三十話「純潔パラドックス」

 どうすればいいのか分からない。

 まさか人目もある平和公園のベンチで突然組み敷かれる事は無いだろうが、その腕力に任せて物陰に連れ込まれる可能性は十分にあり得た。蒼鬼の腕力に小柄な小娘である香苗が抵抗出来る道理は一つとして存在しない。大体にして本気で蒼鬼を殴って少し痛い程度の負傷しか与えられないのだ、香苗の腕力は。甘え過ぎていたとしか言いようがない、蒼鬼のこれまでの無抵抗主義に。

 犯されてしまうのか?

 自分が蒼鬼に組み敷かれて貫かれる姿を香苗は想像する。

 寒気がする。鳥肌が立つ。何より快感を得てしまうかもしれない可能性が恐ろしい。自分は荒淫な性質だと香苗は自覚している。その対象が姉の裕だけであるにしても、沸き立つ性欲は恐らく人以上だ。故に恐ろしかった。男に無理矢理凌辱されて悦楽に陥ってしまう可能性に吐気まで覚えた。自らの浅ましさに一番嫌気が差した。

「香苗ちゃん」

 蒼鬼が香苗を見つめている。その瞳からは何も読み取る事ができない。当然だ。香苗は他人の感情を瞳で読み取れる様な特殊能力など有していない。他人の事など分からない。それなりに長い付き合いである蒼鬼の裏側にまで考えが至らぬほどに、香苗には何も分かっていない。

「なあ、香苗ちゃん」

 蒼鬼の二度目の呼び掛けにやっと反応する香苗。ただ条件反射的に反応しただけだ。それ以上の事は出来ない。怯えた視線を、泣き出しそうな瞳を蒼鬼に向けるしか出来ない。

 そろそろ本当に目尻から涙が落ちそうになった時、蒼鬼は香苗の予想もしていなかった行動を取った。大きく下げたのだ、その頭を。

「ごめんね、香苗ちゃん。驚かせちゃったかな……?」

「え……」

「手首も痛かったかな、ごめんよ」

 言って蒼鬼は香苗の右手首から自分の左腕を離す。

 視線を落としてみても香苗の右手首には何の跡も付いていなかった。軽く赤くなっていただけだった。その赤みもすぐに消えた。その程度だったのだ、蒼鬼がその左手に入れていた力は。蒼鬼は香苗の身体に跡を付けるほどの力も入れていなかったのに、怯えた香苗が勝手に蒼鬼を強大なものとして捉えていただけだったのだ。

「でもさ、香苗ちゃん。さっきも言った通り俺は香苗ちゃんと話したい事があるんだ。それは香苗ちゃんのこれからにも関係する事なんだ。だから、俺の話を聞いてほしい。どんなにそれが辛い言葉でも。俺の事を憎らしく思っても。何なら全ての話が終わった後に俺を殴ってくれたっていい」

「あ、ああ……」

 香苗は事態を呑み込めない。ただ蒼鬼の言葉に頷くしかない。

 とりあえず強姦の危機は去ったと考えていいのだろうか?

 恐らくその危機は去ったのだろうが、喜べる事態ではなかった。蒼鬼はもしかすると強姦よりも昏い何かを香苗に突き付けようとしている。言葉と想いで香苗の胸を抉ろうとしている。多分、蒼鬼自身も大きく傷付きながらも。どこまでも鈍い香苗ではあったが、それくらいの事だけは分かった。

「じゃあ単刀直入に話させてもらうよ。なあ、香苗ちゃん。うさぎちゃんのしている事はどれくらいまで知ってるんだい?」

 うさぎの火照った全裸が香苗の脳裏を過ぎる。動悸を感じながらどうにか応える。

「自宅で……、身体を売ってる……」

「ああ、そうだね、そうだ。うさぎちゃんは売春してる。男女問わずにね」

「蒼鬼は……」

「俺が?」

「蒼鬼はそれを知っていて、お姉さまの所に仕事を持って来たのか……?」

「そうだね、最初はそのつもりだった。裕さんならどんな依頼人でも区別無く全力で依頼に専念してくれるからね。でも、途中で思い直した。大したストーカー事件でも無さそうだし、この案件は香苗ちゃんにこそ解決してもらうべきだってね。勿論、依頼料の受け取りまで含めての話だ。香苗ちゃんにはどうしてもうさぎちゃんみたいな依頼人との案件を経験してもらいたかった」

