三十二話「VIRGIN CODE」
平和公園のベンチに座って待っていると複雑な表情の悠が姿を見せた。
蒼鬼が連絡してくれたのだ。その蒼鬼の姿はもう無い。先刻聞いた蒼鬼の言葉が本当なら、今でも整形手術の借金に追われて忙しいのだろう。そんな状態でも香苗と話してくれた蒼鬼に、香苗は感謝するしかない。無論、面と向かっては言えないけれども。
「よう、もういいのか、カナ?」
悠は香苗が何故逃げ出したのかについて問わなかった。
人の心に踏み込まないのだ、悠は。いい意味でも、悪い意味でも。それはほんの数年後、婚約者と結婚して今の交遊関係と完全に縁を切るしかない未来を恐れての事かもしれなかった。深入りすると別離の時に名残惜しくなってしまうのは分かり切っているから。それで悠は誰にも深入りしないのかもしれない。
悠はきっと幸福なはずだ。全人類を上から並べて二割の内に入るくらいには、悠の実家は裕福だろう。悠はそれほどの家柄に産まれた。正直、変われるものなら変わってほしい気持ちはある。しかし、悠は間違いなく窮屈だった。決まっている未来、本心を決して見せられない同等の家柄の同級生とのやり取り、更に上の家柄には決して敵わない劣等感、貧しい者からのルサンチマン、雁字搦めで窒息してしまいそうなほどだ。悠はそんな籠の中の幸福で飼われている。
それについて香苗には何も言ってやれそうにない。家を捨てろとも、窮屈な幸福に満足しろとも言えない。香苗もまた悠の人生にそこまで踏み込めない。香苗は香苗自身の人生で精一杯なのだ。無責任に他者の決断に関わる事など出来ない。口だけで他人の背中を押しても、自分勝手で無責任な自己満足に浸るだけの事なのだから。
だから、香苗は軽く笑って応じるのだ、悠との適切な距離感を見誤らずに。
「ああ、面倒掛けたな、ハル。もう大丈夫だよ」
「そうか、それならいいんだけどな」
悠もまたベンチに腰掛けて香苗の隣に座る。
距離にして約二十センチ。近くも遠くもない。それが香苗と悠の距離だった。
「それで、これからどうするんだ、カナ? また聞き込みに戻るのか?」
「聞き込みも悪くないんだけど、蒼鬼と話しててちょっと思い付いた事があるんだよ」
「何だよ、思い付いた事って」
「ハル、おまえ処女膜ってあるよな?」
「何言ってんだテメー……」
「あれっ、お嬢様だから知らないか、処女膜だよ処女膜」
「いや、知ってるよ、それくらい。いきなりそれを話題に出すのに呆れただけだ」
「あたしとハルの仲じゃんかよ」
「どういう仲だよ。色んな意味で誤解されそうな発言はよしてくれ」
心底呆れた表情を向ける悠だったが、香苗が冗談を言っているのではないと気付いたらしく、頭を掻きながら少し頬を染めて答えてくれた。
「あるよ、処女だからな。お嬢様は結婚するまで清い身体でいなくちゃいけなくてな。知らない内に誰かに破られてでもしない限りまだ処女膜は残ってるはずだ。いや、処女膜が本当は膜じゃなくて襞だって事くらいは知ってるぜ?」
「ご返答痛み入るよ。ちなみにあたしも処女だよ。今時処女にほとんど意味が無いって事は知ってるけど一応守ってる。一人でする時も傷付けないように気を付けてる」
「さりげなく一人でしてる事を告白するな」
「いや、誰だってするだろ、普通」
「私はした事ないぞ」
「本当に?」
「しようと思った事もない」
「マジか、本当に良家のお嬢様なんだな、ハルは」
「良家のお嬢様って事が関係あるのかどうかは分からねえけど」
「まあいいよ、とにかくあたしたち二人ともいい歳して処女だって事だ」
「それがカナの思い付いた事とどういう関係があるんだよ」
「めのうさんの事だ」
「そうだろうな。私達がこれからしなきゃいけないのはその天使の人の調査だからな」
「めのうさんの膣内には精液が残っていたらしい」
「いい歳して処女の私達とは違って、いい人と交尾してたんだろうな」
