ただ、賽の目を見ていた

 運命とは何か。そう訊かれ、私はこの言葉を思い出す。

When life gives you lemons, make lemonade.
(運命がレモンをくれたら、それでレモネードをつくる努力をしよう。)
デール・カーネギー

 悪い状況を良い状況に変えてみないか、というのが本来の意味だが、それはレモンが酸っぱくて嫌われている場合の話だと私は思う。

 本作では、運命だと錯覚させるような演出──つまりは、レモンが元々酸っぱい果実であると思わせることなく、レモネードを飲ませることに焦点を置いている。

 運命、まるでこの結びつきや展開がさだめであるかのような高揚感に人は酔いしれる。

 ここで、著者の運命に対する見解を探るべく、他作品から幾つか言葉を引用をしたい。

「努力の結果というのはそもそも運命で決まっていて、何なら努力するかどうか、どれくらい努力するかも運命で決まってるんだよ。」(「袖振り合うも「多少」の縁」第26話 ひとり前へ)

「(中略)つまり、僕はどうしようもないときだけ神様を信じるんだ――。」(「そういえばあいつは」)

「(中略)息を吸って吐くだけで自分の人生は転がっていき、終着点が定められていく。そんな気がする。」(ほぼ毎日短編所収「考え事」)

 運命とは、言葉としては魅力的でありながらも、実は案外夢のないものであるかのように語られていることに私は気づいた。

 また、

God doesn't play dice.
(神はサイコロを振らない)
※原語はドイツ語

 とアルベルト・アインシュタインが言ったように、私達がまだ真実に辿り着いていないだけで、裏で全てが決定されているというのはどこか恐ろしくも感じる。

 だが、この物語を読んで思った。

 運命のような、誰かにとっての切り札が用意された人生も悪くないのかもしれない。