燃やし方

 写真を燃やしながら祈る。もう二度と、僕の頭の中に君が出てきませんように、と。洗面ボールを焦がしながら、二人の顔が黒く歪んだ。火は恨めしそうにこちらへと伸びてきた。これが僕たちで撮った最後の一枚だ。煙草を口に咥え、燃える写真で火を点ける。焼けた紙の香りが舌の上で転がった。今まで吸った煙草の中で一番、不味いかもしれない。


 いつかはこうなる運命だったのだろう。隣にいる時間が減って、話す機会が丁寧に潰れて、メールさえ特段の用事がなければ交わさなくなる。最後のメールはあっけなかった。あの子の中にある理由と、僕のそれとは間違いなく合致していて、ただ一言『別れたい』と送られてきただけだ。だから僕は、いつも通りの意味を込めて分かった、と送った。それ以降、携帯は彼女からの連絡を受信していない。

 大切な人が僕の中からいなくなった。洗面所に立ち込める臭いが、嫌でも事実を認めさせる。なのに、不思議と僕の心境に変化はない。付き合いだした当初は、僕が彼女を幸せにすると誓っていたのに。でも、時間が経つにつれて、僕たちは自分で自分の幸せを、手にすることができるようになっていた。日々の空白を独りでも埋めてしまえる。分かってしまったからこそ、選択は遅かったものの、終わりを選んだのだろう。


 黒い煤の中へ半分程しか吸っていない不味い煙草を投げ入れて、水を流した。火の消える音が小さくする。これでもう、彼女と僕を繋ぐものは何もない。いつかを思い出そうとしても、手掛かりになるのは風化していく記憶だけだ。掃除をする気になれず、ニコチン酔いでぼうっとしたままリビングへと戻った。


 部屋は約ひと箱分の煙で薄く靄がかっている。まるで映画のセットのような雰囲気だ。ソファへ深く腰掛けて、しばらく天井を仰いでいたけど、無音に耐えられずテレビを点けた。中古のテレビはもったいぶりながら音声だけを先に流してくる。好きな芸人がコントを披露しているところだった。失恋の直後で、味気なく感じるのかと思ったけど、そんなことはなく、寧ろ今までより面白い。でも、ちゃんと内容を理解できないせいか、すぐに飽きた。チャンネルを回し、他の番組もざっと見てみる。ユーチューブにアップされた動画をまとめただけの番組、犬や猫を愛でる番組、世界の謎を解明する番組、眉唾物の都市伝説を本気で語る番組。色々と見てみたけれど、結局は元の番組へと戻った。ちょうど、芸人はコントを終えたところで、大御所っぽい人がコメントしている最中だ。だけど、内容が陳腐なものに聞こえてしまい、馬鹿らしくなって電源を切った。


 暗くなった画面に僕の姿が映る。二人掛けのソファに座る僕は、孤独でちっぽけに見えた。人の感情を動かす機械に笑われている気がして席を立つ。後悔も傷跡もないはずなのに。なぜか半身をもぎ取られたかのように空虚だ。

 今日はもう寝よう。明日か明後日か、はたまた遠い日々の先まで、彼女との思い出は燃え続けるのだから。


 水を一杯飲んでから寝室のドアを開けると、ふと机の上から濃い桜色をした正方形の付箋が、蝶の羽のように舞いながら床へと落ちた。薄暗い部屋の中で、それは逆光を受けて存在感がある。拾って明かりに照らすと、すぐに彼女からのメモ書きだと気付いた。


『バイトお疲れ様! ゆっくり休んでね』


 可愛らしい文字で、すぐにいつ書かれたものかを思い出し、すぐに捨てるべきだったと後悔した。手の平に乗った付箋の文字が濡れる。全部、捨てたはずだったのに。別れてから今まで流さなかった涙が、次第に強くなる雨のように零れだした。立っていることもままならなくなり、膝から崩れ落ちる。夜を吸い込んだフローリングは、痛くなるくらいに冷たい。

 バイトが忙しくて会えない時、あの子は僕の自宅の玄関に差し入れを置いてくれていた。その時に付けてくれていた付箋だ。こんなものまで僕は取っておいたのか。きっとあの頃は、終わりが来ることなんて想像していなかったのだろう。

 戻りたくても、もう戻れない。話し合う余地はいくらでもあった。寄り添える時間はどれだけでも作れた。だけど、僕は離れることを飲み込んだ。手の平で滲む小さな彼女の優しさ以外の全てを、燃やしてしまったのだから。一度散った花弁は元に戻らないように、再び縁が結ばれることなんてない。


 最低だ。彼女に対してだけではなく、自分の心さえも焼べていた。いくら涙を流しても、後悔は部屋の至るところに隠れている。何発もヒットをくらったボクサーのように立ち上がって、家中のあらゆるものをひっくり返した。アルバムが挟まっていた本棚、書類の入った机の引き出し、ペアのカップが収まっていた食器棚、一本少ない歯ブラシスタンド、ラックのタオル、寂しそうにぶら下がるクローゼットのハンガー。時間が戻るなんてSF映画だけの話だ。それでも、彼女の断片が何か一つでもあれば、あのメールが届く前へと戻れそうな気がした。

 だけど、僕はどうやら本当に終わらせてしまっていたらしい。付箋に書かれた文字以外、何も見つけられなかった。


 疲れ果てて、ソファに寝転がる。天井から降り注ぐ照明の光が眩しい。君なしで気付いた虚しさの正体を、もっと早くに知れていればよかったのに。目元を濡らす涙だけが、温かかった。


 もう二度と現れないでと願った君との記憶が、頭の中でいくつも蘇ってくる。


 どうか、どうか明日が、僕の元にだけ来ないでください。


 君を失った深くて冷たい夜の中で、僕は生きていきたいから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

残片 平山芙蓉 @huyou_hirayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