ハンチが見た空 下

 進んでいると、あることに気が付いた。だんだんと通路が明るくなっていくのだ。通路の上部に取り付けらたものから、光りが発せられているのだ。


「すごい。これがあったら寝る時間も明るくなる」


 光りを生み出す蛍光灯を不思議がり、欲しがったが高くて手が届かない。ならばと鉄パイプを使って叩き落そうとしたが、蛍光灯が壊れて粉々になるだけだった。近くに台にするものもないので、ハンチは残念そうだった。

 ニットは蛍光灯を見て、なんだか眠る時間まで街を照らしている光と似ていると思った。そんなに重要なことに思えなかったし、だから何だとすぐに思考は捨ててしまった。今は青い空が一番好奇心を刺激している。

 さらに進むと広い部屋に出た。沢山のモニターがあったが、もちろん二人にその用途は分からない。二人が気になったのは部屋の奥にある、物々しい扉だった。今までと雰囲気が違う扉に警戒しながらも、期待があった。もしかしたら外からみた、柱の外周にあった足場に繋がる扉かもしれない。もしかしたらもう雲の上に来ていて、外に出たら青い空が広がっているかもしれない。二人は顔見合わせてから、小走りで扉へ近づいた。

 部屋の半分を過ぎると、どこからかガチンっ! と聞こえた。二人は足を止め、周囲を確認したが何も起こらない。念のため警戒しながらその場にとどまったが、新たな反応はなかった。


「なんにもならないなら脅かさないでよ……」


 文句をたれながら、淡く光っているモニターへ向かって唾を吐いた。

 扉は見たことがない形だった。ノブがなく、真ん中に筋が入っている。押しても引いても開く気配がない。

 これは機械制御で左右に動いて開く扉なのだが、彼女たちに住んでいた街では見かけない代物だった。


「どうしたらいいんだろう」

「開かないならこれでしょ」


 喋っている最中にもう行動していた。ここまで苦楽を共にしてきた鉄パイプで容赦なく殴りつけた。今までのドアより硬いのか、衝撃に負けて手が痺れ顔をしかめる。


「大丈夫!?」

「平気……ちょっと下がってて」


 強く殴れば殴るほど、強い衝撃が返ってくる。他のドアなら手ごたえがあったが、この扉はびくともしない。けれど、諦めることはできない。手の痛みを我慢しながら、攻撃を続けた。

 一日本来の用途外で使っていたせいか、扉にぶつけた瞬間に鉄パイプの一部が欠けた。強く殴っていたせいで、勢いよく飛んでいき埃を被った機械に当たった。そのことに二人は気が付かない。

 殴る回数が二桁をとっくに超えたが、扉は平気な顔をしている。今までのドアもこの方法で何とかなったから、今回もどうにかできるはずとあきらめず振りかぶる。

 ピー!

 が、謎の甲高い音が部屋の中で響き渡り、行動を中止した。

 また音だけかと思い、ハンチは構え直した。


『その扉の先には一定の権限がなければ進むことができません。技術者IDを端末にかざしてください』


 なんだこの声は。謎の声に二人は素早く周囲を見渡すが、ほかに人間はいない。どこかに隠れているのか、しかし、隠れれるような場所はない。


『その扉の先には一定の権限がなければ進むことができません。技術者IDを端末にかざしてください』


「なんのことを言っている! どこだ!?」

『その扉の先には一定の権限がなければ進むことができません。技術者IDを端末にかざしてください』


 ハンチが声を張り上げても、声は同じ内容を繰り返すだけだった。


「なんなんだろう……」

「チッ。いいよ、気にしなくて。口だけなら無視しよう。何かしてきたらこっちだってやればいいわ」


 姿を見せず、意味の分からない言葉を吐くだけで何もしてこない。耳障りだが、先ほどの空想の怪物よりはましと判断し、ハンチは無視することにした。

 障害物があったら、それは破壊しなければならない。ハンチは産まれてからずっと、そうしてきた。なので今もこれしかできない。これしかできないからこそ、諦めるわけにはいかないのだ。この扉の先にニットが求めるものがあるかもしれないのなら。

