二十八話「escape」

 めのうの中学校での聞き込みは、案の定と言うべきか成果が得られなかった。

 元より捜査のプロである警察ですらめのうの交遊関係を洗い切れていないのだ。素人である香苗達にそれ以上の情報が得られるわけもない。

 しかし成果が得られなかった事が成果であったと言えなくもない。警察が捜査した通り、蒼鬼が調査した通り、めのうの周囲には確かに男の影が見当たらなかったのだ。精液以外実在を確認できていない影の如き男。めのうの自殺と何らかの関係を有しているはずの男。男は、多くの目から逃れて、何処に潜んでいるというのだろうか。

 めのうのSNSの知り合いである事はまず間違いないはずだ。朝なり夕なりめのうとリプライを交わし合っていたアカウントの男。めのうの周辺で僅かながら存在を感じさせるのは少なくともその男しか居ない。

 SNSの知り合いであるのならば現実で顔を合わせた事は無かったのだろうか。いや、それは有り得ないはずだ。めのうの膣内の精液がそれを物語っている。処女受胎でもあるまいに、女の膣内に唐突に精液は現れない。

 何処かで顔を合わせているはずなのだ、性交しているはずなのだ、めのうとその男は。

 それとも、その考え自体が間違っているのだろうか。天使の女の膣内には、唐突に精液が湧き出る事が有り得るのだろうか。

「どうする、カナ?」

 多少疲れを感じさせる表情で悠が訊いてきた。教師から隠れながら、十人は聞き込んだのだ。疲れるのも無理はないだろう。それに放課後になってしばらく経っただけあって、中学生達の姿もかなり疎らになってきた。これ以上続けていても、大した成果が得られないのは自明の理だった。

 捜査の方針を変えるべきだろうか。一瞬、そう考え掛ける。

 いや、聞き込みという捜査法は間違っていないはずだった。めのうの交遊関係を洗うためだけではない。それ以外の意味が、聞き込みという捜査法にはある。後は根気よく待つだけだ。

「もう少しだけ聞き込んでみよう、ハル。部活終わりの生徒が何かを知ってる可能性だってある。それに……」

「それに?」

「香苗さん!」

 香苗が悠の問いに答えるより先に、聞き覚えのある声が放課後の校門に響いた。

 数週間前までよく聞いていた声。

 二度と耳にしないように放課後になってすぐの時間を避けていたのに、すぐ帰宅するはずの帰宅部の彼女と顔を合わせないよう気を付けていたのに。

 無情にも、香苗の耳にはその声が届いていた。

 うさぎ。怨念うさぎ。前回の仕事の依頼人。

 仕事の依頼料を売春で稼いだ金で支払った無邪気な売春少女。

 うさぎの声の方向に、香苗はすぐに振り返れない。足が震えて、心臓の動悸が止まらない。息苦しさに窒息してしまいそうなほどだ。

 大丈夫、大丈夫だ、と香苗は自分に言い聞かせる。

 あたしはうさぎさんと喧嘩してるわけじゃない。仲違いしたわけでもない。ただうさぎさんが苦手になっただけだ。うさぎさんのやってる事が嫌になっただけだ。それだけだ。それだけなんだから、何でもない表情をうさぎさんに向けてやれるはずだ。例えそれが、完全無欠な演技であったとしても。

「よう、うさぎさん、久し振りじゃないか」

 意を決した香苗は、震える拳を隠して、震える声色を隠して、うさぎの声がした方向に振り返った。挨拶だけして早く話題を切り上げる事だけを考えて。

 だが、振り返った瞬間に後悔した。振り返らなければよかったと思った。

 うさぎが無邪気な笑顔を浮かべていたのはまだいい。その程度であれば、香苗の胸が激しく痛むくらいで済んでいたはずだ。

 だが。

 だがしかし。

 うさぎの隣には、香苗の思いも寄らなかった人間が立っていた。肩ほどまでの黒髪を有した二十代後半の、眼鏡を掛け、スーツを着こなした少し地味な女性。その様子から察するに、うさぎ達の学校の教師なのだろうか。

 そんな事はどうでもよかった。教師であろうとなかろうと構いやしなかった。

 重要なのは、香苗がその女性に見覚えがあったという事だ。

 忘れられるものか。

 その女性は間違いなくあの日、あのうさぎと会った最後の日、うさぎの部屋で全裸だった女性だった。

 うさぎを買った、女だった。

「―――――――――――――――ッ!」

 声にならない。声にできない。

 目の前の光景を理解できない。理解したくない。

 嫌悪感と恐怖感、憎悪や悲哀や憤怒、目まぐるしく巡る感情に目眩まで感じて。

 もう一つ、実感したくなった感情まで溢れそうで。

 香苗はその場から逃げ出した。

 悠も、うさぎも、女も、何もかも投げ出して、逃げた。

 逃げねばまた吐いてしまいそうだった。

 行く当てなどなかった。

 それでも、香苗は逃げなければならなかった。

 逃げ出さなければほぼ確実に、香苗の心は壊れてしまっていただろうから。

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