二十七話「本当だから困るんだ」
手持ち無沙汰にチラシ配りを手伝うと、のぞみは昼食と多少の賃金を報酬にしてくれた。
のぞみと別れた香苗は、思いがけぬ報酬に心を躍らせながら悠の高校の校門に向かう。これから行う聞き込みの際に同行してもらえれば心強いからだ。たった一人で見知らぬ誰かに聞き込みを行えるほど香苗は図太くない。それに悠は外見だけなら、いや、実際にも紛れもない良家の子女なのだ。悠が同行してくれるだけで、幾分か聞き込みもやり易くなるだろう。
「よう、ハル」
香苗は右手を上げて軽く駆ける。校門では約束通り良家の子女を気取った悠が立っていた。その視線は右手のスマートフォンに向けられている。悔しいがそれだけの行動ですら、悠の内面から出る気品を感じさせた。腐ってもやはりお嬢様なのだ、悠は。
「あら、香苗さん」
周囲の視線を気にしての事だろう。三匹くらい猫を被って、悠が穏やかに微笑んだ。普段の悠を知っている身としては気持ち悪い限りだが、それが悠の処世術なのだった。長い付き合いではないが香苗もそれは心得ている。故に友人として反応してやる事にする。
「ごきげんよう、悠さん。どなたかとメール中ですの?」
悠の表情が微妙に歪む。その表情は明らかに『やめろよ、気持ち悪い』と語っていた。調子を合わせてやったのに失礼な奴だった。軽い腹立たしさを感じた香苗は、意地でもお嬢様口調を通す事を決心する。
「ひょっとして悠さんの『いい人』なのかしら?」
「もう。香苗さんったらおよしになって下さいな」
「あらあら、いいじゃありませんの。悠さんも高校生なんですもの。恋の一つや二つあったって不思議じゃありませんわ」
「嫌ですわ、お恥ずかしい」
背筋に寒気を感じながら足早に二人で歩き始める。
一人だけ猫を被っているのはともかく、お互いに猫を被って腹を探り合うのは想像以上に体力と精神力を消費してしまうものらしい。一刻も早く人目の無い場所に行かねば、ストレスで胃に穴が空いてしまいそうだった。
数分程度歩いただろうか。子供の姿すら一切見かけない公園を見つけた香苗達は、足早にベンチに座り込んで、大きな溜息を吐いた。
「やめろよ、気持ち悪いじゃねーか、カナ……」
「ハルが始めたんじゃないかよ……」
「あれがあたしの学校での姿なんだよ。カナも分かってんだろうがよ」
「だから合わせてやったんじゃないか。『気持ち悪い』って表情したのはそっちだろ」
「だってマジで気持ち悪かったし」
「何だとコラ」
「やんのかコラ」
二人で睨み合って火花を散らす。一触即発。だったのは一瞬だった。
二人して肩を竦めて、もう一度大きく溜息を吐く。これから仕事だというのに、こんな所で体力を消耗していても全くの不合理だ。特に香苗は今日、ドーナツを四つしか口にしていないのだ。悠と言い争うカロリーまでは摂取していない。
「学校でのハルの姿はともかくとして、さ」
「あんだよ」
「結局、誰とメールしてたんだ? やっぱり『いい人』とメールしてたのか?」
「言い方が古いぞ、カナ」
「悪かったな、家に置いてある本が古いのばっかりなんだよ。それで、どうなんだよ?」
「カナの言う通りの『いい人』だよ、残念ながらな」
冗談のつもりだったが、香苗の想像は当たっていたらしい。別に誉められる事でもないが。悠に『いい人』が居るのは、香苗も知っていた。毎晩メールを交わしているのも知っていた。放課後すぐにメールを交換する程の仲だとまでは知らなかったが。
「冬馬さんか?」
「ああ、その冬馬さんだよ。日曜に食事に誘われた。今は断る理由を考えてるところだよ」
「行かないのか?」
「行ってもいいけど、今は気分じゃないんだよ。あの人とは平日でもよく顔を合わせてるし、メールだって毎日五通は交換してる。この上、日曜まで一緒に過ごしたくはねーよ」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんだよ」
苦笑がちに悠が頷く。彼女がそう言うのなら、そういうもんなのだろう。
『冬馬さん』。悠の婚約者らしい。直接会った事は無いが、名前だけは悠から何度も聞かされている。婚約自体は広島では珍しい事ではない。こはるに代表される様に、広島の若い天使のほとんどが肉親と婚約しているからだ。
ただ人間の若い婚約は勿論それなりに珍しかった。少なくとも香苗の周囲に天使以外で婚約しているのは悠だけだった。流石は金持ちの娘といったところだろうか。人生設計も完全に安泰というわけらしい。
冬馬さんは悠より二つ年上の長身の青年らしい。成績は優秀。浮いた話も無く優しい人だそうだ。流石に運動は苦手らしいが、それくらいは弱点があった方が親しみ易いのも確かだろう。つまり婚約者としては文句の付けようもない相手だという事だ。
悠も冬馬さん本人に不満は無いようだ。先刻本人が語った通り何度も食事に行っていて一日に何通ものメールを交換している。婚約自体はお互いの両親が決めたとの事だが、少なくとも不幸な結婚にはなりそうにない。冬馬さんはいい人だし、猫を被ってはいるが悠自身の外面は確実に良家の子女なのだから。
恋愛結婚が全てではない。寧ろ恋愛結婚の方こそ問題が起こり易い事を香苗は知っている。自らの意思で永遠の愛を誓い合った夫婦が仲違いし、別離していく様を香苗は何例も目にしてきた。
故に悠は幸福であるはずなのだ。
近年の結婚観から考えると多少珍しい事例であるとしても。
「なあ、カナ」
自慢の巻き髪を指先で弄りながら悠が呟く。
微笑んでいるのか、悲しんでいるのか、その表情は何とも言えぬ色を宿していた。
「悪いんだけど、この日曜はカナと遊ぶからごめんなさいって返信してもいいか?」
「冬馬さんには悪くないのか?」
「悪いとは思うけどな、でも、今度の日曜は気分じゃないんだよ。大学を卒業したら、あの人とは四六時中一緒に居る事になるんだ。それに不満があるわけじゃないが、それまではもうちょっとだけ遊ばせてほしいじゃんかよ」
恐らくはそれこそ悠が香苗の仕事に付き合う最大の理由なのだろう。
近い将来、悠は約束された幸福と引き換えに己の自由を失う。香苗が不安定な生活と引き換えに危険に満ち溢れた自由を得ているのとは逆に。
悠はそれを分かっているから、今だけは香苗の仕事を手伝っていたいと願っている。香苗もそれを分かっているからこそ、悠の同行には何も言わないのだ。
「いいさ」
沈み始めた太陽を見上げながら香苗は微笑む。
数年先には確実に遊べなくなる友人の我儘なのだ。それくらい聞いてやったって罰は当たらないだろう。
「冬馬さんにはその文面で返信しとけよ。冬馬さんだって友達と遊ぶ事くらい止めやしないだろうさ。その代わり……」
「その代わり?」
「捜査を進展させたいからな。日曜にはこき使ってやるから覚悟しとけよ?」
冗談のつもりではなかったが、悠は香苗の言葉に満面の笑顔になった。
いつも不機嫌そうな顔をしている悠には珍しい、意外に可愛らしい笑顔だった。
「分かってるっつーの!」
悠が強く、とても強く、そして嬉しそうに、香苗の肩を叩いた。
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