曇天

 私たち、もう終わりね。夕方の騒々しい喫茶店の中にある彼女の声は、囁きに近かった。店員が持ってきたホットコーヒーは既に熱を失っている。一口啜ると、舌が萎みそうなくらい、渋い味が突き刺さった。冷たくて黒褐色の液体は、彼女から告げられた言葉を聞いた僕の心くらい冷たい。いや、このコーヒーの方がまだ温いかもしれない。


 仕事終わり、彼女からメールが入っていた。久々に会いたい。タイムスタンプは十六時三十四分。ディスプレイの半分以上を占める空白のせいで、黒い無機質な文字列が、鮮やかに浮かんでいた。いつもなら沢山の文章に絵文字を添えて送ってくる彼女にしては珍しい。


 今はポケットの底に沈んでいるメール画面を思い返す。たしかに、仕事の飲み会や、帰郷してきた友人と会ったりして、彼女とは会えないことの方が最近は多かった。それに、趣味で作っている曲も佳境に入ったところで、前よりも返信の頻度は落ちていた。今日くらいは会おう。僕はそう考えて、いいよ、と返信をした。それも、普段は使わない絵文字なんかも使ったりして。


 薄暗く調整された店内の照明に、軽い眩暈を覚える。何も見たくもないし、聞きたくもないと抗うかのように、頭から血が逃げる。あのメールの文面から際立っていた異様さに勘付いていれば。あるいは、多少違った時間にいたのかもしれない。


 喫茶店へ先に入っている彼女を見つけた時も、僕はいつも通りの軽い態度で久しぶり、と挨拶をした。黒い長髪と、全体的に薄い印象の顔立ち。姿自体は何も変わらないのに、滲み出る辛気臭さに、違和感があった。


 どうしたの、元気ないね。

 注文を取りにきたウェイトレスへホットコーヒーとだけ言って、僕は彼女に聞いた。だけど、彼女はちょっとだけ微笑みながら、首を横に振っただけだ。

 久しぶりに会えて僕は嬉しい。なのに、こちらをじっと見つめる彼女の瞳には、どこか翳りがあった。深刻なことでもあったのだろうか。だから、明るい態度の僕に苛立ちを覚えているのか。色々と推察していく度に、胸の周りを雲に覆われていくのが分かった。

 心配だから、話してみてよ。もしかして僕のせい?

 できるだけ、彼女が言い易いように、と心なしか強引に迫ってみる。すると、彼女の顔からふっと、降っていた雨が急に止んだかのように表情が消えた。


 いつになったら気付くかと思ってたけど、やっとね。最近はちっとも会ってくれないし、いつ会えるって聞いても適当にはぐらかすし。いつもいつも趣味とか友達を優先して、私のことなんてどうでもいいんじゃないの。


 想いを吐き捨てた彼女の静かな怒りを、僕は黙って聞いていた。冗談だ、なんて考える暇もない。ましてや決壊した彼女の口から流れてくる感情に、普段と同じような我儘だとか、困らせたいんだなとは、微塵も思えなかった。

 ある意味でショックだったのだろう。会えた喜びに浮かされていた僕も、彼女を心配していた僕もいない。ただ、店員がホットコーヒーをテーブルの上に置いた音さえ聞こえないほど、尖った耳鳴りに鼓膜を侵されるだけだった。


 張り詰めた空気から抜け出そうと、またカップに口を付ける。白い陶器の淵には、泥のような染みができていた。対照的に、彼女はアイスティーに手を付けてすらいない。溶けた氷がからん、と音を鳴らす。何もかもが、すれ違った二人。彼女には、その音すらも違って聞こえているのだろうか。

 沈黙が僕を纏っている。汗ばんできたのでネクタイを緩めたいが、それすらも簡単にはできない雰囲気だ。目を伏せている彼女の視線の先を、必死に探した。だけど、僕には分からない。ただ察せたことは、翳りのできた瞳の内に、僕は入っていないということだけだ。

 考え直さないか。

 彼女から告げられた別れを、よく反芻してから口に出したのは、定型文じみたものだった。これからも一緒にいてくれる、寄り添っていてくれる。僕はそう信じていた。でも、そんな傲慢に彼女は耐えられなかったのだろう。その気持ちを言葉にされて、心に突き立てられて、深く理解をしたつもりだ。

 僕は堰を切ったかのように、矢継ぎ早に反省の色を示した。分かってくれるはずだと。僕の愛している彼女ならば、考えを改めて許してくれる。


 それは、延命のつもり?


