二十九話「しずかな蜜より赤い蜜」
平和公園の片隅のベンチに香苗は蹲っている。
幸いな事に吐気はない。嘔吐なら今日まで何度も重ねてきた。その程度にはうさぎの売春に対する嫌悪感は薄れてきた。いや、薄れさせたのだ。一つの事象をいつまでも抱えていられるほど香苗は暇ではないし強くもない。
ただ、動けない。忘れようとしていた現実が唐突に眼前に現れてしまうと、何をしようとする気力も奪われてしまう。自分が無力な小娘に過ぎない事をこれでもかと見せつけられて、香苗は小動物の如く縮こまって震えるしかない。
「ハル……、どう思ったかな……」
小さく呟いてしまう。
香苗の付き添いで中学校に立ち寄ったというのに、その香苗が唐突に逃げ去ってしまったのだ。余程困惑したに違いない。悠ならその外面の良さでその場を切り抜けられるだろうが、香苗の事を不審に思うのだけは間違いない。
気が重くなり、香苗は更に深い溜息を落とすしかない。
悠との居心地の良い関係性まで終わってしまうのだろうか。
そう考えると涙がこぼれそうなまでになる。
香苗は友人が少なかった。そもそも気が強く歯に衣着せない性質なのだ。クラスメイトや同じ学校ならばともかく、進級などで一度離れてしまえばまた香苗に関わろうとする人間は極小だった。彼等にとってその程度の存在でしかないのだ、香苗という人間は。
現在、香苗が仕事以外で関わっているのは、沙羅、悠樹、悠、慧遠、庚程度でしかない。連や蒼鬼とは連絡も取り合うし、会えば話もするがほとんど仕事の上での関わりしか持っていないからそのくらいになるだろう。うさぎとは親交を深めたかったしうさぎにもその気はあった様なのだが、香苗の一方的な嫌悪感でそれもなくなってしまった。
故に恐ろしかった。自分の傍から友人が減ってしまうのが恐くて堪らなかったのだ。
自分は人一倍臆病な性質だと香苗は自覚している。故に蓮っ葉に振る舞うしかなかった。連や蒼鬼に横柄な態度を見せるのも嘘っぱちだ。臆病な自分など誰にも見せられない。そんな自分が誰かに好かれるとはどうしても思えなかった。優秀で敬愛する裕の妹で居られる気がしなかった。
それで演じてきた。生意気で横暴な少女像を。男にも物怖じしない強い女を。
悠もその香苗を好ましく思ってくれていたはずだ。
けれど、それも終わりだろう。
悠からの着信に目を向けられないくらいには、香苗は臆病になってしまっている。
不意に。
「やあお嬢さん、可愛いね。どうだい、俺と付き合わない?」
軽い言葉が俯く香苗の頭上から浴びせ掛けられた。
軽薄な印象の言葉だったがその声色には聞き覚えがある。
香苗が緩慢に視線を上げると、缶ジュースを両手に持った蒼鬼が逆光に照らされていた。
「蒼鬼か……」
「隣、いいかい?」
「どうぞ」
普段なら追い払っていただろうが、今の香苗にはその程度の気力も残っていなかった。
「それじゃ、お邪魔して」
軽い口振りで蒼鬼が香苗の隣に腰を下ろす。密着してくるかと思ったが、意外に蒼鬼は香苗と逆方向のベンチの端に座っていた。手渡されたジュースは何故かお汁粉ジュースだった。別に嫌いなわけではないから問題は無かった。
蒼鬼は何も言わずに微笑んでいた。普段は無駄に饒舌だというのに。
香苗は五分くらい掛けてお汁粉ジュースを飲み干してから、おもむろに口を開いた。
「どうして、こんな所に居る?」
「平和公園は俺の仕事のテリトリーだからね、居てもおかしくはないんじゃないかな」
「詭弁はいい」
「悠ちゃんにね、頼まれたんだよ。香苗ちゃんがいきなり走ってったから捜してほしいってさ。せっかくの携帯電話なんだから友達からの着信には出てあげなよ」
「……よく見つけられたな」
「俺を誰だと思ってる? 広島が誇る情報屋の九条蒼鬼。見知らぬ誰かならいざ知らず、香苗ちゃんくらい目立つ女の子の居場所を見つけるのなんてお茶の子さいさいだよ。最近はSNSも流通してるから余計に捜しやすくなったね」
「……そうか」
それだけ呟いてから香苗は押し黙る。
一体何を言えというのだろう、こんな年上の色男に。
香苗は蒼鬼を嫌いではない。軽薄な男だと考えてはいるが決して嫌ってはいない。ただ恐かった。蒼鬼は香苗よりずっと年上で、ずっと大柄で、連ほどではないにしろ声だって太かった。蒼鬼の気が向けば、香苗など簡単に組み敷かれてしまう。香苗はそれを理解している。香苗が普段気軽に蒼鬼を殴れるのは、単に蒼鬼がそれを許してくれているというだけの話だ。
蒼鬼がお汁粉ジュースに口を付ける。
香苗とは異なり三十秒ほどで飲み干してから、蒼鬼は唐突に話を切り出した。
「うさぎちゃんの事、そんなにショックだったかい」
香苗は息を呑んだ。何故蒼鬼がそこまで知っているのか理解できなかった。いかに情報屋とは言え、そこまで的確に他人の感情を推し量れるものなのだろうかとさえ思った。しかし、すぐに思い直した。どうしてそれに思い当たらなかったのかと後悔した。
そうだ。香苗にうさぎの仕事を紹介したのは誰だっただろう。
他ならぬ蒼鬼だ。あの時は裕に依頼するつもりで家の前で待っていたと言っていたが、もしもそうでなかったとしたら? 最初からうさぎの依頼を回すつもりで香苗達の帰りを待っていたのだとしたら?
「蒼鬼……」
途端、香苗の鼓動が強くなっていく。
見知ったはずの蒼鬼の軽薄な笑顔が得体の知れぬ何かに変わっていく。
何を考えているんだ、蒼鬼は? あたしをどうしたいんだ? どうするつもりなんだ?
分からない。分からないが、香苗が不意に全身に感じたのは凌辱の危機だった。
女が絶望する姿を見て悦に入る男が存在するのは知っている。蒼鬼がそんな男であるという確証は無い。けれど駄目だった。一瞬その可能性に思い至ってしまった香苗は、どうしてもその考えを振り払う事ができなくなってしまう。蒼鬼に拘束されて強姦される自分の姿を想像しかできなくなってしまう。
仕方が無かった。蒼鬼は大柄な男で、香苗は弱々しい小娘に過ぎないのだから。
思わず駆け出しそうになった。香苗はまたも逃げ出しそうになった。
逃げる事しかできない。弱い、弱々し過ぎる香苗は。
だが、いつまでも逃げていられるはずもない。
香苗の行動を予期していたのか、蒼鬼が咄嗟に香苗の右手首を掴んでしまっていた。
ベンチの端からだというのに、蒼鬼の左腕は香苗に届いていた。
それほどまでの体格差があるのだ、蒼鬼と香苗の間には。
「まあ、落ち着いてよ、香苗ちゃん。話そう。色んな話を。俺もね、香苗ちゃんと話したい事が沢山あるんだ」
初めて見る様な蒼鬼の真剣な表情に射竦められ、香苗は今度こそ逃げ道を塞がれる。
いつまでも逃げていられるはずもないのだ。蒼鬼からも、うさぎからも、現実からも。
香苗は、また、吐気を感じた。
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