水の零れる夜空

 温かな水が、排水口の小さな穴へ吸い込まれていく。嵩が減る浴槽の中で、優しく包み込んでくれた熱を、徐に感じられなくなる。胎内から外へと出てきた時も、こんな惨めな思いをしたのだろうか。産まれてこなければ、私という自我がなければ、冷たい現実に目を遣る必要もなかったのに。


 お湯は完全になくなり、水の流れていく音も止まった。陽炎に透かした人みたくぼやけていた私の身体に、くっきりとした輪郭が戻る。それを見せているのは、冷たく湿った朝霧のような空気だ。浴槽から出て、シャワーの栓を捻った。甲高いゴムの擦れる音と共に、頭の上から束になった水滴が降り注いでくる。静かな密室だったのに、降り止まないいつかの雨の日みたいな音が、満ちていった。


 あの日、白い城へ彼が吸い込まれていく姿を、私は呼び止めていた。隣にいる誰かなんて知らない。必死に名前を叫んだ。喉が切れそうなくらい、彼の名前を。だけど、彼はこちらに背を向けたまま、私とは毛ほども似つかない代替品ドッペルゲンガーと楽しそうに笑って、歩みを止めなかった。


 脳裏に焼き付いた記憶を洗い流すよう、狭い風呂場の天井を仰いだ。何日も掃除をしていないせいで黒い黴ができている。私はその黴を目線で結び、星座を作ろうとした。知っているのは、あの人が教えてくれた蠍座だけ。君の星座だから。夜空を見上げて探す時、私はいつもその言葉を思い出す。だけど、いくつもできた黒い点を上手く繋ごうとしても、その出来は完成から程遠かった。


 声が届かなかったのは、うるさい雨が邪魔をしたせいだ。それか、傘を差していたから聞き取りにくかったに違いない。でも、どちらの考えも間違いだと、叫んでいたはずなのに痛まない喉が教えてくれた。


 すっかり荒れた肌にまたボディソープを塗る。肌の上で、何度も何度も擦り泡立てた。そして、高い位置から降り注ぐシャワーで同時に流す。人肌より少し温度のあるお湯が伝う度、うっすらと赤味を帯びる身体が痛む。


 まだ、思い出してしまう。あの人がくれた私が傍にいる記憶を、あの人が重ねた唇の柔らかさを、あの人が夕景に歌った歌を、あの人が欲した繋がるという行為を。どれだけ身体を洗っても、浸しても、ずっと私の中でその汚れは澱み続けている。薄くて弱い肌に、黒くて手触りの悪い髪に、伸びた爪の隙間に、舌の上に。そして何より、他人と交えた後のものが、私の中に入ったという事実も。


 思い出を記憶になんかしたくなかった。二人だけの奇跡のままにしていたいと、望んでいた。なのに、その願いを手の平で握っていたのは私だけだ。あの人にとっての特別は、誰でも良い。一つの欠片では満足できないらしい。収集家のように思い出を集めて、多く飾ることを目的としている。私にそれはできない。たくさんの絵画に埋まる部屋よりも、たった一枚の作品を飾っていたい。でも、もうそれも駄目みたいだ。簡単に表すのなら、価値観のすれ違いだろう。何もない殺風景で孤独な記憶の部屋で、私は過ごすしかない。


 耐えきれるのか。そんな言葉を投げかけてみる。あの人のいない日々で、今もどこかで劣情のままに身体を貪るあの人がいない日々で生きる道を、選択できるのか。だけど、答えは出ず、泡のように膨らんで問いは流れていった。


 シャワーを止めると、また静寂が訪れる。独り言を呟きそうになって、唇を噛んだ。想いを口にしたところで、誰にも届かない。理想の内では思うようにできていたのに。でも、理想は現実には敵わないから理想だ。そんなものに手を伸ばして届いたのなら、私はこんな想いをせずに済む。


