第12話:鬼人篇
おおよそ青春に似つかわしくない責任を背負う龍一郎を、この日初めて札問いの暗部に触れた少女はジッと見据えた。同じクラスの男子生徒と、例えば身長や相貌が大幅に違っている訳ではない。代打ちとして対峙した江藤と比較しても、容姿体格以外に納得のいく相違点は見付からず、眼前の少年は、何処にでもいる唯の少年であった。
「近江君はさ」要が問うた。
「どうして代打ちになったの?」
答え辛い質問だろう――問いを投げ掛けた本人は思い、返答にも多少の時間が必要だろうと考えていた。この推測が外れたのは二秒後である。
「馬鹿なんだろうな。俺は」
「……?」
快速の応答、慮外の返答は要の両目を大いに見開かせた。
「他人の諍いなんて首を突っ込むもんじゃないさ。何度も思ったよ、『何で俺が睨まれてんだろう』『この人に何にもしてないのに』って。その内に考える、夏休みが終わったら止めよう……学校祭が終わったら止めよう……そうしてズルズルと、だ」
でもまぁ、と龍一郎は頬を掻きながら言った。
「彼女と出会ったのも代打ちのお陰だし……これは特殊な事例だけど、俺にとっちゃ全部が全部最悪だった訳でもない。色々と嫌な目に遭いながら、それでも部室で代打ちの案件を待っている。馬鹿だろう?」
要の前髪が左右に揺れた。彼女はかぶりを振っていた。
「近江君は馬鹿じゃないよ。馬鹿は私だよ……覚悟も無いのに代打ちを引き受けて、株札だったら負けないなんて思い込んで、負けて、『かえって負けて良かったです』って嘘吐いて」
「友膳さんは勝ちたかったのか、闘技に?」
「分かんないな。半々かも。悔しいのと、ホッとしたのと……」
要は疲れた笑いを浮かべ、店内をふと見回した。次第に客が入り始め、喫茶店から一人、二人と行列が形成されていく。要と龍一郎は互いに見合わせ、空の食器を持って席を立った。
一八時を僅かに過ぎた頃、二人は駅へ向かって歩を進めていた。道中も龍一郎はある種の余裕を持って足を動かし、時折新しく建つビルのテナントについて悩んだり、恋人と行ったというレストランの感想を楽しげに語った。
「今日、本当に大丈夫だった? 彼女さん……」
嫉妬深い性格が災いし、あらぬ疑いから破局した友人の件が思い浮かんだ。龍一郎が二学年の女子生徒と交際している事は知っていたが、このような状況をもし目撃でもされれば、明日からの生活が面倒事で一杯となる。それだけは避けたかった。
「大丈夫だよ。彼女、こういう事で嫉妬しないし、何ならさっき連絡したんだ。『友膳さんと遊んでいる』って」
「ふ、ふぅーん……そういう間柄もあるって事かぁ……」
何とも開放的な交際もあるものだ……現実の恋を知らない要にとって、二人の恋愛観は大変な刺激となるであろう。
「それにしても、今日は色んな発見があって良かった。ドーナツは美味かったし、新しく商業ビルが建つのを知ったし――」
街灯に照らされた少年は、胸元から小銭の入ったポチ袋を取り出し、隣り合う少女に笑い掛けた。
「友膳さんが折り紙得意だって、知る事が出来た」
歴戦を経た同世代の代打ち。
他の男子生徒と同じだと思っていた彼。
何処にでもいるはずの少年の強み……感覚的に一端を掴む気がした瞬間、要は微かな鼓動の高鳴りを聴いた。好きな陶芸家の展示会の為に、たとえ次の日が仕事でも飛行機で向かう父親が、以前言っていた「写真だけじゃ駄目だ、現地まで行って、この目で確認しなければ見付からない魅力がある」という言葉の意味が理解出来たようだった。
「わ、私だって近江君の事、色々発見したからね!」
若干赤らむ要の頬を、しかし龍一郎は気付かない。薄紅より鮮やかな種々の人工的な光が、少女の微細な変質を塗り潰してしまった。