 金属がぶつかり合う音が部屋の中で響く。今日一日酷使した鉄パイプと手はボロボロになっていた。豆が潰れ、血でぬるぬるして保持しづらい。ハンチはそれを、ニットに気づかれないように服の内側で拭っていた。


 まだ扉は開かない。


 ふと、やかましい警告音が止まっていることに気が付いた。これで集中できる。いや、まてよ。やはりまだ何か聞こえる。ニットも変化を察知していて、耳に手を当てていた。ウィーンという駆動音。聞いたことがない無機質な音に、反射的に身構えた。

 音が高くなっていくと、天井に何かが出てきた。真っ黒で変な形をしていて、かろうじて筒が内蔵されているのが見える。なんだろうあれは、といぶかしんでいると、筒から小さな明かりが飛び出した。


「っ!」


 明かりは乾いた音を纏っていた。その音が聞こえる直前に、ハンチはニットに突き飛ばされた。小さな体のニットの力はあまり強くはないが、体重を乗せた体当たりを不意打ちで当てたことでハンチを転ばせることができた。

 転んだとはいえ、起きたことはちゃんと見ていた。ニットが突き飛ばしたこと、黒い何かが明かりを発したこと、ニットの胸から血が噴き出して彼女が倒れたこと。


「ニット!」


 体勢を立て直し、すぐに駆け寄った。理屈は分からなかったが、あの明かりを放つ物のせいでこうなったことは瞬時に理解した。殴られて血が出たことはあるし、尖ったものに腕をひっかけて血が流れたこともあった。だがここまで大量の血が出るのは見たことがない。このままではニットが危ないのは分かるが、止血の正しい知識がないハンチはどうしていいかと狼狽えた。


「ニット! ニットニットニット!」


 呼びかけるが返事はない。体を揺するたびにうめき声を返すだけだった。

 ニットのうめき声のほかに、ぎぎぎと動きづらそうな音が聞こえた。明かりを放つ物がゆっくりとハンチのほうへ向こうとしていた。まさかまたなのか。逃げようとしたが、ゆっくりと確実にハンチを追いかけた。

 ハンチは考える。避けられる自身はないが、一度攻撃させようかと。先程の攻撃の後、狙いをつける行動まで時間があった。その時間を利用してニットを担いで、この場から撤退する。入ってきた入り口まで距離はあるが、何としてでも逃げ切るつもりだった。問題は、大きな傷を負わずにやり過ごせるかどうかだ。

 光を放つ物を睨みつけ、挙動に注目する。ちょっとでも動きがあればすぐに回避できるように神経を尖らせた。これ以上ニットに怪我をさせないために、ハンチは自分の背後に隠す。もうニットは狙いじゃないのか、筒の先はハンチを向いていた。

 緊張で汗が流れる。汗が頬を伝い、顎に流れ、床に向かって落ちようとしたとき、ハンチは光を見た。体は光を見たらどこでもいいから素早く動いて回避することをプログラミングしていたので、半身を捻る。光は二の腕をかすった。今までに感じたことのない、鈍痛とも裂かれるとも違う痛みに飛び上がりそうになったが、必死に我慢した。なんとか反射的に傷を確認すると、肉が半円状に消滅して血が吹いていた。


 なんとか動ける。ならば次の行動をしなければ。背中側に隠していたニットの体を掴み、移動を試みた。すると、なぜか今まで開かなかった扉がのろのろと開き始めた。一体なぜ。ハンチは気が付かなかったが、彼女が避けた光が壁に設置されていた端末に直撃していた。そのせいでロック機能が誤作動を起こして開いたのだ。

 扉は徐々に開いていく。入口まで戻らなくても距離の近い扉に飛び込めば助かる確率が高い。しかしなかなか二人が入れる広さまで開かない。もどかしさを感じていると、光を放つ物は再び起動していた。


