最終話

 メルが亡くなったのは、その三日後だった。父が仕事から家に帰ったときには、居間の隅で亡くなっていたそうだ。メルの身体はまだ温かくて、もう少し早く帰れたら見送れたのになと、父は言う。

 僕は翌週も、実家へ帰ることにした。家に帰っても、メルのえさ場やトイレがないことが不思議だった。彼女が通れるようにドアを少し開ける癖が直らなかった。僕はメルの遺骨が入れられた小さな、本当に小さな箱に、手を合わせた。

 

 空は、三月特有の乳白色を混ぜた薄い青色で、もうすぐ日が沈もうとしている。僕はだらだらと生まれ故郷の町を歩き回った。十四年前は新しかった住宅街もすっかり古びて、植え込みは草むらのようになっている。通っていた小学校は、去年校舎の改修工事があったのか、知らない場所みたいになっていた。僕は淡々と歩いていく。町外れの山は、裏側にも、いつの間にか車道が通っていた。メルに連れられて命からがら山を登ったのが嘘みたいに、あっという間に山頂に着いた。

 ここから見える景色だけは、あの頃と全然変わらない。

 遠くに見える海に、夕日が沈んでいく。

 僕には、十四年前の母の日に見た夕焼け空と、この前、動物病院に向かう途中で、痩せたメルの背中を撫でながら見た、あの白々しいほど綺麗な夕焼けを思い出す。

「……メル」

 メーちゃん。

 名前を呼んで、そのままこみ上げてくるものを飲み込んでしまおうとした。でもそんなことできるわけがなかった。糸が切れたように、涙があとからあとから溢れて止まらない。大切なものをなくしたのだと思った。もう戻れない。二度と。僕はしゃがみ込んで、声を殺して泣いた。そのときだった。


「泣いてるね」


 誰かに、声をかけられた。驚いて、僕は慌てて顔を拭う。懐かしい匂いがした。

聞き慣れた声だと思った。記憶が蘇る。僕は顔を上げて、目を見開く。

「おかえり、ナオ」

 そこには青い目をした僕と同い年くらいの女性がいて「んふふ」と笑っていた。

 彼女のことを、見間違えるはずがない。

「メーちゃん」

 僕は目を見開いて、彼女の名前を呼ぶ。

「なんで」

 なんで、なんて。

 その答えはわかりきっていた。僕がもう一度会いたいと思ったからだ。僕がもう一度会いたいと思って、ここに映し出しているのだ。

 本当はもう、どこにもいない彼女を。

「海、久しぶりに見た」

 メーは言う。僕は鼻を啜って、少し笑った。

「俺が今住んでるところは海の近くだよ。アパートのベランダから海が見える。曇った静かな夜にはときどき、海鳴りの音が部屋まで聞こえる」

「ナオが知らないところで生活してるの不思議だったな」

「ごめん。もっと帰ってくれば良かった」

 もっと、たくさん帰ってくれば良かった。

 僕がいなくなっても、彼女の寝室はずっと僕の部屋だった。暖を取る相手もいないのに彼女はずっと、猫が使うには広すぎるベッドに丸まって眠っていた。

 メーは眩しそうに目を細めて、「ううん」と首を振った。

「ナオが遠くに行っても、ずっと側にいたよ」

 僕は首を傾げる。メーは「ふふふ」と笑って、再び口を開いた。

「だってね、めーちゃんはいっつもナオの夢を見てたから」

――だからいつも一緒にいるよ。

 いつかの声が蘇る。彼女の体温も、やわらかな毛並みも、高い鳴き声も、怒った顔も、やせ細った背中も、浮腫んだ前足も、苦しそうな水の音も、最後に僕をじっと見た、あの瞳も、すべて、一緒に蘇る。

 視界が滲む。僕は、絞り出すように口を開く。

「ありがとう。メーちゃんがいたからさみしくなかった。ずっと。十四年間、ずっと」

 メーは満足そうに頷いて、

「夕焼け綺麗ね」

 と言う。赤い太陽が沈んでいく。僕はスマートフォンを取り出してビデオモードを開く。

 何の意味もないことは、ちゃんとわかっていた。

 それでも僕はあの日と同じように、遠くの海を、それから、隣に立つ彼女を写した。遠くで海鳴りの音が聞こえる。東の空は一日を終わらせようと宵闇に染まっていく。冷たい風が、海へ抜けていく。

 彼女は、こちらを見て笑った。


「めーちゃんはね、ナオが世界でいちばん高級な味付け海苔を買ってきてくれるのを待ちたかった」


 僕は目を見開いた。さいごに僕が彼女に言った言葉だった。

 僕の脳裏に、十四年前のカーネーションの花が浮かぶ。いつもそうだ。僕は届かない約束ばかり交わす。それを握りしめていれば、再会できると信じていた。本当はもう、二度と叶わないことはわかっていたくせに。

「忘れてないよ、俺は。だから、」

 この後に及んでも僕は必死になって、彼女の姿を機械の中に収める。

 画面の向こうで彼女はこちらに笑いかけてみせる。

「また会える?」

 僕の問いかけに、

「会えるよ」

 彼女は頷いた。

 

 次に瞬きをしたとき、そこにはもう、メーの姿はなかった。遠くの海に夕日が沈んでいくのを横目に、僕はさっき撮った動画を再生する。

 そこには、誰の姿も映っていなかった。

 青い目の女の子も、白黒柄の猫もいない。ただ、僕の声だけが再生される。


――忘れてないよ、俺は。だから、


 結局、別れの言葉は言えないまま、


――また会える?


 その問いかけには誰も応えず、降り注ぐ夕焼けの光だけが、画面の中に残されていた。

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ReCorrection 村谷由香里 @lucas0411

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