 話す僕を遮ってまできっぱりと言われて、僕は口を開いたまま停止した。彼女の背後の鏡に映る僕は、岩礁にぶつかって息絶えた魚のような、馬鹿面をしている。こんな顔なら、いつもケラケラと笑ってくれるはずの彼女も、今日は冷ややかな目線を飛ばしてくるだけだ。

 本当に終わってしまう。それでいいのか。問いかけても仕様もない焦燥感が全身を忙しなく駆けていくだけで、どうにもできない。遠くまで続いていたはずの橋が、唐突に崩れていくみたいだ。店内に満ちる人の声と、食器の音で奏でられる騒めきが、どうするの、と決断を迫ってきている。

 何も言えないのね。

 そうだ。彼女の言う通り僕は何も言えない。何年も一緒にいて、いつでも僕の傍らで会えるのを楽しみにしていてくれた。そんな気持ちを当たり前だと思い、暗い影を纏う姿を見た時でさえ、可能性から除外していたのだ。僕の何が悪いのかも、言われなければ分からない。情けないと嘆くことも、しょうがないと言い訳をすることも、僕に許されない気がする。

 ただ、口を閉ざして彼女の想いのままに、二人で紡いできた時間を結ぶべきだ。諦めというのだろうか。それとも、茫然というのだろうか。どちらにしても、食い下がろうとしない僕は不甲斐ないばかりだ。


 私の部屋に置いていった荷物、また取りに来てね。


 嘲笑に聞こえる荒波の中で、彼女の声音は凛としていた。それ以上、毒を吐くこともせずに立ち上がり、自然な流れで伝票を持って横を過ぎ去っていく。僕は彼女の姿を、目でさえも追えなかった。知らずの内に下がっていた視線が捉えていたのは、一回も口に含まれることのなかったアイスティーだけだ。店の熱気で溶けた氷のからんという響きが、店の入り口の扉に付けられたベルと重なる。


 ああ、彼女は行ってしまったんだ。そんな実感は微塵もなかった。事故で失ったはずの腕にその感覚が残るかのように、今でさえまだ関係は続いている気がしてしまう。いつもみたいに喧嘩をしているだけで、また彼女からメールがくる。そう思いたくても、脳裏を掠めるあの冷めた態度で、僕を背もたれの硬い椅子に縛り付けられていた。


 本当にこれでいいのか。時間が刻一刻と過ぎていく。答えを出すまで、全てが静止してくれればいいのに。そんな風に優柔不断な性格を正当化しようとしても、無理な現実逃避をしているだけにすぎない。

 通りかかった店員が、誰もいない席の前に置かれた飲み物を、下げてもいいのかと聞いてきた。真横に人が立っているはずなのに、僕は返事すらできない。困ったその人は、お客様、と声を掛けてくる。時間が欲しい。この先の生涯で迫られる選択を、全て答えるだけの時間が。だけど、それも戯言か。


 僕は底に残ったコーヒーを飲み干し、もう行きますから、と言って立ち上がった。食道を駆けて胃へと落ちていく刺激が、目に溜まったものを止める。

 鞄を手にして、中から財布を出すと、お代はもう頂いておりますと、丁寧に断ってきた。それでも僕は、店員が片手に持つ盆にお金を置く。覚えてないかもしれませんが、今度来た時にこれで引いておいてください。

 僕は止められるのも意に介さず、店の扉をくぐった。

 もう一度だけ。押しても引いても変わらない、首の皮一枚すら繋がっていない。それでも『もしも』があるのなら――


 そう言い聞かせて町へ出ると、空は雨模様だった。会社を出た時はまだちょっと曇ってるくらいだったのに。朝の予報通りにはならなさそうだな、なんて折り畳み傘を入れてきたことを後悔せずに済むかもしれない。西方にかかる雲は、薔薇色の光に塗られているけれど、もうじきに夕立がきそうだ。

