第5話

 マコモさんと別れて、あさ美は電車に乗り込んだ。


 電車に乗る前、駅構内に続く高架橋の階段を上りはじめたとき、眼下の道路を挟んで反対側の歩道に、見慣れた形の頭があった。お稲荷だった。灰色のパーカーを着たお稲荷は、小さめの白いレジ袋を両手に提げて、駅とは逆の方向に歩いていた。顔はこちらを向いているようだったが、お稲荷がどこを見ているかわからなかったし、自分のことをみとめたとしてもむこうは挨拶なんかしないだろう、とあさ美が思ったその瞬間、お稲荷は会釈を寄越した。ちょっと、微笑んでさえいたようにも見えた。この遠くから。あさ美はびっくりして足を止め、慌てて深く頭を下げて答礼した。顔を上げると、お稲荷はもうそこにはいなかった。振り返ると、銀行の角のところにある街灯に照らされた灰色の背中が一瞬だけ見え、すぐに消えた。

 二十二時を少し回った駅にはわりとたくさんの小学生がいて、お揃いの進学塾のリュックを背に、男の子たちはホームにつながる階段を駆け上がったり駆け下りたり、大声で叫んだりしていた。ほんとうは昼間もああして遊んでいたいのだろう。やがて駅員さんがやって来て、彼らのうちの二三人を捕まえ、怖い顔で何やら諭していたのを、あさ美は鏡になった車窓に映る自分の顔を見ながらぼんやり思い出していた。あの子たちは、あの時分から勉強して勉強していい学校に行って、ちゃんと就職もして、スーツを着て革靴を履いて会社やなんかに行くのだろう。多分。

 マコモさんのことを考えた。ポテトサラダと鶏のモツ煮のことを考えた。マコモさんの白い手のことを考えた。マコモさんと約一年にわたって協議してきた『じゃりン子チエ』のヨシ江はんの配役が、ついに今夜、常盤貴子案で合意を見たということを考えた。朝、洗面所に、五千円札を置きっぱなしにしてきたことを考えた。マコモさんの橙色のロードバイクのことを考えた。お稲荷の背中のことを考えた。どんなことを考えていても、窓ガラスの上の自分の表情は同じだった。時々、その黒い鏡の中に、道路灯の光や、遠くのビルのてっぺんで明滅する赤いランプや、線路沿いの電光看板の色が割り込んできた。列車が停車駅にすべり込むと、黒い鏡はあっという間にただのガラスに戻り、プラットホームの、列になる人たちや自販機や待合室をあさ美に見せた。


 降りたホームに、強く冷たい風が吹く。

 あさ美は片手で髪を押さえ、トレンチコートの前をかき合せて改札口に向かい、脇に据えられた精算機に自分の定期券を読み取らせて、算出された乗り越し分を払う。百八十円。

 自動改札を通って、少し薄暗い東口のバス乗り場の方へ出る。行き先の違う二台の最終バスが連なって停まっているのが見え、その手前の、きちんと手入れされた低いトベラの植え込みのところに大きな黒い影が動く。

「なかなか連絡ないし、今日はもう来ぇへんかと思った」

 寒いなあ、と大きな歩幅で近付いてきた平田さんは笑顔でそう言う。

 あさ美は二三度あいまいに頷く。そのときまた強い風が吹いて、巻き上げられて乱れた肩までの髪が、あさ美の顔を隠す。


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淀みに鰐 灘乙子 @nadaotoko

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