「早くっ……!」


 扉がある程度開くと、無理やり体をねじ込んで突破した。扉の向こうへ出ると、行きつく暇なくその場から離れた。その瞬間、あの恐ろしい音が聞こえた。間一髪、攻撃から逃れることができたようだ。

 扉から離れると、ニットを床に寝かせ傷の具合を見る、まるで何かに刺されたと思わせる、赤い穴が空いている。穴からは止まることなく血があふれてくる。まず血を何とかしなければならない。人体にとって血がいかに大切かの知識がないが、これがなくなると危険なのは知っている。いままで倒してきた奴らも、外傷はあまりなくても出血が多ければそのまま死んだことが多かったからだ。とにかく血を止めなくてはいけない。ハンチは服を脱いで、傷の止血を試みた。上半身裸の状態になったが気にする余裕はない。

 ニットの顔からは見るからに色が抜けていた。この色は死んだ人間がする色だ、彼女がしていい顔色ではない。ニットの顔を軽く叩きながら呼びかける。


「ニット、ニット返事してよ……ニット」

「…………うっ……ん」


 一応返事はしてくれたが、安心はできなかった。血は服から染み出してくるし、小刻みに震える唇からは息と共に生気が漏れている風に見えた。認めたくはないが、ハンチは嫌な予感を察知した。自覚した瞬間に、強い喪失感を覚え胸が苦しくなる。ニットに空いた穴よりも、大きな穴空き心から零れ落ちた感覚に襲われる。


「ハンチ……」


 消え入りそうな声でニットは呼んだ。


「もう……だめ……なのかな……」

 ハンチは何も返せない。


「せっかく、ハンチが……一緒に来て、くれたのに…………残念だ……な……」


 青い空を探すなんて無邪気な発想が、こんな結末になるなんて。自分の怪我を忘れるくらい、何がいけなかったのかを考えた。自分の行動か、あれを警告と理解していなかった自分の愚かさのせいか。とにかくこの結末を何かのせいにしなければいけない。でないと今から失うものの重さに耐えきれる気がしなかった。

 これからニットは緩やかに物言わぬゴミになっていくだろう。ゴミの行き先はゴミ捨て場の穴の置くどこまでも続く暗闇だ。そこには空はない。


 この世界は、この街では死ぬときは死ぬしかない。延命手段なんか存在しない。抗う術はないし、受け入れるのが当たり前だった。ニットはこれから死ぬ。受け入れたくないが、ハンチの心の準備なんて整う暇なく結果はやってくる。

 ハンチはまた考えた。今度は何が悪いかではなく、何をするべきかをだ。気軽に会えない場所に行く彼女に、最後にできることはないか。

 今彼女たちは外にいる。扉の先は建物に入る前に見ていた、柱の外周に設置されていた足場だった。ハンチは目線の先には、上へと昇る階段があった。

 階段をじっと見ると、ハンチはニットを背負った。ニットが小さな悲鳴を上げるが我慢してもらう。彼女の体重は軽いが、それでも確かな重さがあった。体に伝わる負荷が、彼女の生命だと思った。

 できるだけ負担にならないように、一歩を踏み出し進んだ。


「いいよ、ハンチ……もう……いいよ」


 自分がどうなるのかはニットも分かっていた。胸がすごく痛いし、生きてきて一番血が流れている。何となく「ああ、もう死ぬんだな」と察していた。思い残したことは沢山あるが、だからと言ってどうにかできることではない。ならばもう友人に負担をかけたくなかった。


「まだ、今日だから」


 全身の力が抜けた人間を背負って階段を歩くのは辛かった。だけどありがたいことに足は勝手に動いてくれる。体全体がやるべきことを成そうとしていた。


「今日が終わるまで、手伝うって言ったでしょう。青い空を見たいって言ったのはニットだけど、決めたのは私だ。ニットがもういいって言っても、今が今日なら、青い空を探すよ」 


