三十一話「迷宮バタフライ」
「整形……?」
言葉自体は知っていた。実際にそれを行う技術や手術も存在自体は知っていた。
しかし、実際に整形手術を施したと自称する人間に会うのは産まれて初めてだった。
「整形したのか、その顔?」
「ああ、そうだよ。整形したんだ、あちこちから借金してね。どうしても自分の不細工な顔を変えてやりたかったんだよ。世の中ってのはまず外見だからさ、それをどうかしない限りは恋の一つすら成就させられやしない」
そんな事は無いとは香苗も言い出せなかった。
蒼鬼は香苗より遥かに多くの現実を目の当たりにしている。
香苗が何を言ったところで空々しい戯言にしか過ぎない。
「それで整形してみたらさ、世界が完全に変わったんだよ。十五歳の女の子に言うのも何だけど気になってる子と付き合うのも童貞を捨てるのも簡単だった。俺の悩んでた事は、努力してた事は何だったんだって思ったね。自分の顔さえ変えてしまえば、恋愛やセックスなんてのは簡単に手に入るものだったんだ。本当に欲しい恋があるなら自分の顔なんて捨ててしまうのが近道だったんだ。俺みたいな不細工にはね。まあ、その整形手術のために作った借金があるから、今も情報屋なんて危険な橋を渡ってるわけだけど」
「危険な橋、渡っているのか?」
「ああ、危険だよ。命の危機を感じた事なんて三回ある。おっと、よくある危機と一緒に考えないでくれよ。本気で心の底から命の危機を感じたのが三回なんだ。香苗ちゃんはあるかい? 心の底から命の危機を感じた事」
「いや……、無いな……」
漠然とした不安や危機感は香苗だっていつも感じている。しかし、その程度の感覚とは一線を画しているのだろう、蒼鬼の感じた生命の危機は。それこそコンマ一秒の判断ミスで命を失ってしまうほどの。
「だから、香苗ちゃんにも知ってもらいたかった。香苗ちゃんがどんな仕事をしてるのかって事をさ。これは金の無い先輩として言わせてもらう事だけど、今からでも高校に通ってみる気は無いかい? 一年遅れで高校生になるのに抵抗があるなら大検って選択肢もある。お金が無くったってそれくらいは出来るんだよ、この国では。裕さんだってそれくらい香苗ちゃんにしてあげたいって思ってるはずだ。それでも、何でも屋の仕事を引退する気持ちは起きて来ないかい?」
蒼鬼の真剣な表情が痛かった。自分が何も分かっていなかった事を自覚させられる。
そう。蒼鬼の提案は恐らく正しいのだろう。裕の役に立ちたいからと言って危険な仕事を続けなければならない理由は何処にも無い。むしろ裕を心配させないためにもこの仕事から降りてしまった方が誰のためにもなるのだろう。
けれど、香苗の口から出たのは自分でも予想外の言葉だった。
「いや……、やめられない……な」
責任感からではない。意地から出た言葉でも無い。香苗自身すら何故そう思うのか分からない。それでも思うのだ、この仕事から降りてしまうわけにはいかないのだと。少なくともうさぎとこはるとの事に何らかの答えを見つけるまでは。
「そうかい……。じゃあ、しょうがないね」
残念そうという様子もなく蒼鬼は頷いた。
蒼鬼としてもどちらでもよかったのかもしれない。蒼鬼は先輩として危なっかしい後輩に助言を与えたかった。その後輩が何を選択しようと、それは後輩の意思で選択されたものでしかない。そういう事なのだろう。
「なあ、蒼鬼……、いや、誠さん……か?」
「いきなりさん付けとかどうしたんだよ、香苗ちゃん」
「明らかに偽名の蒼鬼ならともかく、年上の男の下の名前を呼び捨てで呼べるほど面の皮は厚くないんだよ、あたしは」
「連は呼び捨てで呼んでなかったっけ?」
「あいつはいいんだよ。語呂がいいし、連って感じだし」
「まあね。でも、それなら今まで通り蒼鬼って呼んでよ。今更本名で呼ばれても気恥ずかしいし、一応偽名には偽名なりの理由もあるからね」
「それなら蒼鬼、不躾だと思うけど幾つか訊いていいか?」
「いいよ、今日は香苗ちゃんと色々話すために来たんだから。それで?」
「さっき言ったよな、金で愛を買いたい気持ちが分かるって。蒼鬼の場合はちょっと違うけど、金で整形した顔で愛を手に入れたから似た様なものって事だったんだな。それで訊きたいんだよ、整形した顔で童貞を捨ててみてどう思った? どう感じたんだ? こんな事訊くべきじゃないんだろうけど、出来れば教えてほしいんだよ」
香苗は真剣な表情で蒼鬼に訊ねた。思えばこれほど真剣な表情を蒼鬼に向けるのは初めてだったかもしれない。同士だと感じたからかもしれなかった。どんなに手を伸ばしても手に入らない物を望んでしまった者同士。
「嬉しかったよ」
自嘲気味に蒼鬼は呟いた。
「嬉しかった。周りの奴等よりだいぶ遅かったからね、これでやっとあいつらと同等になれたんだって思ったよ。調子に乗って四股くらいした事だってある。女の子を口説く方法はずっと勉強していたから付き合うのは簡単だった。セックスだって簡単だった。無茶なプレイだって要求すれば応じてもらえたよ。それもこれも俺の顔が良くなったからさ。俺の顔が良くなったおかげで、手の届かなかった女の子達が幾らでも手に入るようになった。我が世の春が来たって感じさ。もう女に不自由する事は無いって思うと有頂天だった。嬉しかった。だけどね……」
