第8話

 この物語は、別れの話だ。

 結局言えなかった言葉の代わりに、今までの思い出を集め直す。

 断片的で拙い、きみへの手紙だと思ってくれたらいい。


    *


 僕は大学に進学するとき地元を離れ、そのまま大学の近くで就職を決めた。ひとり暮らしのアパートからは、海を見ることができる。実家では変わらず父と猫が一緒に暮らしていて、僕は年に何度か、父とメルに会うために実家へ帰った。メルは僕が帰る度に一瞬身構え、それからだんだん思い出して、僕に海苔と麦茶をねだった。

「メルも歳だから、せめて焼き海苔にしたいんだがなあ」

 と父は言う。

「あんまり美味しくないんだってさ。歯につくし」

「歯につくのは味付け海苔も一緒だろ」

 僕の言葉に、父はおかしそうに笑う。反応が昔の自分とまったく同じで、つられるように僕も笑った。メルは麦茶を入れた容器を綺麗に空にすると、満足してソファに飛び乗る。そのまま丸くなって眠りはじめた。その姿を目で追いながら、

「メルはお前がいなくても、お前の部屋で寝るよ」

 と、父は言う。

「習慣になってるのか知らないけど、俺の部屋には絶対入ってこない。たまに思い出したようにお前のこと探して、すぐに『ああ、いないんだったな』みたいな顔をしてひとりで寝る」

 僕はソファで丸くなる彼女を見ながら、

「実際帰ってきたら忘れてるのにな」

 と苦笑する。

「メルの中にもお前が住んでるんだろうよ。実物が急に現れたらびっくりするんだろ。それがこう、きちんと重なるまでにちょっと時間がかかるんだよ」

「父さん、詩的なこと言うね」

「俺はいつも詩的なこと言うよ」

 別に褒めてないのに、ちょっと得意げに父は胸を張る。僕が笑うと彼は照れくさそうにしてから、

「もうちょっと帰ってきてやれ」

 と、やわらかな声で言った。


    *


 メルが肺水腫になったという連絡が父から届いたのは、その翌年の春のことだった。


 肺水腫というのは肺に水が溜まる病気で、猫がかかる病気の中でも末期症状に見られるものだ。何か別の重い病気と併発することが多いのだが、何の病気と併発したのかは、検査をしてもわからないらしい。

 メルは今年で十四歳になる予定で、人間で言えば、ずいぶんな高齢だ。でも、正月に帰ったときには元気に走り回っていて、だから、急に病気になったと言われても、ひとつも実感がわかなかった。頭の中にいるメルは健康そのものだ。僕は疲弊した父にどんな言葉をかけていいのかわからず、ただ淡々と語られるメルの病状を聴くことしかできなかった。

「毎日のように点滴と肺の水抜きには行っているんだけど、あんまり長くないかもしれない。もう何にも食べないし、水も飲まないんだ」

 父は何かを飲み下すように間を空けて、

「会いに帰ってきた方が良いかもしれないよ、ナオキ」

 そう、締めくくった。わかった、と僕は応えて電話を切る。そのまま携帯電話を置いて、しばらく呆然としていた。

 メルはまだずっと長生きするものだと思っていた。

 野良猫出身で身体も丈夫だったし、まだまだゆっくり年を取って、僕らもゆっくり彼女との別れの準備をしていくものだと思っていた。

 メルが、死ぬかもしれないということ。

 実感はない。でも、事実なのだ。

 一度目を瞑りゆっくりと息を吐いてから、もう一度携帯電話を手にして、週末実家に帰れるよう、新幹線のチケットを取った。

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