美味しさなのだった。糸蒟蒻や玉ねぎ、えのき茸が一緒にあると、それらが旨味を吸ったり出したりして、なんとも言えない滋味溢れる味わいになっていた。

 兄さんはわたしにばかり食べさせて、自分は腹が減っていないから後で食べると言う。


 兄さんが栄養のつくものを食べさせてくれる日は、ほとんど必ず空き巣グループでの盗みを働いてきたのだということを、わたしは知っていた。

 お腹が減っていないのではなく、まるで獣の巣か穴ぐらのような家に帰ってきてもまだ気が休まらずに、胃が食べ物を受け付けないのだ。


 戦時中でもなんでもない、平和ぼけで腐敗している世の中では、砂糖も醤油も鶏も卵もありふれた食べ物だったけれど、今ではどんどん値段が上がっていて、わたしたちには手の届かない品になっていた。わたしたちは普段、パンの耳やもやし、安売りになった麺類、見切り品、フードバンクの食品を食べて飢えをしのいでいた。


 小学校を卒業してからほとんど学校に通っていないわたしは、毎日を図書館と家の往復で過ごした。本当は働いて少しでも役に立ちたかったけれど、細身で童顔のわたしには到底高校生と身分を偽ることはできなかった。


 ——わたしは声が出せない。けれど、生まれつきでもなんでもない。曰く、ストレスだとかトラウマがどうとか。なにが原因か、もう忘れてしまった。


 兄さんは、耳が悪かった。ある時聴こえ方がおかしくなったのだけれど、すぐに病院に行けなかったのだ。


『耳があんまり聞こえない方が、ほら、人の悪口とか苦しむ声を聞かなくて済むから』

 冗談じみて兄さんが口にしたそれは、手を汚し続ける自分への最大限の自嘲だった。


 わたしと兄さんは唇を読んで会話する。だから、食事中はお互いあまり話さない。

 家にテレビはない。ラジオも滅多につけない。その日の食事、命をつなぐ食べ物と目の前の肉親だけが、生活の慰めであり全てだった。


 鳥のすき焼きをつついていると、ふと、兄さんが笑った。

 首をかしげると、『お前があんまり美味そうに、真剣に飯を食べるからおかしくて』と言う。

『美味しいから仕方ないよ』と反論すると、兄さんがいつになく真剣な顔で聞いてきた。

『もっと、美味いものが食べたいか?』

 わたしは暫く考えた。

『本で読んだんだけど、すき焼きって、本当は牛肉で作るらしいよ。それがいつか食べてみたいな』


 そのとき無邪気にねだったことを、わたしは強く後悔している。





 ある日、兄さんが指を無くして帰ってきた。左手の、小指の第二関節までと、薬指の第一関節まで。バイトしている作業場での事故だと血の滲む包帯を巻き直しながら説明してくれたけれど、その顔は損傷の理不尽さをまるきり受け止めていて静かで、わたしは何もわからないまま全てを察した。


 兄さんは、もう普通の社会には戻れない。


 兄さんは右手で今までに見たこともない、上等そうな竹の皮でできた包みをわたしに見せた。


『これで、今夜はすき焼きにしよう』

 兄さんがそう笑顔で言うので、わたしも、引きつっているのを自覚しながら笑顔で応じた。


 手を怪我している兄さんに代わって今日はわたしがすき焼きを用意した。借りてきた料理本を眺めながら、いつもより丁寧に食材を切った。


『いただきます』


 一枚一枚がとても大きなその肉を生卵に絡めて口に入れると、絹のような歯触りがしたと感じる間も無くあっという間に溶けていった。

 赤く、幻みたいで、甘くて、美しい脂身が差している、薄くて大きな牛肉。


『美味いか?』と兄さんが聞く。今日は兄さんも一緒に食べている。


『……うん』


 ……この肉は、兄さんの指だ。

 指と今後の人生を犠牲にして、兄さんはわたしに牛肉を、他のたくさんの食べ物を食べさせることにしたのだ。


『おい?大丈夫か』


 それを思うと、美味しくて嬉しいのに、苦しくてどうしても涙が止まらなかった。

 わたしは兄さんを食い物にしている。

 その爪の先から、頭のてっぺんまで、食べつくしてしまうのにどれだけかかるのだろう。


 絶望的な思いをしている時でさえ、食べ物は美味しい。


 食べることができるうちに、わたしはわたしにできることをしなければならない。


 わたしは決意した。


 図書館でたくさん勉強して、頭のいい学校に進学して、口を利かなくてもできる仕事に就くのだ。


 それを伝えると、兄さんは少し辛そうに笑う。鎮痛薬が切れてきたのかもしれない。


『おまえは、そのままでもいいよ。こうして家事と料理を作ってくれるだけで……。でも、おまえに夢があるなら、応援するよ』




 わたしがその地域で名のある大学を修了して、翻訳家の道を進み始めたころ、兄さんが死んだ。遺体は損壊がひどいからと見せてもらえず、骨壷の中の灰になって帰ってきた。


 わたしは小さな家に、穴ぐらのような場所に帰ってきて、骨壷をちゃぶ台に置いた。


 カセットコンロの上に鍋を乗せ、鶏肉をそぎ切りに、ねぎと豆腐を切り、えのきをほぐし、こんにゃくの水を切り、砂糖と醤油を注ぐ。

 そして、器の中で生卵を溶いた。


『いただきます』


 食卓は、静かだ。

 もう、大きすぎる声になるのを恐れて、囁くような声で話す兄さんはいない。

 鳥のすき焼きも、もはやわたしにとって絶対的なご馳走ではない。

 甘すぎる兄さんの味付けにして童心に帰るのも、過ぎた感傷だとわかっている。


 わたしは兄さんと食事を続ける。兄さんの骨を、兄さんの希望通りに散骨するまでは。

 兄さんの骨は自然に還り、分解され、そのうちまた、わたしの口に入る何かになることもあるかもしれない。


 兄さんはそれを望んでいた。


 わたしは、骨壷に向けて、食べ切った鍋の中に向けて、手を合わせる。


『ご馳走様でした』

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美味しいすき焼き 銀文鳥 @silverbunchou

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