「あたし達はその相手を探してる。めのうさんの自殺に関わってる可能性が一番高いからだ。ところがその相手の姿は全く見えてこない。めのうさんと何度も性行為を行っているはずなのに足取りすら掴めない」
「天使だけに処女受胎みたいに突然精液が現れたってのかね」
「あたしもちょっとそう考えた。でも、もっといい可能性を思い付いたんだ」
「どんな可能性だ?」
「詳細は省くが、さっきあたしは蒼鬼に天使か悪魔と付き合ってみる気は無いのかって訊いてみたんだよ。あの女好きの蒼鬼だろ? 天使の人か悪魔の人と付き合っててもおかしくないじゃないか」
「まあ、あの蒼鬼だからな。それで?」
「蒼鬼は言ったよ。天使の人や悪魔の人は宇宙人みたいなものなんだって。見た目は人間とよく似てても、その内臓や体内に住んでる微生物が一緒だとはとても思えないってな。それで付き合う気が起きないそうだ」
「言葉は悪いが私もそれには同意見だな。天使の人には問題無くても人間に触れたら致命的な細菌に感染させられたら目も当てられない。友達として付き合うのはいいけど、肉体関係まで持つような関係になるのは勘弁だな」
「そういう事なんだよ、ハル」
「だから、どういう事なんだよ」
香苗は言葉を止めた。勿体ぶっているわけではない。考えをもう一度まとめるためだ。恐らくはこれこそがこの事案について香苗達が根本的に間違っていた点なのだ。固定観念に囚われ過ぎていたのだ、香苗も、悠も。
一度深呼吸してから、香苗はもう一度喋り始めた。
「さっきちょっとスマホで調べてみたんだよ、処女膜の事」
「それはまた思春期の中学生みたいな事をやったな」
「処女膜は類人猿には無いらしい」
「……何だって?」
「無いんだよ、類人猿には。あんなに人間に近い動物なのに、処女膜を持ってないんだ」
「おいカナ、つまりめのうさん、いや、天使の人は……」
「人権問題になるからか流石にそこまでは公式には書いてなかった。確かめた人自体が居ないのかもしれない。だけど、その可能性がある。天使には処女でなくても処女膜が存在しない可能性がな」
「めのうさんが……、処女だったってのか?」
「なあ、ハル。めのうさんのネットでの発言見てて感じなかったか?」
「何をだよ」
「インターネットで膨大な発言を残し、『阿呆船』なんて小難しい言葉を何度も書き残していて、そう目立つ方の天使でもなかった。むしろそんな自分だからこそ自らを特別な存在だと思おうとしている節があるとは思わないか?」
「……中二病だな?」
「そうだ、中二病だ。中二病は人類だけが発症するのかと思っていたが、天使の人でも発症するみたいだな。まあ、これは育った環境の要因が大きいからな。あたしだって中二の頃は例に漏れず発症してた。ハルだってそうだろ?」
「まあ、リストカットに憧れた事くらいはある。憧れただけで実践はしなかったけどな」
「やめとけ、リストカットなんて痛いだけだよ。とにかくめのうさんは人間みたいに中二病を発症してた。しかも発言を見る限りはかなり重度だ。こんなめのうさんが簡単に処女を喪失すると思うか? 普通はいっそ処女を守り切ろうとするもんじゃないか?」
「なるほどねえ」
唐突に聞き覚えのある声が香苗の耳に届いた。
一瞬後、膝の上に重さを感じる。どうやら飛び乗られたらしい。突然の事に変な声を出しそうになったが、膝の上の見慣れた姿を目にした香苗は小さく嘆息した。
「チラシ配りはいいんですか、おばちゃん」
「一休みさ。それくらいはおとっちゃんも許してくれるさね」
翼を包み、香苗の頬にその顔を寄せるその姿は普通の猫にしか見えない。香苗の膝で口元を笑顔みたいに歪ませたのぞみは、「話はおばちゃんが聞かせてもらったよ」と低いとも高いとも言えない独特な声を響かせた。
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