第4話
それから半月ほどして、あさ美はマコモさんに久し振りに晩御飯に誘われた。お昼はしょっちゅう一緒に食べていたのだが、そのためにさらに夜わざわざ出掛けるようなことがなかったのだ。最近はマコモさん主催の合コンもなかった。マコモさんの泣き芸も、あさ美はもう見せるべきところには全て見せてしまっていた。
「わたしな、オランダ行くわ」
マコモさんは頼んだビールも来ないうちに切り出した。
おらんだあ? おらんだあ? とあさ美はしばらくそれしか言えず、それでもマコモさんはいちいち律儀にうん、うん、と首を縦に動かした。
「なんでなんですか」あさ美はやってきたビールにも手が付けられなかった。
「専門学校の友達が、あっちで鍼灸のクリニックやってて、おいでって」
「マコモさんしゃべれるんですか、オランダ語とか」
「無理、英語も無理。でも行って覚えるわ」
「平田さんは」
「あかんようになった」
マコモさんは眉を顰めてそう答えたが、口元は笑っていた。マコモさんは悠然とビールを飲み、続いてやってきたポテトサラダをつついた。「ヨコちゃんもはよ食べ」
あさ美は箸を割るだけ割って、握ったまま聞いた。
「オランダっていうのは、いつから行くんですか」
黄色いジャガイモをもぐもぐしつつ、来月かー、再来月かー、まあ早い方がいい、とマコモさんは不明瞭ながらそう答えた。そしてちゃんと飲み込むと、
「なんかさー、わたし結婚のこと言うてたやろ? でまあ、考えとくって言われて、考えてくれた上で今はまだ時期じゃないとか、そもそも結婚はしないよってことになったとしても、それはそれで受け入れて、まあ待つなりね、現状維持で付き合っていくことは出来るやろうと自分では思っててん。平田君のことは好きなんやし。でも、あかんかったわ」
あれからちょっとして、やっぱり結婚は今は考えられへん、て言われて、そしたらなんかあっという間にギクシャクしだして、先週の金曜に別れてん、とマコモさんは昔罹った病気の話でもするかのようにあっさり説明した。
あさ美は相づちすら打てず、両手で箸をお内裏様の杓のように縦に奉げたまま、マコモさんの言葉の上に何度か、んー、んー、と唸り声をかぶせて、ビールグラスの表面に付いた無数の細かい水滴を見ていた。自分の皮膚の下に、血の代わりにこのビールのような、発泡性の液体が流れだしたような気分がした。
「言葉よりもねー、わたし鍼打てるんかなあて、そっちの方が心配やわ。長いことやってへんから」
マコモさんは平田さんの話をすぐ打ち切って、近い未来に関する不安を口にした。
「マコモさんて、なんで鍼とか指圧には入らへんのですか?」
そういえば、今までマコモさんにそのことを尋ねたことはなかった。第一音の「マ」の音は掠れた。気付けば咽喉がからからで、呼吸のたびに吸い込んだ細かい埃が内側の粘膜にみっしり張り付ついていたようだった。あさ美は初めてビールを飲んだ。
「いや、なんやろ、どう言うたらええんかな。最初の不安から逃げて、あと逃げっぱなしって言うか」
こちらの話はマコモさんにとって、平田さんのこと以上に難しい様子だった。マコモさんは、さっきまでのあさ美のように、しばらくの間うーん、うーん、と唸って額を拳骨でこすっていた。ふさわしい言葉を考えているのだろうと思った。あるいは、説明しないという選択をするかどうかを。
「鍼さあ、打つって言うたらまあ点に打たなあかんやん。面じゃなくて点。ヘンなところには鍼を置かれへんわけ。学校で実技はやったよ、でもね、実際お金をもらいながら鍼打って、効かへんわ、効く効かんどころかなんか具合悪いわてなったときに」マコモさんは息継ぎをするのかと思った。けれどもそのしじまは息継ぎのためではなく、ことばに詰まったのだった。
随分間があって、