 だから進まなくてならない。空を見つけなればならない。例えこの先に望むものが無くても、可能性が僅かにある限り、歩みは止める気はなかった。

 まるで意地っ張りな子供みたいな言い分に、ニットは力なく笑った。


「じゃあ……目を……しっかり、開けて……なきゃ、ね」


 今まで沢山甘えてきたけど、これが最後。内心謝りながら、友人の行動を受け入れた。

 重さによる負荷と、運動のせいで傷は痛み、余計に体力を削られた。それでも歩くペースはまったく変わらなかった。

 誰かにために何かをする。この世界でも、仲がいい友人のために行動することはたまにある。しかしハンチのように自分が怪我をしていようが、例え努力が徒労に終わろうが誰かのために行動できるのは珍しい。彼女もまたイレギュラーなのだ。人は誰かに親切をするとき、無意識にメリットを意識するという。この人のためにこれだけしたのだから、いつかお礼が貰えるだろうと期待する。ハンチは少し違った。彼女にとって自分のためとニットのためは同義だ。自分のためだから、苦労して多めに食料を得られる。自分のためだから復讐できる。自分のためだから、自分を消費できる。


 ニットはハンチにとって大切な友人だ。それ以下には絶対にならないが、それ以上にはなる。この世界で異常に分類されるハンチは孤独と阻害感にまみれていた。どうやって産まれ、どうやって育ったか。物心ついたときから他人が与えれてくれるのは暴力と暴言だけ。起きてても真っ暗なこの世はこんなもんだ。それが当たり前だった。

 そんな日々の中、ハンチは出会ったのだ。自分と同じ五体満足で、周りから蔑まれ生きる同類と。ニットは色々なことを教え、与えてくれた。世の中には友達という単語があること、友達には笑顔を向けるものだと。ハンチという名前を与えてくれたのもニットだ。ある日、ニットがハンチング帽を見つけてきて、名前を一緒にプレゼントしてくれたのだ。


「あたしは今からニットで、あなたは今からハンチ」


 今でも覚えている。大切な記憶だ。

 たくさん貰ったのだから、たくさんお返しをする。そう決めた。いつしかハンチは、ニットに何かされたら自分のことのように怒った。ニットが何に興味を持ったら、自分のためのように協力した。基本的にハンチの一日に大きな意味はない。食って、出して、寝る。まるで植物だ。ニットが彼女に何かをする理由を与えてくれた。ニットが居なくなったらハンチは無気力に生きていくのか、それとも後を追うのか。少なくとも今は、やれることをするだけだった。


「昔ニットが階段から落ちて動けなくなった時も、こうしておぶったことがあったね。あの時は何をしていたんだっけ」

「…………うん」

「ああ、そうだ。ニットが見たことがないくらい大きな虫を見つけたって言って探しててたんだっけ」

「………………うん」

「虫を見つけて大急ぎで階段を降りようとしたら足を滑らせたんだ。あれは驚いた。あちこちすりむいて、あちこち腫れてて」

「……………………うん」


 歩きながら声をかけ続ける。疲れが溜まり、息切れを起こすなか声を出すのは大変だったが、この返事が聞こえなくなったら終わりだと自分に言い聞かせて絞り出していた。ニットの返事はだんだんと小さく、遅くなっていった。返事が返ってこないと死んでしまったのかと不安になり、軽くニットを揺らした。うめき声もあまり聞こえなくなってきた。

 覚えているかぎりの思い出を語った。言葉が詰まればなんとか絞りだした。ニットをできるだけ繋ぎとめておくために。事実、ハンチが語る思い出はニットの思考を働かせ、無になるのを防いでいた。ニットは既に胸の痛みを感じなくなっていた。ハンチから与えられる思い出話の映像が頭の中で広がり、夢見心地の気分だった。心地いい感覚すらする。ハンチの背中は暖かく、それでいてゆらゆらと左右に揺れるものだから眠たくなり、このまま睡魔に身をゆだねようかとすら思ってしまう。それでもニットは返事を返す努力をした。自分に話しかけてくれているのだから、返事はちゃんと返さなくてはいけない。なのだが、声は腹話術のように遅れてしまう。自分の体をコントロールできなくなっていく。


