三十三話「FAKE ANGEL」

 突然顔を出した猫型の天使に悠は戸惑った表情を浮かべていた。

 しかし、誰なのか訊ねる事も出来ずにただ沈黙する事しか出来ないようだった。悠は内弁慶な上に人見知りなのだ、結局の所。

 微苦笑してから香苗はのぞみの事を軽く説明してみせる。

「この天使の人はのぞみ・みどりいろさん。前にこの人からチラシ配りの仕事を請け負ったんだよ。それからはちょくちょく話をさせてもらったりしてる。仕事してる地域が近いからな、結構顔を合わせる機会があるんだよ」

「あ、ああ、そうなのか。ええと、私は……」

「ハルちゃんだろ? ちょっと話が聞こえてたから知ってるよ」

「あ、そうです、ハルです。よろしくお願いします」

 正確には悠なのだが、悠自身には訂正する意思はないらしい。初対面の相手に自己主張する度胸も無いのだろう。悠がそれでいいのなら香苗に言うべき事は何も無い。白くて柔らかい背中を撫でながら香苗はのぞみに訊ねてみる。

「ところでいきなりどうしたんですか、おばちゃん?」

「二人の話が聞こえてね、これはおばちゃんの出番だって思ったわけさ」

「話って言うと……、処女膜の話ですか?」

「そう、その処女膜の話さね」

 うら若い女二人で処女膜の話をしていたらそれは気になるだろう。と言うか、公園のベンチで恥じらいも無く処女膜の話をしていた自分がちょっと恥ずかしい。聞いていたのがのぞみだったからよかったものの、変な男の耳に届いていたらセクハラの一つや二つされていたかもしれない。慎むべし慎むべし。

 しかし、結果的にはよかったのかもしれない。猫型の天使ではあるもののこの話しぶりからするとのぞみは天使の処女膜の事情について詳しそうだ。この機会に遠慮なく聞かせてもらう事にしよう。

「おばちゃん、率直に訊きます。天使の人って処女膜あるんですか?」

「どの系統の天使かにもよるね。でも、そうだね、めのうさんって言ったっけね? その天使は香苗ちゃんに近い系統の天使なのかい?」

 香苗に近い系統、つまりヒト型の天使という事だ。香苗は首肯する。

「それなら断言出来るよ、二足歩行型の天使に処女膜は無いよ。逆に処女膜がある天使は水の中に棲んでる天使だね。こっちの世界で言う鯨や海豚に似た天使は処女膜を持ってるんだ。これでもおばちゃんはあっちの世界に詳しいからね、間違い無いと思うよ」

「そう言えば聞いた事があります。と言うか、さっきネットで見た事なんですけど」

「知っているのか、カナ」

「妙な茶々を入れるな、ハル。とにかくさっき見たんだよ、水生動物は膣内に水の浸入を防ぐために処女膜を持ってるって」

「じゃあどうして人間は処女膜持ってるんだよ。棲んでないぞ、水の中なんか」

「それについてもオカルト好きな中学生らしい慧遠から聞いた事がある。人間は類人猿と比較して明らかに体毛が少ないだろ? それは長い間水の中に棲んでたからじゃないかって説があるらしいんだ。それで処女膜も進化していったとは考えられないか?」

「本当かよ、その話」

「知らないし単なる仮説だよ。それなら人類と全く別の進化を遂げた天使の人に処女膜が無くてもおかしくないってだけだ。別にあたしはオカルトとか興味無いし、進化論だってどうでもいいんだ。そんな事より重要なのは、めのうさんが処女だった可能性が高くなったって事だろ?」

「それもそうだな。処女であれば男と交尾していた事実は必要無いわけだ」

 しかし、そこで香苗と悠は押し黙った。

 めのうは十中八九処女だろう。ヒト型の天使に処女膜はそもそも存在しない。香苗達の調査の前提自体が変わってくる。めのうと性交していた男もまたそもそも存在しなかった事になる。だが、膣内に残されていた精液はどうなる? やはり処女受胎の為に奇蹟みたいに精液が突然現れたのか?

 いや、と思う。故に訊ねてみる、のぞみに。天界に詳しい世話焼きおばちゃんに。

「おばちゃん、もう一つ訊きたい事があるんですけど、いいですか?」

「物知りのぞみおばちゃんに何でも訊いとくれよ」

「処女受胎って話、知ってます?」

「……何だっけ?」

 のぞみが首を傾げ、しばらく前足で顔を洗った後に明るい声を出した。

「思い出した、こっちの世界の神話にある話だろ?」

「そういう事って天界でも起こるんですか?」

「いやいや、関係無いよ、そんなの。だってそれキリスト教の話じゃないか」

「そうですよね……」

 のぞみの言う通りだった。のぞみは天使だがキリスト教の天使ではない。

 同様にめのうもこはるもキリスト教の天使ではない。

 似ているだけで別種の生命体なのだ。

「するってえとどうなるんだよ、カナ」

「おばちゃんの話の通りだよ、天使の人に処女受胎なんて起こらない」

「それは分かってるよ。それでめのうさんの膣内にどうして精液が残ってるんだ」

「精液は急には現れない。当然、射精した奴が居るって事になる」

「でも、めのうさんは処女だから交尾してないんだろ?」

「性交してなくても射精は出来る。それこそ一人でだって精液は出せる。……あっ」

「……うえっ」

 二人して絶妙な表情を浮かべる。思い付いてしまったのだ、想像したくない事を。

 香苗はげんなりした表情で悠に訊ねてみる。

「ハル、今おまえ何を思い付いた?」

「カナこそ何を思い付いたんだよ」

「処女のめのうさんの膣内に精液を残す方法だよ」

「奇遇だな、私もだ」

「この方法なら全ての疑問が解決する。蒼鬼に調べてもらえば事件も多分解決だ」

「つっても、カナ。マジでやったと思うか、こんな事」

「やったんだろう。中二病なんだ、あたしだって中二病当時ならやりかねない。例えば普通の中学生でも、黒魔術の道具の為に鳥の死体や兎の生き血くらいだったら集めるかもしれないだろ? めのうさんにその感覚が無かったとは言い切れないじゃないか」

「怖いな、中二病ってやつは……」

 怖い、確かに怖い。

 そして、香苗はその動機にも一つ心当たりがあった。

 天使達が口にするのを何度も聞いた事がある言葉。

『天に還る』

 確証は無い。だが、恐らくはその為にこそめのうは行動せざるを得なかったのだ。

 ここではない何処かに行く為に。

 存在自体を知らない天界を夢見て。

 しかし、残念ながら、そんな世界など何処にも無いのだ、きっと。

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素晴らしきかな新世界 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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