「不安やったんよね。不安で。親の診療院やし、困るなあって。あほみたいやけど」
とマコモさんはそれだけ吐き出した。あさ美は二度顎を引くようにして頷いた。赤い前掛けの女の子が、すくい豆腐と鮪のづけを運んできた。
「で、ちょっと、診療所の雰囲気とか中の手順に慣れるまではあそこでいきたい、って、まあ逃げたんよね。わたしの希望は、通って」
「あそこ」と言うとき、マコモさんは両方の人差指を振って宙に四角を描いた。小部屋のことだとすぐに分かった。ああ、とあさ美は応じた。
「それでも二三ヵ月したらいっぺんやってみぃ、って、わたしの練習台つーか、させてくれそうな患者さんに頼んで院長の代わりに鍼打ったんやん。それがあかんでさー」
マコモさんはそれ以上もう詳しいことは何も言わなかった。あさ美も、どうあかんかったのか聞かなかった。あかんかってんよ、とにかく、あかんかって、と数回同じことをマコモさんは繰り返した。
「お父さんも」というのは院長のことなのだが、マコモさんが院長のことをそう呼ぶのを、あさ美は実は初めて聞いた。「自分の見込み違いが悪かったって、ちょっと悪いことが重なったなあって、慰めてくれたりしてんけど、まあわたしやわなあ。悪いっつったら」
そんなに大きな失敗だったのだろうか。それとも、ちょっとした不具合を、悪い相手にねじこまれたのだろうか。マコモさんは再び握りこぶしを額に当てると円を描くようにぐりぐり動かした。形の良い眉や瞼が妙な具合に右へ左へ引っ張られた。
「情けなくて、泣きそうやった」
マコモさんと目が合った。マコモさんははっと眉を上げて、顔の真ん前でぶんぶん片手を振り、
「いや、泣かへんかったで! 実際! そんなん、泣いたところでどうしようもないし!」
と言い添えた。そして、それよりヨコちゃん、仕事見つかりそうなん? とマコモさんはあさ美の求職状況のほうに話を振ってきた。
あさ美は、こちらでは大変お世話になったけれども、とすでに院長にも話を通していて、午後診のシフトに入っていない日に一度、ハローワークを訪れていた。
まあー、と曖昧に首を傾げ、とりあえず最初の面談では、自分は就職活動を途中で投げ出したので、新卒の四月一日にした仕事は実家の庭の水遣りだけという話をした、とあさ美は答えた。
「わたしの場合は就活中に何かのハラスメントを受けて決定的に病んでしまったとかそういうのじゃなくて、落ちて落ちて落ちるもんで、なんかもうイヤになって、就活しなくなった、ってだけなんですよね。で、うちの親も、放任主義っていうか、それをゆるしたので。いや、親の方からもプレッシャーがあったらそれこそ病んだかもしれないですけど、わたしはつまり根性がないだけなんですよ。資格取ろうかっていうような、そっちのそういう根性もないし、全部自分が悪いだけで」
するとマコモさんはちょっと首を傾げ、あさ美の肩越しに何かを見ているようだったが、ややあって言った。
「でも資格持っててもわたしみたいに使てるんか使てへんのか半分わからんような人間もいるで」
そういうのは、資格を持っている人だけが言っていい台詞なのだと、あさ美は思ったが言わなかった。学歴・資格・お金・美貌その他もろもろ。あってもなくてもそんなんどっちでもいいやん、と言うのは、それを持った上のことでないと単なる負け惜しみかなんとかの遠吠えだと。
ほんま、なんでもいいからわたしに出来そうなことがあったらいいんですけど、とあさ美は自分のことに関してはもう当たり障りのないことだけ言って、
「マコモさんはでも、これからその資格でずっといけるやないですか」
と肚の底から素直に羨ましがってみた。マコモさんは、んー、まあそうかなー、て言うてもオランダなんて半分ヤケクソやけどねー、と笑った。そして急に、