「今みたいなこと前にもしたことあったよね」

「…………」

「ニットがこの街の端に行ってみようとした。私はそれについていった」

「…………」

「街の隅って思ったより近くて、この街は思ったより狭いことを知れた。面白い発見がなかったってニットは言っていたけど、私は楽しかったよ。街の隅には何があるのか知れたしね。今回だってきっと何かを知れるよ」

「…………」

「………………返事してよ」


 ひゅーひゅーと耳元で荒い呼吸が聞こえるから、まだハンチは生命を背負ってはいる。それでも返事がないと怖くて泣きたくなった。

 ニット自身は返事を返しているつもりだった。なんなら、ああそんなこともあったねとか、街の隅が壁で覆われているだけなんてがっかりだったとか、受け答えもしっかりとしていると自分では思っていた。

 寂しく会話をしているハンチと、楽しく会話をしているつもりのニット。二人の間に初めて壁が生まれていた。

 雲の位置が段々と低くなっていき、ついには雲の中に入った。雲はなんだか目に染みて臭いし、呼吸がしにくくなったが自分たちが確かに上へ向かっているんだと実感でき気力が湧いてきた。いつか雲の上に出れると信じるしかない。

 喉が渇き舌が乾燥した口の中で引っ付く。喉が痛いし咳も出る。雲の中に入ってから体調が悪くなり始めた。一日で体力を使いすぎたのか。すべてが終わったら、ニットと一緒に沢山寝よう。その後はどうするかは、その時に決めればいいや。雲に遮られた視界のように、ハンチの思考には靄がかかりぼうっと脳の働きを鈍らせていった。


 体力の限界などとっくに超えていた。それでも歩き続けたハンチは何かにぶつかった。壁のようだった。まさか行き止まりか、柱は雲の中の高さまでしかないのかと焦るが、すぐ近くに梯子があった。梯子の先には天井があり、また扉が付いていた。片手で扉が開くか試してみたが駄目だった。一旦ニットを下ろす。何故か彼女の顔を見るのが怖かったが、ニットはしっかり目を開けてハンチを見ていた。良かったまだ大丈夫そうだと胸を撫でおろす。

 扉にはノブらしきものが付いていたが回しても反応はない。ぶら下がり全体重をかけてみたがうんともすんとも言わなかった。他の扉同様鉄パイプで殴ろうとしたが、いまさら無いことに気が付いた。二人が襲われた部屋に落としてきていたのだ。ハンチは絶望ではなく焦りを覚えた。そろそろ寝る時間を知らせるサイレンがなる頃だ。あの音が響き渡れば、この世界は暗闇に包まれる。暗くなれば寝るしかない。寝たら明日になってしまう。そうなれば明日が今日になる前に、ニットは死んでしまうかもしれない。焦りというのはいつも人を追い詰め、おかしくしてしまう。それだけではなく焦りは苛立ちに変質して、さらに人を煽り立てるのだ。

 焦りと苛立ちにもみくちゃにされたハンチは、力任せに扉を拳で殴りつけた。


「なんで閉じてんだんだよ! 開けよ、開けよ!」


 それは扉を開けるための行為といよりも、ただストレスをぶつけているように見えた。切羽詰まり感情が暴走している状態。がむしゃらに叫び、がむしゃらに殴り続けた。扉は厚いのか、殴った音は小さい。お前がどれだけやろうと無駄だと言われているみたいで余計に悔しかった。


「開け、開け、開けってば、開けー!」


 殴る度に、拳に伝わる痛みが変わってきた。扉に当たるとぬるりとした感触がする。拳の出っ張りの部分の皮が裂け、肉が露出した。もしかしたら骨まで出てるかしれない。そのくらい、硬い鉄製の扉を殴っていた。