 店の暑さで汗を掻いたのもあって、外の空気は涼しいくらいだった。まだ間に合う。僕は彼女の家のある方向へと足を向けて、走り出す。運動なんて年に数回、するかしないかの身体は、すぐに悲鳴を上げ始めた。彼女が店を後にしてから、もう何分も経つのに、悲観はしていない。真っ直ぐ走っていれば、背中が見えてくるはず。馬鹿みたいな確信を頭に思い浮かべて走った。帰り道ではしゃぐ部活帰りの中学生の声も、あまりに必死に走る姿に向けられる視線も、彼女の好きなコロッケ屋から香る揚げ物の匂いも、風とともに失せていく。


 やっぱり、もういないのか。どこかに立ち寄ったのかもしれないし、遠回りをしているのかもしれない。脆弱な心から生まれる不安が煙のように昇っては、息に混ぜて吐いた。

 でも、ほとんど限界だった。横腹は痛いなんてものじゃないし、気を抜いたらアスファルトの道路へ倒れ込んでしまいそうだ。

 身体と一緒に、心まで衰えかけていた時、やっと、彼女の後姿を見つけた。奇跡とか、良かったとか、そんな陳腐なことは思わない。


 遠くから名前を呼んで引き留めると、彼女は徐にこちらを振り返り止まる。追い付いてから息を整え、悴んで動きにくい手を鞄に突っ込んだ。今にも崩れ落ちそうな曇天からは、ぱらぱらと水滴が零れてきていた。だけど、神様も粋なところがあるらしく、雨ざらしにするのは待ってくれているらしい。

 何?

 凄然とした態度で僕に目を遣る彼女の前に、折り畳み傘を差し出した。流石にきょとんとした顔をするだけで、黙ったままだ。

 もうすぐ雨、降ってくるから。

 朦朧とした意識の中で、できるだけ正しいと思える言葉を紡ぐ。彼女は僕の手にある折り畳み傘に目を落とすだけで、受け取る素振りはない。

 いらない、あなたとの関係は終わってるの。

 そう言って背を向けた彼女の腕を後ろから掴んだ。手の平に収まる華奢な腕は、すっかり冷たくなっていた。離して、と初めて見る剣幕でこちらを睨んでくる。

 終わっていいさ。

 怯まないよう堪えながら、僕は振りほどかれないように力を込める。

 だけど君は。


「雨、嫌いだろう?」


 口にしてから彼女の細い手に傘を持たせると、僕は背を向け、来た道を戻っていく。何か言おうとして開きかけた口元を、僕は頭から払う。彼女が追ってこられないよう、あちこちが痛む身体に鞭を打って、急ぎ足でその場を去った。


 人々が片手に傘を差すと、それが合図となって、大粒の雨がいくつも降り出す。傘を持たない人が、屋根のある場所を目がけて走って行く姿を流し目しながら、僕は疲れ果てた身体を引き摺るように歩んだ。

 ふと、立ち止まり空を仰いでみると、さっきとは比べ物にならない程、禍々しくて暗い雲に覆われていたことに気付く。


 彼女は僕が隣にいないことに寂しさを抱いていた。きっと、こんな空の下で、一人雨宿りをしているような気持ちだったのだろう。そして、その寂しさを消すため、原因となる存在を切り離す道を選んだ。傘を持ってきてくれる人は、いないと分かったから。寂しいと感じてしまうのは弱くて、傍にある孤独を孕んでしまうせいだ。ついさっきから、思い出があの頃になってしまった僕たちは、また煢然とした気持ちに蝕まれても、そこへは帰れない。


 そんな選択を彼女はしたのだ。ならば、僕も帰らない。彼女の心に噛みついた弱虫を、僕もぶら下げて生きていく。それが僕にとって、彼女を本当に愛することになるのだろう。

 いつか真に彼女の感じた孤独を理解する日が来たら、今度は晴れた空で隣にいる人を愛そう。雨も風もない空の下で、あちらこちらと揺れることなく、ゆっくりと地を踏みしめていく。

 もしも、そこに君がいてくれたのなら、しっかりと傘を握って、今度は濡れないようにしよう。

 雨音の間隙に、一つ小さなくしゃみをした。

 雨脚が少しましになると、雲に罅が入っていた。

 そこから覗く空は、夜を迎えるために藍色に染まっている。


「帰ろう」


 誰に聞かせるつもりもない独り言を呟いて、また雨の道をぶらりと歩き出した。

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