「どう……して……?」

「逆に訊きたい。香苗ちゃんはこれまでの案件に違和感は無かったかな?」

「違和感……?」

「簡単過ぎるとは思わなかったかい?」

 言われてようやく思い至った。

 いや、香苗も考えてはいたのだ、何でも屋とはこの程度だったのかと。

 浮気調査、失せ物捜し、ビラ配り、運び屋、ペット捜し、メッセンジャー。

 こはるの一件が例外なだけで、他の案件は手軽で簡単なものばかりだった。

「まさか……」

「そのまさかだよ、香苗ちゃん。香苗ちゃんに回されていた案件は裕さんに厳選された難易度が低いものばかりだった。いや、案件の難易度じゃないよ。浮気調査もメッセンジャーも真面目にやれば貴賤の無いそれなりに難しい仕事だからね。この場合の難易度は依頼人との付き合いの難易度って事さ」

「依頼人の……難易度……」

「対人の仕事だからね、依頼人によって報酬も難易度も変わってくるよ。単なる浮気調査だって調査相手が暴力団の大物だったとしたら、それらはグンと上がる。それを香苗ちゃんに知ってもらいたかったんだ。ああ、裕さんは関係無いよ。これは俺の独断なんだ」

 そう語る蒼鬼の表情はいつになく真剣なものだった。

 本気で考えてくれているのだと香苗は感じた。

「でも、流石にいきなり危険な依頼人の仕事を回すわけにはいかない。だからちょうどよかったんだよ、うさぎちゃんの境遇が。犯人は恐らく素人ストーカーだから案件自体にはそれほど危険性は無い。それとなく連の奴にも警戒を頼んでいたしね。依頼人のうさぎちゃんも自分で稼いだちょっとだけ問題があるお金で報酬を支払ってくれる。だから、あの案件こそが今の香苗ちゃんには最適だったんだ」

「ちょっとだけ……? あれが……?」

 思わず吐き捨てるように言ってしまう。それほど蒼鬼の言葉は心外だった。あのうさぎとの一件で未だに足踏みしてしまっているというのに、それを矮小で下らない現象だと言われている様で軽く腹も立った。

「ちょっとだけだよ」

 何でもない事みたいに蒼鬼は応じた。

「うさぎちゃんは立派だよ。きちんと自分で働いて金銭を得ている。嫌でやっているわけでもない。ああいう形でしか誰かとセックスが出来ない人達の救いになってくれている。あれでも確かに救われてるんだよ、うさぎちゃんの客達は。そう思わないかな?」

「……分かんないよ、そんなの」

「そうだな……、香苗ちゃんにはまだちょっと分からないかもしれない。香苗ちゃんは可愛い子だからね、そういう生き方しか出来ない人間が居るって事はまだ分からないかもしれないな」

「可愛い……?」

 そんな言葉、裕以外に初めて言われた。服装以外可愛くない事は香苗も自覚している。

「だって香苗ちゃん、男子から告白された事はあるだろう?」

「いや、あった事はあったけど……」

 それにしたって片手で足りるほどで、ほとんど冗談みたいな告白でしかなかった。

 男から見て魅力が無い女である事には間違いない。

 そう返すより先に、蒼鬼が何かを懐かしむ様な表情を浮かべた。

「一度でも告白されただけで十分可愛いんだよ、香苗ちゃんは。一度たりとも愛の告白なんてされない、勇気を出したところで想いが成就する事もない、そんな人間は大勢存在するんだ。少し事情は異なるけどね、うさぎちゃんの身体を買っている女の人、あの人もそうなんだよ」

