第9話

 土曜日の夕方実家に帰ると、メルはいつものソファの上にはいなくて、風呂場の隅でじっとうずくまっていた。肺に水が溜まって苦しいのか呼吸は荒く、左足は浮腫んで膨れあがっていた。

 現実を受け入れることは、とても難しい。

 急にこんなに変わり果ててしまうことに、心がまるで追いつかない。僕は少し震える指で彼女に手を伸ばした。

「メル」

 名前を呼ぶ。彼女は僕の目をまっすぐに見て「ナオ」と細い声で鳴く。

「メーちゃん」

 そう呼んで頭を撫でた。彼女は目を細める。喉からはぜーぜーと苦しそうな息の音と、身体の中からは微かに水の音が聞こえる。肺の中には水が溜まり続け、抜いても抜いてもあまり意味はない。それどころか、彼女の体内にある大切な栄養素を一緒に奪ってしまう行為であると、医者は説明する。それでも彼女の青い目はまだ爛々としていて、きちんと生きているのだということを伝えているのだ。だから、なるべく苦しくないように、今できることを、してやることしかできない。

「今日は俺が病院に連れてってやるから」

 そう言ってケージを出すと、彼女は大人しくその中に入った。今まで病院に行くよと言えば大騒ぎをして逃げ回っていたメルが、まったく抵抗せずにケージの中へ入ることに、心が痛んだ。病院に行けば楽になるということを、わかっているのだ。

 僕は父の車を運転して、隣の市にある大きな動物病院へ向かう。毎年ワクチンを打ちに行っていた町医者では、もう対処できないらしい。助手席にメルのケージを乗せ、信号にかかると扉を開けて、その背中を撫でた。何も食べず何も飲まない彼女は、やせ細って骨が浮いている。

 窓に西日が差し込んでいた。

「夕焼け」

 空は白々しいほどに綺麗な茜色に染まっている。

「メーちゃん。空綺麗だよ」

 彼女の痩せた背中を撫でながら空を見ていると、なんだかどうしようもない気持ちになった。何かを失いつつあるということを体感していた。諦めと、どこかで、もしかしたら、奇跡が起こるんじゃないかという、そんな思いだ。後ろからクラクションを鳴らされるまで、僕は信号が変わったことに気付かなかった。

 その日は、病院で百五十ミリリットルの水を抜いた。


 結局僕が実家にいた二日間で、メルは一度も何も口にしなかった。栄養価の高い缶詰をスポイトで食べさせようとしても、嫌がって絶対に口を開かなかった。あんなに好きだった海苔にも麦茶にも目もくれず、ただ、時が過ぎるのを耐えるように、部屋の隅でじっとうずくまっている。

 僕の家は、彼女と一緒に暮らすためのもので溢れている。

 餌用の皿も、トイレ砂も、爪研ぎ用の木材も、彼女が気に入っている毛布も、ほったらかしになっているおもちゃも、ぬいぐるみも。

 彼女がここで生きていくためのもので溢れている。

 でももう、メルはそのどれにも反応を示さない。部屋の暗い場所でじっとうずくまっている。別に愛着もないであろうお風呂場の、その冷たい床の上で苦しそうに息をする。


 実家から帰る前に、僕は寝室にメルを抱いていった。

 彼女がいつもそうしていたように僕の布団に乗せ、毛布でくるむ。本当は、こんなことして欲しくないのかもしれない。猫は自分の死期を悟られたくないから、暗くて寒い場所に身を隠すのだとよく聞く。だから、これは、ただの僕のエゴでしかないのかもしれない。それでも、

「ここの方が暖かいから」

 そう言って、僕は彼女の首元を撫でた。彼女が喉を鳴らすことはなかった。メルはじっとうずくまって、僕の顔を見ている。何か、僕の言葉を待っているようにも感じた。

 これ以上、彼女にかけられる言葉があるのだとしたら。

 それは、別れの言葉だと思う。

 そうだ。僕は彼女にさよならを言うために、この家に帰ってきたのだ。

 メーちゃん、さようなら。

 口を開こうとした。視界が歪んで、僕は奥歯を噛みしめた。

 一度手の甲で涙を拭い、鼻を啜って深呼吸する。それから、

「メーちゃん」

 僕は彼女の青い目を見る。

 言わなければならない。別れを。さよならを。僕は口を開く。

「次に……次に、帰ってくるときは、世界でいちばん高級な味付け海苔を買ってくるから」

 声が震えて、涙が零れた。

「約束するから。だから、元気になりな」

 僕の言葉に、メルは高い声で「にゃ」と応えた。

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