お湯の張っていない浴槽へ身体を預け、カランに切り替えた。栓を捻ろうと掴んで、少し躊躇する。どうして私がこんな思いをしているのか、と。浮気をしたあの人が全部悪いはずだ。私では満たせないのなら、捨ててくれれば良かったのに。そうすれば、悲しみはもっと小さなものになっていたのではないだろうか。


 薄い膜に歪んだ浴槽で、水の音が弾ける。瞬きをする度に零れるものなのか、それとも濡れた髪から滴るものなのか。四つん這いで情けない格好が視界の隅にある鏡に映った。


 その雨音をこれ以上聞きたくなくて、耳を塞ぐように栓を思いっきり捻る。また、甲高い音が室内に響いた。何回も繰り返される行為に、悲鳴を上げているみたいだ。


 未熟な海が作られていく。私の冷たい日々を温めるように。あの雨の後から、私は彼と会っていない。時々メールをするくらいだ。関係は繋がったままの現状らしい。あの人は、私の残骸が横たわる毎日を、終わらせたいと考えているのだろうか。私は今も好きだ。手を取り、色々な所へ行きたい。ピンクの花弁の下で歌いたい。太陽の輝きを跳ね返す水の中を泳ぎたい。別れ際が寂しくなる風を受けながらキスをしたい。今年の最後を暖かな部屋で一緒に眺めたい。私が欲しいものは、海馬に収まりきるほどちっぽけなものじゃない。


 そんな望みを諦めが削ぎ落とす。

 だけど、そんな日々はもう来ないかもしれないという不安。心から剥がそうとしても、しがみついて離れない。根付いた疑惑は芽を出して、既に花として開いてしまったから。その先にある絶望を、直視したくはない。


 いつの間にか、お湯はたっぷりと溜まっていて、私の身体は肩まで浸っていた。私の涙の溶けた水は、人肌よりも温い。なのに、とても温かな感じがする。孤独な海。透き通る水中には、肋骨の彫りに翳りの差す、明らかに栄養の不足した貧相な身体があった。


 こんな孤独は生まれて初めてだ。


 寂しい。私はとても、寂しい。あの人の心が私の傍にないことが、寂しい。私の心があの人との日々に終わりを見ていることが、寂しい。未来が拉げていることが、寂しい。それでも私は、そんなものたちに関係なくあの人を好きでいることが、寂しい。夜の海に放り出されて、岸辺に輝く街を眺めているようだ。


「寂しい」


 堪えきれず吐き出した言葉に溺れる。息の仕方を忘れてしまったみたいに、肺が重い。吸って吐く。ただそれだけのことが難しく感じてしまう。眩暈がして、頬を水滴がいくつも伝っていく。口の中で苦味が広がった。何度も広がった。荒くなった呼吸をする度に肺いっぱいに涙が溜まる。


 言い表しがたい感情が胸の奥に閊えていて苦しい。震える身体をなんとか抑えて、浴槽から出ようとする。口の中はすぐに渇いて、からからだ。


 だけど、すぐに出ようと焦ったせいで、床の流しきれていなかった泡に足を滑らせてしまった。そのまま私は、壁に頭をぶつけてお湯の中へ沈んだ。息ができない。ゆらゆらと天井が揺れている。もがこうにも全身が痺れて言うことを聞かない。思考に不透明な布が覆い被さり、ここがどこかも分からなくなる。視界の端から真っ赤な液体が上っていく。夢の世界。ここはお湯の中みたいに、ただただ温かい。

 泡の弾ける音が聴こえた。清らかな水の味が広がった。懐かしい匂いが香った。柔らかな手の感触が伝わった。


 光が、見えた。


 黒い点が並んでいる。

 夜空の色相を百八十度反転させたようだ。

 蠍座。君の星座だから。

 私が好きだった人の、私が欲しかった人の言葉を思い浮かべて点を繋ぐ。こうしないと私は、唯一知っている星座を作れない。

 でも、やっぱりこの狭い夢の世界の星空に、蠍座は浮かんでいなかった。

 諦めて、そっと目を閉じる。


 きっと目覚めた時には、隣であなたが寝息を立てていてくれると信じて。

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