 うさぎを買っている女性……、何人も居るのかもしれないがここで蒼鬼が話題に出すのなら、香苗があの時と先刻に目撃したあの眼鏡を掛けた地味な女性の事なのだろう。特に外見が劣っているという印象は無かった。確かに地味ではあったがそれを好む男性だって大勢居るはずだった。

 香苗が釈然としていないのを見て取ったのだろう蒼鬼が続けた。

「あの女の人はね、実はうさぎちゃんの事件のもう一人の依頼人なんだ」

「どういう事なんだ……?」

「うさぎちゃんのストーカーに最初に気付いたのは彼女だったって事だよ。それはそうだよね。うさぎちゃんに後ろめたい所は無いんだから。自分の危機に気付くのはいつだって隠れて後ろめたい事をやってる奴さ。つもりあの彼女だね。仮にA子さんとしようか。A子さんは外見こそそんなに悪くないけど生まれながらに同性愛者だった。それで誰とも付き合わないまま教師になった。それでいいと思っていた。でもね、誰もがそうであるように彼女にも好みのタイプがあったんだ。そう、褐色の肌の少女だよ。そして、担当するクラスの教え子に性に奔放な悪魔が在籍していた。しかも売春も行っているらしい。さて、ここでどうなるかな? A子さん的にはうさぎちゃんに売春を持ち掛けるのはとても自然な成り行きだとは思わないかい?」

「買ってでも……したかったのか……? セックス……を?」

「或いはお金で買える愛情かな。優しさとか、寂しさを埋める何かとかさ。そう言えばレズ風俗に行ってどうのって本が出版されてた事もあったね。とにかく何がどうしたってうさぎちゃんの身体が欲しかったんだよ、A子さんは。自分が教師である事も、相手が生徒で少女である事も関係無かった。それでも後ろめたさは確かにあった。だからいつも警戒していて、うさぎちゃんに付き纏う影にもすぐに気付けたってわけさ。A子さんはうさぎちゃん以上に焦っただろうね。うさぎちゃんを買えなくなるのも困るし、自分がやっている事を誰かに知られるのも困る。だからこそ、A子さんはもう一人の依頼人になったんだ。うさぎちゃんからの報酬にはさ、その分も入ってるんだよ」

「何なんだよ……」

 分からない。分かりたくなかった。売春などどうかしている。その程度の常識は香苗にもあった。だが、その心の何処かではA子の気持ちが分かりそうな香苗が居るのも確かだった。それがまた香苗の胸を悪くするのだ。

 なおも蒼鬼は続ける。何もかもを経験したかの様な表情の蒼鬼が。

「俺にはね、分かるんだよ、A子さんの気持ち。いや、売春をした事は無いよ。風俗にだって行った事が無い。それでも金銭を介してでも、偽りでも誰かの優しさが欲しいって気持ちは痛いほど分かるんだよ。俺、本当にモテなかったからさ」

「モテない……?」

 意外な言葉だった。人格には大いに問題があるとしても、蒼鬼の周囲に女の影が絶えた事は無かったはずだ。正直、香苗から見ても外見と口の上手さだけは見事だと思う。そんな蒼鬼がモテないと言うのにはどうにも違和感があった。

「ああ、モテない。モテなかったんだ。何十人と振られたよ。どんなに努力しても振られ続けた。大事に育てていきたい恋すらも軽そうな男に簡単に持って行かれた。自分で言うのも何だけどさ、俺、不細工だったんだよ」

「不細工だったのか……?」

「うん、今思い出してもありゃひどいもんだった。ありゃモテないよ、我ながら。ねえ、香苗ちゃん。俺もさ、裕さんに断りなくうさぎちゃんの仕事の事を隠して案件を回したのは悪いと思ってるんだ。だから、俺の秘密を教えてあげるよ。それだけじゃ埋め合わせにならないかもしれないけど、とにかく教えてあげる。教えるのは俺の本名さ。九条蒼鬼が本名だとはまさか思ってなかったよね? 俺の本名は笹原誠。それが不細工な顔を整形してこの顔になる前の名前さ」

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