 手が痛い、胸が痛い、頭が痛い。痛いところだらけで涙が出てきた。ハンチは気が付かなかったが、その涙は赤かった。


「頼むから開いてよ……! 見せてあげたいんだよニットに! どうせ死ぬなら、最後に見たいもの見させてよ! お願い……だから……」


 ハンチはこの扉の先に望むものがあると言わんばかりだった。追い詰められ、そうでなければ困るという心情だったのかもしれない。

 物言わぬ鉄の塊に頼みこむと、奇跡が起こった。突然扉が開いたのだ。扉が劣化していたのか、それとも神がハンチ達を見ていてくれたのか。扉は重力に従い勢いよく開かれ、真下にいたハンチに直撃した。もし柱の外側に開くタイプだったら、衝撃で吹き飛ばされ落下していただろうが、運がよかった。柱側に開いたため、ハンチは柱の外壁に激突した。体の正面も背中にも強い痛みが駆け巡り、息ができなくなる。そんな状態でも、扉が開かれたのはしっかり分かっていた。

 悲鳴を上げる体を無理やり起こし、開かれた扉の中を覗いた。中は簡素な梯子が取り付けられた、天まで伸びる真っ暗なトンネルになっていた。その先は小さな、小さな光の点が見えた。すぐにニットに駆け寄る。


「ニット、光が見えたよ。きっとこの上が雲の上だよ、きっと青い空があるよ!」


 逸る気持ちが抑えられず、ニットを再び背負った。梯子を上るために、ニットの上着を脱がせ、彼女の体をハンチの背中に固定するのに使った。

 ボロボロの手、ボロボロの体、それでも必死に階段を上った。自分の血で何度も落下しそうになったが、それでも上り続けた。手や腕の怪我は、大量のアドレナリンのおかげか忘れていた。目や鼻から血が流れていたが、先ほど扉にぶつかったせいだと思って気にしなかった。

 もはや梯子を上る自動人形と化していたニットは、途中で休憩することなく光までの距離を縮めていた。早くニットの青い空を見せてやりたい一心だった。背中のニットも今か今かと待っているに違いない。 そういえば、ニットが持っていた絵本はどこにいったのだろうか。見当たらなかったが途中で落としてしまったのか。青い空を見れたなら、少し休憩してから探しにいかないと。


 光との距離が最も近くなった。光の形からして、何かに遮られているのが分かった。落ちないように気を付けながら、押し上げてみる。また開かないんじゃないかと一抹の不安を感じたが、多少重いくらいで蓋らしきものは簡単に外れてくれた。

 這い出ると、そこは建物の内部だった。おへそに密集していた建物と同じで散らかっていたが、どことなく生活感がある。

 光を頼りにふらふらと移動する。建物を出ると、地面がおかしいことに気が付いた。街の地面は硬かったが、なんだか柔らかいし緑色のものが生えている。絵本の地面と似ていた。はっとして空を仰ぎ見た。


「あ……」


 空にはハンチが望んでいたものが広がっていた。

 雲に覆われていない、青い空だった。


「ほんとに……ほんとにあった」


 あの世界では見たことがない、とても透き通った青だった。

 目的を達成して力が抜けたのか、ハンチはうつ伏せに倒れこんだ。固定していた服がずれて、ニットが隣に横たわった。ニットはごろんと転がり、空を仰ぎ見る。目はしっかりと開かれていた。


「青い空……青い空だよ。見つかって、本当に……よかった……」


 街の光とは違った温かな光がハンチを照らす。凄まじい眠気に襲われた。今まで感じなかった痛みをいまさら感じるが、とんでもない疲労感がそれを塗りつぶした。今はこのまま寝てしまおう。疲れているが、達成感のおかげでよく眠れるはずだ。次にすべきことは、起きた時に考えればいいや。

 気持ちは眠るほうに傾いていたが、ハンチはなかなか目を瞑ることができなかった。次に目を開けたら、もうニットに会えないんだと分かっていたからだ。せめて目的を達成した感想を聞きたかった。

 ああ腹が減った。あんな味気ないパンでも恋しくなるんだな。できればまた、ニットと一緒に食事をしたかった。食べ物を考えるとこみあげてくるものがあり、咳をした。唾に赤いものが混じっていた。

