Kick Out Old Loneliness.

 涙で濡れそぼった目元を拭うと、追い打ちをかけるように煙草の煙が沁みた。それでも、フィルターを口へと運ぶ手は止まらない。メンソールとミントの冷たさが胸の内側まで入り込んできた。しっかりと堪能してから、深呼吸の要領で煙を吐き出す。身体が怠い。食道や気管に汚れが溜まっているのが分かる。この一年ですっかり私はニコチン中毒者になってしまった。


 すっかり短くなった煙草を、灰皿の底に押し付けて火を消す。煙の消える時の残響を聞き届け、完全に部屋の中が朝霧のように霞んでしまうのも気にせず、箱からもう一本取り出した。中はあと数本しか残っていない。いつもより減りが早いな、という考えが一瞬だけ頭を過ったけれど、すぐに忘れてライターのやすりを回し、火を点けた。紙と葉の燃える音が、私の寿命の縮みを警告しているかのようだ。今のペースで吸い続ければ、いずれは病気になるだろう。友人からも注意されるし、非喫煙者の人々からはやめなさいと口々に言われる。


 もちろん、禁煙だって何度か考えた。だけど、考えただけで実行には至っていない。私はやめられないところまできてしまったのだ。煙を吸っては吐いてを繰り返していると、いつの間にかまた涙が頬を伝っていた。徐に顎先を目指す水滴は、唇の端の隙間から中へと入り込んでくる。そういえば、私が初めて煙草を吸った頃も泣いていた気がする。たしか、あの時は彼と喧嘩をしていたのだっけ。どうにもむしゃくしゃしていて、半ば衝動的にコンビニで煙草を買ったのを覚えている。肺に煙を入れられず、咳き込んでいたのが懐かしい。嫌なことがある度に本数が増えて、今じゃ一日にひと箱は吸うようになってしまった。


 ぼやけた視界で部屋を見回すと、改めて部屋の広さを実感する。ただ居てもいいはずの人がいないだけなのに。ここも箱の中身と同じようにほとんどすっからかんだ。些細な喧嘩して、ついに出ていく覚悟を決めた彼は、私が寝て起きた頃にはいなくなっていた。家具も、二人で選んで買った食器類も、お揃いのシャツも残したまま。しかも、もう二度と帰ってくる意思がないことを示すためか、机の上には合鍵がこれ見よがしに置いてあった。無くなっていたのは携帯やイヤホンやらの、ポケットに入る類のものだけだ。なのに、どうしてこんなにうら寂しいのだろう。どうしようもない孤独が、またピントを歪ませた。

 心にある隙間を埋めるように、次の煙草に手を伸ばす。絶え間なく吸わなければ、声を上げて泣いてしまいそうだった。思いっきり吸って、吐く。舌はニコチンの苦味で満たされている。煙草が煙草を吸う一番の理由はそれだ。この苦さは悲しみよりも深く、涙の味を忘れさせてくれる。嫌なことを思い出しても、全てを打ち消してくれる。頼らなければ生きていけないほど脆い人間であることを自覚させてくれる。私の弱さを、煙は教えてくれる。

 また一本、吸い終えて軽くなった箱を手に取った。中で煙草が転がる。パッケージの名前が目に留まり、昔彼と話したことをふと思い出した。


『君の吸ってる煙草の名前の由来を知っているかい?』

『知ってるよ。たしか……Kick Out Old Ladyの略でしょ。酷い意味よね』

『残念、それは俗説だね。本当はKeep Only One Loveの略。“一つの愛を貫き通す”っていう意味』

『へえ、そうなんだ。知らなかった』

『みんな気にせずに吸う人が多いからね。でも、その煙草は君に似合ってると思う』


 どうして今更思い出したのだろう。ぼんやりと箱の表面を見つめながら考える。あんな風に楽しく過ごした彼はもういないのに。たったの数時間前から過去の人になったのに。もう私は、この部屋で孤独に過ごすだけなのに。でも、もしも偶然があるとするのなら。そんな過去は忘れてしまえということなのかもしれない。


「考えすぎかな……」


 自然と声が漏れており、口角が少し上がっていた。

 最後の一本を取り出して、口に咥える。不思議と火を点ける前のそれは仄かに甘い。今は無理でも、いつかこの孤独も過去となって、蹴り飛ばしてしまえる日はきてくれるのだろう。彼のことを昔の男と声にできる日はくるのだろう。

 いつの間にか涙は止まっていた。咥えた煙草を、そっと箱の中へと戻す。涙の味は、もうしなかったから。

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