第115話 エピローグ

「おおい!そろそろ休憩にして昼飯にしようぜ」


現場で親方が言います。


ここは日本の某県の山岳部の道路です。


私は就職したばかりの道路線施工業者の作業員としてここに来ていました。


つまり道路の白線や黄線を引いたり、止まれとか速度制限表示を道路に描く仕事です。


帰国したばかりの頃、私はすぐに中川先生にコロンボ支部の状況を説明し、つづけて辞意を伝えました。


中川先生には引き留められましたが、空手を辞めることは私の中では決定事項だったのです。


思えばろくに空手なんかできない私が空手指導員になったあたりから、私の非日常が始まっていたのです。


日常に戻るには、空手と完全に縁を切る必要があると考えました。


そしてそれからの一年ほどの間、私はいろいろなバイトをして過ごしていましたが「地に足の着いた仕事」ということで、この会社を選んだのです。


まさに文字通りの仕事です。


私は作業車に乗って、行ったことのない土地を巡るこの仕事がなかなか気に入っていました。


コンビニ弁当を食べてお茶を飲み、腹ごなしにそのあたりをうろうろと歩きます。


のどかな田舎の道路の脇には小さな集落があります。


ふと集落の近くにある電柱に貼ってあるものに気が付きました。


手書きのポスターです。


『練習生募集 **流空手道』


・・・へえ、こんな田舎でも空手道場やってる人がいるんだなあ。。


「冨井、なんだどうした?ん、空手のポスターか?お前空手やってるの?」


同じく食後にブラブラ歩いていた親方が言いました。


「いえ~。。僕は根が臆病なもので、こういう殴り合うようなのは怖くてダメです」


「ははは、そうか。お前ガタイがいいから、空手とかやって度胸付けたらいいんじゃねえか」


「ええ・・そうですね、考えてみます」


仕事に戻ると先輩がタコ糸にチョークの粉を着けたものを指ではじいて、道路に速度表示の数字を器用に下書きします。


この職人技は、何度も見ても見事なものです。


この下書きの上から施工機で線を引き、数字を書くのです。


見習い中の私の仕事は施工機の通る前の路上の小石などを、箒(ほうき)で掃くことです。


ちょっとウィンタースポーツのカーリングに似ていて面白いです。


夕方に仕事を終えて帰社した私たちは、作業服から私服に着替えて退社します。


今日はこの後、ひさびさに帰国してきた中田さんと食事の約束があるのです。


・・・・


「日本のタイ料理はレベルが高いですねえ。このソフトシェルクラブのプーパッポンカリーなんか、バンコクで食べるより美味しいですよ」


会食の場所は、地元では有名なタイレストランです。


中田さんの言う通り、インド料理やスリランカ料理はわりと外れることが多いのですが、タイ料理で外れることはめったにありません。


「しかし中田さん、タイから帰国したばかりなのにタイ料理で本当によかったんですか?」


「いいんですよ。僕はタイでも日本料理や中華料理食べてますから、日本でタイ料理というのはわりと新鮮なんです」


中田さんはそう言ってますが、おそらくは私が懐かしがるだろうと思ってこの店を選んだに違いありません。


「日本での生活はどうです?彼女とかできましたか?」


彼女・・と言われて真っ先に思い浮かんだのは、スリランカに行く前に分かれた真理子でした。


日本に帰ってみれば、わずか2週間ほどの付き合いだったサトミよりも、何年も付き合った真理子のほうが生々しい思い出に感じます。


不思議なことなのですが、日本に帰って1年もすると、スリランカやタイでの出来事はすべて夢だったような気がするのです。


コロンボの道場での事も、ニコラのことも、ベビスのことも、ショットガン強盗やチェンマイで殺されかけたことも、すべてが現実味を失っていました。


そしてあれほど、命を賭けて愛したつもりだったサトミの顔も、今では霧に霞んでいるように思い出せません。


ただ、初めて会った時のボーダーのTシャツの胸元の白さだけが、かすかな胸の痛みと共に記憶に残っています。


「いえ、なかなか出来ませんねえ。でもそのうちちゃんと彼女作りますよ」


「そうですね。ところでトミーさんは見たところとても健康そうです。肉体的も精神的にも。もう大丈夫かな話しても」


「え、何をです?」


中田さんは含みのある笑顔を浮かべて言いました。


「いえね、ぜったいにトミーさんには言わないで・・って口止めされていたんです。でも僕はこう見えて口が軽いんですよ」


「いったい何ですか?中田さん、じらさないでください」


「実はね・・・」


中田さんは勿体つけて言います。


「実はトミーさんがチェンマイに発った後、また電話があったんです。サトミさんから」


「え、そうなんですか?」・・・サトミが?


「はい、すごくトミーさんのことを心配していました。あの人はお酒が飲めないから酒に溺れることはないだろうけど、それだけに思いつめちゃうんじゃないだろうか・・って」


「・・・・」


「僕が心配ないって言ったんです。僕のところで元気に働いていますって。そうしたらサトミさんは・・」


「サトミは・・・?」


「あの人のことをどうかよろしくお願いします・・って何度も、何度も僕に頼むんですよ。ははは、あの人を・・って、まるでトミーさんの奥さんにお願いされているみたいでした」


・・・奥さんか。。


そういえばゴールでもインドゥルワでも、宿ではずっと僕の妻ってことになっていたんだよなあ。


こころなしか中田さんの目が潤んでいるような気がしましたが、これは気のせいでしょう。


「トミーさん、サトミさんていい子ですね」


「はい」


「もしサトミさんがバンコクに来ていたら、僕が口説いていたかもしれませんよ」


私はこう答えました。


「中田さんじゃ無理ですよ。サトミは」


ははは・・・中田さんが笑います。


「僕もそう思います。サトミさんはトミーさんみたいな人じゃないと無理ですよ」


ははは・・私もつられて笑いました。


ほんの一瞬だけ、サトミもここに居て一緒に笑っているような幻影が見えました。


空手バックパッカー放浪記 (了)

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空手バックパッカー放浪記 冨井春義 @yoshispo

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