 ハンチは目を閉じる。普通目を閉じたら暗くなるはずだが、なぜだか青いままだった。青と白、ようやく見つけた空のコントラストの中で、ニットは嬉しそうにはしゃいでいた。なんで目を閉じたのにニットがいるんだろうと思ったが、疲れていて頭が回らなかった。ニットはハンチに気が付くと、転びそうになりながら走ってきて 、空を指さした。



 とある国では何世紀も公害が問題になっていた。技術発展があまり進んでおらず、工場などからは有害な排気ガスや汚水が垂れ流され、健康問題が多発していた。時代の流れで他国との交流によって、今までの問題が明らかになり対策がされていったが、昔からの在り方をなかなか変えない企業も多々あった。金をかけて作り出したシステムを、さらに金をかけて作り変える必要性を感じない企業は反感を買ったが、そういった存在はしぶとくとても強い。この国では公害によって被害を受けた被害者の会が中心となったデモ隊と、環境と人々を蝕む企業との衝突が絶えなかった。

 そんな企業の中で、特にデモ隊から目をつけられていたのは大規模なゴミ処理施設を運営している企業だった。それこそ何世紀も続いている施設で、国の中では複数の支部が存在していて存在感があった。しかしゴミを処理する際に発生する有害物質への対策はずさんそのもで、煙突からはいつももくもくと危険な煙を立ち昇らせていた。

 被害報告が多く真っ先に稼働停止にすべきだが、国との癒着でもあるのか、国民が声を上げても状況の改善は見られなかった。何か大きな証拠が必要だった。

 そのゴミ処理施設には噂があった。特に大きな施設で、種類関係なく何でもかんでも燃やす焼却施設があるというのだ。その施設では不法に雇われた職員たちが、軟禁に近い状態で悪辣な環境で働かされていると。


 こんな噂は、ほかの公害企業にも掃いて捨てるほどあったが、真実であることが発覚した。噂を信じて施設を探していたデモ隊の一部がある日、二人の少女の死体を発見した。死因は一見、体にあった銃痕のせいと思えたが、一人は死ぬような怪我ではなかった。それに目や鼻、耳からも流れていた血を見ると公害の病気の一種の疑いがあった。

 彼女達のものらしき足跡を辿ると、噂の施設があった。地下に隠された巨大な焼却施設はまだ稼働していたらしく、内部は有害な大気で汚染されていた。

 後に調べて発覚したことだが、過去にこの国の一部地域で身寄りのない子供たち、つまりいなくなってもあまり問題にならない子供たちが失踪した記録があった。公害が酷い国だったし、どこかで死んでいるのではないかとちゃんとした捜査が行われなかったが、ゴミ処理施設を運用してる企業が関わっていたことが発覚した。子供たちを誘拐し、地下施設で労働させていたのだ。知識のない子供たちを食料で釣り、危険な作業を丸投げしていた。たまに管理する職員を派遣させていたようだが、いつしかそれも行わなくなった。時の流れで企業も地下施設を重要視しなくなり、放置気味だった。一応金は発生させていたので、運用はされていたが。管理されなくなった子供たちは与えられた仕事を黙々とこなし、気が付いたら子供同士で子供を作り、世代交代をしていくことになる。知識がなくとも、人間の本能がそうさせたのか。環境が環境なので長生きはできず、素早く繰り返される世代交代が本来の役目を忘れさせた。いつの間にか地下施設は独立した街、世界になっていたのだ。


 この事実が公表されると、流石に企業は大手をふって活動することは困難になり、ついには消滅した。これによって公害問題が一気にに改善されることはないが、それでも大きな組織を潰せたことは見せしめになる。これからはデモ隊に有利な状況になっていくだろう。

 地下で産まれ、地下で生きた彼女達の人生がどんなものだったかは分からない。第三者は決していいものは想像できないだろう。だが二人の死に顔はどこか晴れやかで、少なくとも終わりは悲観的ではなかったと思いたい。名も知らぬ功労者二人を発見した日は、汚染によりガスがかかりやすい地域には珍しい、清々しい青空の日だった。

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ハンチとニット 東谷 英雄 @egorari28

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