「へぇー? 教えて欲しいもんだな?」
「えぇっ? いやぁ……えーっと、あぁ、実はコーヒーより甘いものが好き、とか!」
俄に龍一郎の顔が強張った。
「な、何で……それを……!?」
「はっはっは! 私のバナナセーキをチラチラ見てたでしょ? 格好付けてコーヒー飲んじゃって!」
「仕方無いだろう……! ぶっちゃけ、コーヒーは苦手なんだが……その方が男らしいというか、そのぉ……」
ニヤリと要が笑う。形勢が逆転したようだった。
「分かったぞぉ……? 彼女さんの好みに合わせてんでしょ? いーや、絶対そうだ!」
「…………内緒で頼む。何か最近、あっちがコーヒーにハマったらしくて……俺だけ飲めないのも悔しいし、『僕ちゃん』とかって笑われるし……」
秋色の夜風は冷涼だが、一人で歩くよりも断然暖かいのは真に不思議である。会話が生み出す熱などはたかが知れており、そうなると心情の変化が生成する心理的な温みが最大の要因であろう。少女は友人達と連れ添う時と違った熱感を覚えていた。
駅ビルが見えてきた。側面には縦に長く伸びた電光板が設置され、そのまま巨大な温度計となっている。気温は一一度であった。
「あー……手ぇ冷たい」
「そうだな、俺もかなり冷たい」
揃って二人は両手を口元に寄せ、吐息を吹き掛けた。幾度も幾度も札を打ち、自身に関わりない人間の今後に関与した両手。丸めたその手は、しかし要の手を掴んで温める事は無い。要は龍一郎の恋人ではなく、また彼も特別な仲にない異性の手を取る程上手な男ではなかった。
駅に向かい、歩くだけの二人。
龍一郎は遠慮する要を半ば押し切る形で、列車が来るまで駅舎で待つと言った。男女の仲を超えた優しさこそが彼の強みであり――弱点でもあった。
「着いた着いた、と。えーっと……ダイヤに遅れ無し。一〇分もしないで来るとさ」
「近江君――」振り返る少年に対し、要は丁寧な一礼を以て感謝を伝えた。
「今日は本当に――ありがとう御座いました。クラスも違うし、彼女だっているのに、私の為に時間を使ってくれて……」
元来、友膳要は格式高い友膳家の令嬢としての一面がある。自宅や両親の連れて来る客の応対、また出掛ける先で「友膳家のご令嬢」に戻った。しかしながら……花ヶ岡で過ごす間だけは、「無鉄砲な要ちゃん」という気安い仮面を被り、好き勝手に暴れ回った。
周囲と比較しても十二分の資産、土地、血族を持つ彼女にとって、兼ね備えた要素が如何に妬みを生むかは百も承知である。故に花ヶ岡では親しい相手を除いて家族や家の話はしなかったし、骨身に染み込んだ「友膳家の品格」を徹底的に隠した。
金持ちを鼻に掛けるより、いつでも馬鹿をやれる人間の方が面白いし、友人を作りやすい……彼女なりの処世術であった。
「友膳さん……?」
少年が驚くのも無理は無い。彼の見知ったはずの少女は今、正体とも言えるご令嬢へと変貌したからだった。
「このように言っては、誤解を生んでしまうかもしれないけれど……」
柔和な笑みを浮かべ、要は言った。
「私。今日の事は、忘れない。――じゃあね、近江君」
惚けたような表情の少年を残し、友膳家の令嬢は改札口を抜けて行った。
人混みは一層増していく。帰路へ就く者、酒盛りに出掛ける者、待ち合わせる者達で駅舎は溢れた。
「…………あー、駄目だ駄目だっ」
龍一郎は自らの頬を叩き、喧噪の駅舎を出て行く。ヒリヒリと痛む頬は、だがその内奥から……僅かの熱気が込み上げている。
彼はまだ、青々とした少年であった。
株札&はいすくーるがーる! 文子夕夏 @yu_ka
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