暗闇

 辺り一面、世界中の夜をかき集めたかのような暗闇に覆われている。視覚は全然はたらかないけれど、甘い香りと、牛歩くらいの速度で歩く何かの音だけは感じ取れた。それ以外は、自分のことなのにどうも曖昧だ。歩いているのか、走っているのか。腕を上げているのか、降ろしているのか。目を閉じているのか、開けているのか。その全てが正解であり、同時に不正解でもある気がした。僕は一体、どうしてしまったのだろう。


 闇に溶けた何かの正体は、依然として掴めない。話し声に似た音も混じっているから、人に近ししいものだという予想はある。

 僕は自分自身の周囲に、すみません、と訴えかけてみた。だけど返事はない。無視されているというより、気付かれていない感覚だ。くじけずに何度も呼び掛けても、やはり僕の声は届いてないらしい。そのうち、気持ちも萎えてしまい、たちどころに不安に駆られた。独りきりで、ずっと暗い空間で生き続けなければならないのだろうか。朧気な感覚の中で、涙が流れていることだけは、不思議とはっきりしていた。

 零れる雫の温度は、熱と言ってもいいほど熱くなる。我慢していた声も、堰を切ったかのように、止めどなく溢れてきた。どうせ誰も僕に意識を向けないのだ。わんわんと泣いても構わないだろう。孤独と、どうしようもない事実が、こみ上げる悲しみに拍車をかけた。

 そうしていると、ふと何かが僕に当たった。


「どうしたんだい、こんなところで蹲って」


 僕以外の声が、頭上から降ってくる。驚いて、僕は悲鳴を上げて頭を擡げた。どうやら僕は蹲っているらしい。妙なことだが、その人物に今の僕の体勢を告げられると、間違いなく僕は蹲っているのだな、と理解した。四肢を曲げて、脚を抱き込む形でしゃがんでいる。相変わらず、依然として暗闇に目は慣れない。けれど、近くにいるはずの人物のおかげで、僕自身の形が明確になった。頬を伝う涙を手で拭って立ち上がる。視線の先にいるのかは分からないが、ありがとうございます、と礼を言った。


「いいんだよ。ここは誰でも迷い込む可能性のあるところだからね」


 彼、なのか彼女なのか、性別を声音からは判断できない。かといって、中性的と表するのも違う。まるで、文字自体の印象を読み取っているかのような、奇妙な声をしていた。


「誰でも迷い込む場所……って、どういうことですか?」


「簡単に言えば心の底さ。君は何かの拍子に、ここへ落ちてしまったみたいだね」


 心の底。ならば、この暗闇は僕の心の中、ということだろう。自分でも、表情筋がぐっと下がったのを感じた。


「心配はいらないよ。すぐに出ることができるさ」

「本当に……本当に大丈夫なのですか? 今ここにいる僕にはあなたしかいません。あなたの言葉を信じても、構わないのですか?」


 いっそ、お前はもう助からないとはっきり言われた方が諦められる。拭ったばかりの目元が、またじわりと濡れはじめた。人前で泣いてしまうなんて子どもみたいで情けない。


「大丈夫。きっと分かるよ。君には君を待っている人がいてくれるのだから」


 僕を待ってくれている人。妙な響きだった。まるで僕自身の使命であるかのような言葉。そうだ、僕には大切な人がいる。はっきりといることは分かっているのに、頭を捻っても、霧に覆われて上手く思い出せない。だけどその人のために、帰らないと。

 不意に目の前が白みだした。いきなり明るくなる世界に眩暈を覚える。


「ほら、朝が来た。夜はいつか終わり、夢はいつか醒める」


 突然、回路に電気が流れたかのように、忘れていた全てを思い出した。どれだけ辛いことがあっても、戻らなければならない。こんなところで、泣いている場合ではないのだ。


「行ってらっしゃい。君はどれだけ挫けても、きっと大丈夫さ」


 迫りくる光の中で、声は色々なところから聞こえてきた。これまでの人生で出会った全ての人の顔が、脳裏を過っていく。


「また、あなたに――あなたたちに会えますか?」


 元通りに戻る最中で僕は問うた。返事はない。だけど、予感だけはある。またいつか、この人とは暗晦の夢ではない場所で、会えるのだろうと。

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