「オランダってなあ、国民の平均身長が百八十なんぼやねんで、知ってる?」
とテーブルに半身乗り出した。
「え、男女共に、ですか?」
「いや、男子が百八十三で、女子も百七十やねん! すごくない?! わたしあっち行ったらだいぶ普通やで。出るとこ出たら、あなたちょっと小さいわね! とか言われるかも」
言われたいわーいっぺん、小柄とか華奢とかさー、「丈夫そう」とかいらんねん、そんなん褒めことばちゃうしな、「かっこいい」とかも、ありがたいけどもうちょっとええわ、とマコモさんはぶつぶつ呟いた。あさ美はすらりとしたマコモさんのことを心からかっこいいと思っていたし、事実何度もそれを口にしていたが、それを聞いてかすかに申し訳なく思った。
あっち行ってさあ、オランダ人の婿さん見っけて、ハーフの子ども産んで、わたしとオランダ人の子やったらどうせデカいやろから太らへんようにだけ気をつけて、モデル事務所とかに叩き込んで稼がせて、一生ひだりうちわで暮らすねん、少々おもろい顔でもモデルやったらわりと許されるやろ? などと、妙にあり得そうな感じの自分の未来図を、マコモさんは語った。
「まあ、それが楽しみ」
「あの」あさ美は見るからに柔らかいすくい豆腐のざるを引き寄せて取り分けてくれているマコモさんの器用な手つきを見ながらことばを選んだ。
「平田さんと別れる話しやはった時も、泣かへんかったんでしょうマコモさんは」
マコモさんは別段手を止めるでもなく、そらっそやでー、泣かへんそんなもん、意味ない、それにわたしの涙は全部嘘やて散々言うてきたしー、とそつなく取り分けを完了し、はい、と小鉢をあさ美に回してくれた。
「いただきます」
言ったそばから、あさ美の目にはじんわり涙が溢れた。それを見たマコモさんは、すくい豆腐の鉢を両手に持ったまま、わー、わー、わー、ちょー! と騒ぎだしだ。
「あかんあかんあかんあかん、わたしなあ、ひとが泣くのは無理やねんて、ほんま、あかんて、はよ止めて、だいたいなんで今ヨコちゃんが泣かなあかんのん」
マコモさんにそう言われて、慌ててあさ美はすみませんすみません、泣くつもりとかなかったんですけど、と弁明しながらハンカチで目頭を押さえたが、鼻水は止められなかった。それで今度は鼻をかむと、その隙に涙が流れた。ほんとうに、泣くつもりなんてなかったのに。
するとマコモさんが、よしそっちがそうならわたしにも考えがある、とおもむろに豆腐とれんげを置いたかと思うと、
「ええかげんにせえよー!」
マコモさんはあっという間にぼろぼろ泣き出した。ちきしょー、泣くな言うてるのに泣きくさって、阿呆ぅ、とあさ美のことを罵倒しながら、
「ええかー、泣きやまへんかったらいつまでもこうやぞー! 店員さんに五番テーブル二人揃ってほんまにおかしいと思われてもええんかー! さっき頼んだモンも、あと持って来てもらえへんぞー!」
と卓を叩いた。そのとき小皿にマコモさんの白くて長い指が引っ掛かって、載っていたポテトサラダの残りがこぼれた。
「見てみい、ポテト、拭かなあかんやないかー! もったいなー!」
あさ美は泣きながら噴いて、両方の鼻の穴から鼻水が出た。それを見たマコモさんは指をさして爆笑し、あさ美が、じゃあ拾って食べるー、ごめーん、と言うとさらに笑い転げた。
赤い前掛けの、今度は兄ちゃんがやって来て、無表情のまま、モツでーす、とだけ言って卓の真ん中に鶏モツの小鍋を置いて行った。マコモさんは小声で、ノーつっこみ、と囁き、涙を拭きもせずにすぐさまそれを一口つまんだ。そして、ええお味やわ、と咀嚼して、
「鰐」
と言った。
鰐は、ものを食べながら涙を流すらしい。
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