傍観

 夜を見下ろすことのできる公園で寒風に吹かれた時、つまらないことを思い出した。味気ないガムを噛んでいるかのような気持ち悪さ。頭を覆いつくそうとする嫌なものを紛らわさせるために、横にいる恋人に寒いね、と呟いてみる。でも、開いてしまった傷口から止めどなく血が滲むみたいに、思い出したくもない記憶は蘇ってしまう。いくつも、いくつも。曾祖母を殺した時の感情、嫌いなクラスメイトをトイレで転倒させて怪我をさせた時の感情、知らない土地で当時付き合っていた人と喧嘩をしてしまい、置いて帰った時の感情。今までに何度も思い起こしたせいで、すっかり擦り切れた罪悪感が、僕の中で渦巻いている。顔が痛い。十二月の冷たさが、ナイフになって僕を切り付けてくる。


 何度も溢れる記憶を殺そうとした。こんなものが僕の中にあってはいけないと、訴えながら。道端に群れる蟻を踏みにじるように、言うことを聞かない子どもに手を上げるように、気に入らないものを破り捨てるように。だけど、脳裏で浮かんでしまうと不思議なことに、それらは鋼の如く強固なものになる。立ち向かえばあっという間に、ねじ伏せられてしまうのが常だ。


 情動に歪んだ今の顔を見られないように、隣にいる彼女をそっと抱き寄せた。冷え切った身体に、じわりと体温が沁みこんでくる。反応はない。代わりに、夜の冷たさで痺れる鼻腔を、太陽に似た甘い匂いが擽った。彼女は何も知らない。僕の過去の全ても、醜悪な本性も。僕が話さないからじゃない。僕たちの本当の心は、全くの正反対の位置にいるからだ。彼女を作るものは光で、僕の根底は影。

 一緒に過ごしてもう一年は経つ。色々な思い出を作った。イチゴ狩り、温泉旅行、水族館、動物園。どれも綺麗で、他人に触れられるのも嫌なくらい、澄んだ色をしている。だけど、そこに本物の僕はいない。汚れた心を数えるのが面倒な程、濾過して、ほんの僅かにできた上澄みを汲み取り、僕として生かしてきたから。守りたい人を抱きしめるためには、その道しか選べなかった。だから、僕の根底は影なのだ。彼女の前に立てた空っぽの実像から伸びる、闇色の人型。


 僕は汚い。


 消えてしまいたいと願うくらい汚穢だ。最低な本能に従い、罪を重ね続けた結果、世界で一番、卑怯な人間ができてしまった。平気で嘘を吐き、人を嘲り、貶める人間。なのに、生きている。死にたいと望みながら僕は今日を生き、明日を立ててしまう。矛盾だらけだ。

 そんな人間から芽生える愛がもし、視認できたとすれば、歪な形をしているに違いない。紫ではなく赤と青で対立していて、持ち上げると重くて落とせば花弁のように軽く、近くで観察すれば尖っているのに、遠くへ投げれば丸く見える。これが愛だと言えるのかも甚だ疑問だが。


 腕の中にいる彼女の呼吸が聞こえてきた。距離なんて呼べないほど近いのに、心の奥底とは繋がっていない。その関係を影は壊せない位置から傍観している。まるで深海から海面を遊泳するイルカを眺めるかのように。僕に成りすましている僕を、息を潜めながらずっと。


 僕は殺したい。


 透明な皮を被った自分を。汚れたものを秘めた自分を。おおよそ僕と呼べるものの全部を。築き上げてきた人生を切り刻んで、ゼロにしてしまいたい。

 最近は、今よりもっと先の将来を考えてしまう。ただいまと聞こえてきて、おかえりと返せるような未来の話。僕の日常が変わるとすれば、玄関へ出迎えて、彼女を抱きしめるのは、どちらの僕なのだろうか。死ぬべきと迫られ続ける僕なのか、彼女の光を浴びる僕なのか。


