第3話


 鍼灸院の仕事はちゃんと続いた。交通事故で通院してくる患者の、保険会社に送る診療費の請求書を書くことも覚えた。マコモさん以外の先生たちともうまく付き合えていた。一度あさ美のさばき方がまずくて、患者の施術順が前後してしてしまい、後になった山下さんという六十そこそこの奥さんが怒って帰ってしまいかけたときには、院長と、一番若い菊池先生がそれぞれの施術ベッドから、山下さーん、ちょう待ってーと声を掛けて山下さんを引き止め、あさ美と一緒に謝り、なだめ、何とか取りなしてくれて、最終的にマコモさんが小部屋での治療中におしゃべりをする中で、山下さんから、怒ってすまなかった、朝から鉢植えを盗まれたり、毎週楽しみにしているラジオ番組をうっかり聞き逃したり、食洗機が壊れたり、嫌なことばかりで気が立っていた、ということばを引き出したことを、あとで教えてくれた。院長も菊池先生も、しゃあない、誰でも間違うことはあるからな、と慰めてくれた。あさ美は謝り、小一升ほど手汗脇汗をかき、謝り、お礼を言い、謝った。

時給はいわゆる最低賃金というやつだったけれども、そんなふうにして人間関係にも恵まれていたし、第一自分は働けないわけではない、ということが分かっただけでもあさ美にはありがたかった。両親も、そんなあさ美を見てちょっとは安心した様子だった。バイトを始めて八ヶ月目には、週の半分は午後の診察にも出勤するようになったのだが、もうすぐ一年経とうかという頃になると、あさ美はハローワークに行くことも考え始めた。アルバイトではなく、何かの、正職員に。


 午後の診察前に休憩室で二人になったとき、マコモさんにその話をすると、そうした方がええわ、頑張り、と励ましてくれた。

「だいたいヨコちゃん、真面目やし人当たりもええのに、なんで採ってもらえへんかったんやろなあ」

面接や審査に落ち続けたあさ美が、ある日、エントリーシートの一番上にある氏名欄に「横尾あさ美」のたった五文字を入れられなくなり、就職活動をそのままやめてしまったということを、鍼灸院の人たちはみんな知っていた。

「就職以前に就活すら途中でやめてまうような人間やということが全身から滲み出してたんとちゃいますか」

 あさ美がそう言うと、マコモさんは、そんなことないわ、ここでちゃんと仕事してるやんか皆勤で、とアコーディオンパネルの向こうを指した。表でごう、と強い風の吹く音がして、止まっていた換気扇の羽がくるくると回り、休憩室に乾いた冷たい空気が入ってきた。

「わたしは結婚するかもしれへん」

 とマコモさんは急に言った。えっ、そうなんですか、平田さんとですか、と聞くと、マコモさんは頷いた。

「一昨日平田君に、わたしから言うた。結婚しようーて。子ども産むとかも、もうぼちぼち、早い方がええし、て」

「平田さんは」

「そうやな、ほなちゃんと考えよう、て」

 まあ「考えよう」やからな、承諾の意味ではないかも知れへん、とマコモさんは薄く笑った。

「マコモさんと平田さんの感じやったら、その『そうやな』は同意の『そうやな』でしょう。もう四年の付き合いなんやし」


 昔バスケットボールをやっていた平田さんはマコモさんより二十センチ長身で、誘われて二人と中華料理を食べに行ったとき、あさ美は自分がいかにチンチクリンであるかを思い知ったものだ。平田さんはマコモさんのことをしーちゃんと呼び、しーちゃんちに行ったら俺が冷蔵庫の上拭くねん、と言った。冷蔵庫の天面が見える平田さんには、上に積もる埃がとても気になるのだそうだ。冷蔵庫の上なんてわたしでも見えへんのに、嫌やろ、やかましい姑みたい、とマコモさんは言っていたが、顔はとても嬉しそうだった。食べ終わって外に出ると、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。マコモさんが中華屋に乗ってきていた橙色のロードバイクも元々は平田さんの持ち物だった。平田さんは、しーちゃんこけたらあかんで、自転車傷む、とマコモさんに手を振っていた。平田さんとあさ美は電車の方向が同じだったので、あさ美が先に降りるまで、いろんなことをしゃべりながら帰った。あさ美が、真菰は食べられるんですね、と言うと、イネ科の真菰のことを何も知らなかった平田さんは、しばらく絶句していた。台湾なんかではよく食べるみたいですよ、と真菰の料理について説明すると、平田さんはへえ、へえ、と随分感心して、じゃあそのうちみんなで食べに行こうや、と言った。

 

 ハローワークに通う前にほかにも何か道がないかと思って、求人情報誌を手に入れ目を通す日が続いた。

 ある日、患者の途切れたときに受付の椅子に座って、自分に車が買えるかどうか、預貯金の額を書き損じの請求書の裏に書き出して考えていたら、知らぬ間にお稲荷が後ろに立っていた。わ、門谷先生、びっくりしました、とあさ美が正直に言うと、お稲荷はいつもの無表情のまま小さいながらも不思議と聞き取りやすい声音で突然、

「今なら、わたしのモノソーサマが、あなたのオイソサマとで何とかしてやる、と言っています」

 と言った。あさ美はぎょっとして、頭の後ろから背中全体にかけて瞬時に薄い氷が張ったように感じた。そして思わず、はい、と返事をした。お稲荷はゆっくりと頷き、音も立てずに四番ベッドへ戻っていった。マコモさんの小部屋にはお稲荷の施術の終わった患者が入っていたし、ほかの先生たちにも患者がいて、それぞれに何か話をしながら施術している状態だったため、あさ美たちのやり取りは誰にも気付かれなかったようだった。


 なんやねん、オイソサマって。いや、だいたいモノソーサマていうのも。


 あさ美はのろのろと立ち上がり、数字を書いた紙を握りつぶして捨てた。

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