蒼鬼の声色が沈んでいく。忌まわしい過去を思い出しているかの様だった。
「女達を抱いていてもいつも思うんだよ。女達が求めているのは俺が金で手に入れたこの顔なんだってね。それこそ買春と同じさ。金で手に入れたものに群がるか、金そのものに群がるか、その程度の違いでしかない。素のままの俺が愛されているわけじゃない。そう思うと虚しくなったよ。それはA子さんもきっと同じなんじゃないかな」
「やっぱり……そうなるのか?」
「そうなるよ。A子さんだって出来るなら金を払わず、うさぎちゃんと付き合いたかったはずさ。勿論、買春の金をケチってるって話じゃない。金銭が介在しない関係で自分自身を愛してほしいんだ、本当は。陳腐な言い方だけど素の性格とすっぴんの自分を愛してほしいんだ。それが誰にとっても本音のはずだよ。だけど、そんな事が出来るはずもない事だって分かってる。A子さんには同性愛者って負い目がある。俺にも不細工って負い目がある。その差は大きいって思われるかな? だけど、生まれ持った負い目って意味ではどちらにも貴賤は無い。貴賤があるとは言わせない」
持たざる者なんだ、と香苗は感じた。
蒼鬼も、A子も、恐らくは香苗自身も。
香苗には裕から愛される自信が無い。妹としてはともかく恋愛対象として愛されるとは到底思えない。だからこそ服装だけは可愛らしくして、裕の前では精一杯可愛らしく振る舞って、高校にも行かず裕の仕事の手伝いをして、叶わない想いを抱いているという負い目を消したかったのだ。
そして、思う。それはA子の買春と何が違っているのだろうかと。
負い目を消すため金銭を介在させる……、香苗がしている行為もまさしくそれだった。
家計の足しにするために姉の仕事を手伝うと言えば聞こえはいいが、その実は姉に対する欲情の負い目から生じた行為でもある。姉にいい妹だと思われたかったのだ、香苗は。無論それだけがこの仕事を続ける動機ではないが、きっかけの大きな一つであるのは間違い無かった。
だからこそ、香苗はうさぎの売春に胸の痛みを感じてしまっていたのだ。例えば裕が売春を行っていたとしたら、幾ら払ってでも買いたい香苗が居るのは確かだから。
「香苗ちゃんの訊きたい事はそれで終わりかな?」
香苗が押し黙っていたのを質問の終わりと捉えたのだろう。蒼鬼がわざと明るい声色で訊いた。神妙な会話はこれで終わりにしようというわけだ。神妙になったところでもうどうにもならない事なのだと蒼鬼も分かっているのだ。
「最後に、もう一つだけ」
「何だい?」
「蒼鬼は天使や悪魔の人と付き合おうと思った事は無いのか?」
「いきなりな質問だね」
「いや、ちょっと思ったんだよ。蒼鬼は人間の女には見向きもされなかったかもしれない。それでもあたし達の周りには、求めれば応えてくれる天使の人や悪魔の人が居るだろ? その逃げ道に飛び込んでみようと思わなかったのかって気になったんだよ、そう、A子って人みたいに」
「まあ、そうだね……。確かにそういう選択肢もあったかもしれない。だけど俺の中にその選択肢は無かったよ。あくまで付き合いたいのは人間の女の子だったし、天使や悪魔が俺に与えてくれる愛は全然違うものだって気がしたからさ。基本的に宗教の勧誘と同義じゃないのかな、あの人達にとっての愛の定義は」
「それは蒼鬼の言う通りかもな、あの人達の愛は人間の愛とはかなり違ってるしな」
「それとさ」
「どうした?」
「言葉は悪いけど、俺にとって天使や悪魔の人って宇宙人みたいなものなんだよ。どれだけ人間に似ているからと言っても、宇宙人とセックスする気は起きないね。性器だって本当に人間と一緒かどうかも分からないのに」
確かに言葉は悪いが蒼鬼の言う通りではあった。
科学者ですら天使や悪魔に配慮して彼等の死体をろくに解剖すら出来ていない現状なのだ。人間に似ているとしても、その内臓が人間と寸分違わない可能性はどれほどだろう。例えば悪魔の女性器の奥に男性器を切断する機能を備えてあっても何もおかしくはないのだ。その様な事例を耳にした事は無いから流石にそれは大袈裟な例えだとしても。
瞬間。
香苗の脳裏に一つの考えが浮かんでいた。
めのうの事だ。性器から謎の精液が発見されたというめのう。単純に考えれば誰かと性交していたのだろうが、本当にそうなのだろうか。性交以外の理由で精液が発見される可能性がゼロだと言えるだろうか?
思い付いた時には口に出していた。恐らくはこれがこの案件の重大な要素なのだ。
「蒼鬼、いきなりだけどめのうさんについてもう一つ調べてくれないか? それは……」
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