 脳裏を行き来する不安を押し返すために、悴んだ手で彼女の小さな手を握る。ここにきてから、僕たちは寒い以外の言葉を口にしていない。彼女は少なくとも、頭を犯す僕の苦しみを、彼女は考えてもいないはずだ。ならば、何を考えているのだろうか。聞いてみたいけれど、どうも拒まれた。


 僕は知らない。


 彼女が僕の正体と相対したとして、その時に感じる何かを。好きだと言ってくれる彼女の心が、偽物でできた僕に対して向けられていることを理解しているから。真実が発露してしまってもきっと、彼女は僕の罪を認めてくれる。そっと、今の僕みたいに抱き寄せてくれる。その優しさが怖い。心を温めてくれる言葉が愚弄に聞こえそうで。慰めが惨めな気持ちを呼び寄せてしまいそうで。そして、いつか彼女の僕を見る目が変わってしまいそうで。


 静かに街を見下ろす彼女に、そっと目を向ける。長い赤毛に隠れて表情は窺えない。彼女の光が本物でも、汚れたこの手で触れば、曇るだろう。だから、孤独な結末に陥りそうになる。


 僕は見えない。


 輝く未来が、時雨の降る街の灯のように。いくつも咎を背負ってきても、大きな罰をこれまで与えられなかった。ならば、僕が僕を責めるのは良心の呵責によるものなのかと問われれば違う。そう思うべきだと、道徳や倫理と呼ばれるものに、照らし合わせているだけだ。

 風の吹く音だけが、二人の会話にあった。寂然とした情緒が、身体を蝕んでいく。温度は確かに身体の奥へ届いているのに、独りの時と似た空気が肌の上で踊っている。


 僕は死にたい。


 幸せがここにあったとしても、未来にあったとしても、過去にあったとしても。誰の手にも届かないところまで持っていきたい。美しい時間のまま、閉じ込めてしまいたい。血だらけになった僕の指さえも、至らないところ。この頃、僕は自分で自分を縊る想像をしてしまう。椅子の上に立ち、縄を首に巻いて、ぶら下がる瞬間を。宙に浮いた身体で魂の重さを知れるのか、死の間際に何か思い返すのか。そして、その無様な最後を見ることになる彼女は、どんな言葉をかけてくれるのか。


 僕は分からない。


 頭を支配する妄想を、どこかで鳴いた猫の声がさらう。果てしない現実が、また横たわってくる。


 帰ろう、と囁いて彼女を腕の中から解いた。確かにあった熱は、瞬く間に消えてしまう。冬は全てを奪うから嫌いだ。手を繋いで歩き出すと、不意に腕を引っ張られて立ち止まる。どうしたの、と聞くと彼女はキスを求めてきた。僕は僅かに逡巡しながら、静かに唇を重ねる。

 今、僕は誰なのだろう。彼女にとって好きな人であろうとする僕なのか。それとも、卑劣なものを抱えた最低な僕なのか。どちらにしても、僕は彼女をまた汚したことに違いない。


 唇を離し、再び彼女の手を引きながら行こう、と言うと、彼女は季節に埋もれそうなくらい小さな返事をした。また、強い寒風が顔を撫でたせいで、記憶の冷たい景色から色が抜けていく。これ以上、彼女を大きな影の中へ縛るのは躊躇われた。

 暗い道に、二人の足音が響く。だけど、僕の足元から鳴る音は、一つ多い気がした。いつか僕を動かすどちらかが散ってくれたのなら、その残滓で彼女を真に愛せるだろうか。


 僕は知らない。陋劣な姿と、そこから生まれた嘘だらけの僕に、どんな結末が待っているのかを。


 僕は見えない。彼女へ向けている愛の形が。


 僕は汚い。大切な存在さえいとも簡単に壊してしまい、罪の返り血を浴び続けてきたせいで。


 僕は消えたい。そこに残る記録を彼女が目にした時に、本当の気持ちを知れるのならば。


 僕は死にたい。


 この両肩に乗った時間の重さに、もう耐えられそうにない。


 だから、僕は死にたい。


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