冴えすぎちゃった彼女の愛しかた

ななみの

愛したい

 「めっ、恵っ」

 

 おもむろに、と表すには不似合いな上ずった声で呼び止められた。

 むしろ、呼びかけた声の持ち主は、"慎重"だとか、"ゆったり"だとか、そんな言葉とはほとほと縁遠くて、"そそっかしい"だとか、"五月蝿い"だとか、そういったマイナスイメージの言葉で評される方が適当だと言わざるを得ないわけで。

 心の中で、容赦なく彼、安芸倫也をこき下ろしながら、加藤恵は振り返った。


「どうしたのかな?」

「い、いや……だからだな」


 例えば、狼狽えながら斜め右隅に逸らす目線だとか、すぐに用件を伝えようとしない彼の態度だとか。散りばめられたあれやこれが、恵の不安を煽る。普段は明け透けに、不躾に、デリカシーの欠片もなく喋りまくるのに、なんて悪態をつきながら。

 会うことすらも久しぶりだったなあ、と恵は思った。誰が悪いわけでもない。就職すればこうなるのは元々わかり切っていたことだったし、彼のことだからきっと目の前のことに夢中になってしまうのも仕方ないし。だから、誰も悪くない。誰も悪くないくせに、誰かを悪者にしたがる自分が悪者なのだと、恵は思った。


「だからな、恵」

「だから……なんなのかな、倫也く……んっ」


 一歩こちらに踏み込んできた彼に、わざとらしく小首を傾げようとした瞬間、前髪をかき上げられた。

 彼の方が少しだけ身長が高い。だから、こうするには彼が屈むしかない。彼が屈むから、彼の顔との距離は一気に縮まった。


「たまには……こういうのもいいかな、って」

「だからっ……さあ。そういうことする時はさあ」

「うん……うん」

「前もって言ってくれないとさ……」

「うん……」

「嬉しすぎて、わたし、泣いちゃうんだからね……っ」


 その力強い宣言が、冗談でもなんでもないことは、恵の頬を流れ落ちる涙が確かに証明していて。

 

「嬉しかった……か」

「当たり前だよ。嬉しいに決まってるよ。嬉しいよ。好きなんだもん」


 確実に証明された主張を繰り返す必要があるかと問われれば、世の中を見渡してみても首を縦に振る人はかなり少ないに決まっていて。

 けれど、無意味な時間に意味合いを見出す心地良さを甘受できる状況も、確かにそこにあって。

 何よりも、その瞬間に世界に存在したのはふたりだけで。

 そして、そのふたりは首を縦に振ったに違いなく。


「寂しいって思ってたのは俺だけじゃなかったんだな」

「……倫也くん、わたしを何だと思ってるのかな? わたしがそんなに強い女の子だと、本当に思ってるのかな?」

「それは……ごめん」

「だからあ、今謝っても仕方ないんだって」

「うん……ごっ……」

「……また、ごめんって言おうとしたでしょ」

「うっ……ごめん」

「だからぁ! もう寂しい思いしたんだから……っ」


 抱きとめられて、包まれて、温められて。彼の胸に鼻先がぴったりと引っ付いた。

 柔軟剤の匂いがするなあと思った。けれど、恵は柔軟剤の香りでこんなにも甘くて、優しい気持ちになったことはこれまでで一度たりともなかった。

 つまり、行き着く結論は一つしかなかった。


「倫也くんのせいなんだよ」

「……うん」

「倫也くんのせいで、倫也くんのせいで……」

「うん」

「三ヶ月放ったらかしにされても、抱きしめられるだけで全部許しちゃうような女の子になっちゃったんだよ」

「……俺、許されたの?」

「今離したら許さないから」

「嫌だよ。離したくない」

「倫也くんさぁ……あんまりわたしを放っておくと、他の男の人のところ行っちゃうよ? わたし、どっか行っちゃうかもよ?」

「だから離さないって言ってるだろっ! ずっと……ずっとだからさ……っ」

「倫也くん……」

「恵がどっか行きたいって言っても知らない。離したくないから離さない」

「本当に?」

「本当だよ。本当だからさ、だから……どっか行くとか言うなよ……っ」

「……っ」

「冗談でも、嘘でも、ちょっときつい……な。……何言ってんだろ俺。三ヶ月も放ったらかしにしてたの俺なのにな」

「……ねえ」

「う、うん?」

「全部、なかったことにしよ。あなたがわたしを抱きしめてくれてからの会話」

「で、でも……」

「だからぁ……忘れさせてって……っ」


 最後の一言はくぐもった声じゃなくて、その代わりに細々とした声で、しかし猛々しい願いだったけれど。

 それを望んでいたのは彼女だけではなく、彼もまた同じで。

 ちょっとだけ先に彼女が口を開いただけのことだった。

 目を瞑っていたから、迫ってくる彼の顔は見えなかった。彼以外の声は耳に入らず、その彼も何も喋らなかったから、つまり何も聞こえなかった。

 恵の瞼の裏に倫也が映った。朗らかに笑ってる倫也がいた。情けなく泣いてる倫也がいた。喜怒哀楽が移ろって、最後には目を閉じて迫り来る彼の表情が浮かんだ。笑ってはいないけど、幸せそうだった。幸せであってほしいと願った。

 体は彼に預けた。行先も彼に任せた。

 

 キスは気持ちいい。そんな単純な定理が脳裏を過ぎったところで、恵は微睡みの中に落ちていった。


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冴えすぎちゃった彼女の愛しかた ななみの @7sea_citrus

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