もう助手席に君の姿はない
澤田慎梧
もう助手席に君の姿はない
三月某日。
ようやく暖かくなってきて、春の気配が近付く中――
「……まずい。完璧に迷ったな、こりゃ」
僕は道に迷ってしまっていた。
履歴書の「趣味」欄に、必ず「ドライブ」と書くほど車好きな僕だけれども、困ったことに極度の方向音痴でもあった。
なので、慣れない道を走っていると高確率で道に迷ってしまうのだ。今がまさにそのパターンだった。
もちろん、ナビも使ってはいる……いるのだけれども、僕はどうにもナビというものが苦手だった。
「この先を右です」と音声案内されても、一本手前や一本先の道を曲がってしまうことが多々ある。「斜め左方向です」等と言われた日には大混乱して、そのまま直進を選んでしまうくらいだ。
「――っと。そこのコンビニに入れて、一度地図を見直すか」
運良く駐車場付きのコンビニに差し掛かったので、そちらに車を停めて紙の地図を確認することにした。
それでもよく分からなかったら……少し恥ずかしいが、コンビニで道を聞こう。
「そんなに方向音痴で、よくドライブを趣味に出来るな」と思う人もいるだろうけど……少し前までの僕は、ドライブ中に道に迷うことなど無かった。優秀なナビ役が、いつも助手席に座っていてくれたのだ。
でもそのナビ役――妻は、もう隣の
僕の愛車は、バブル期に生産されたスポーツタイプの軽自動車だ。しかも、物凄く特殊な。
座席は二つしか無い2シータータイプで、リクライニング機能はない。助手席は前後にスライドすらしない。
ドアがまた非常に特殊で、横に開くのでもスライドするのでもなく、
車体は小さく、エンジンが背後に乗っているタイプなので、当然トランクもない。
走行性能の為に極限まで低く設定された車高は、「運転席に座ったまま地面で
それだけ車高が低いものだから、高速道路でトラックに横へ並ばれた日には、中々スリリングなドライブを体験する羽目になる。
そんな快適性とは無縁の車にも、妻は文句一つ言わず同乗して、僕を優しくナビゲートしてくれたのだ。
思えば、僕はそんな彼女に甘えていたのだろう。だから、一人になった途端、こんな何でもない道で迷ってしまったのだ。
妻がいなければ、僕なんて所詮こんなものなのだ……。
――今度こそ地図を頭に叩き込み、僕は再度出発した。
今、僕が訪れているのは、
首都圏の海を臨む街に育った僕には、新鮮な風景だった。
この街は、実は妻の故郷なのだ。
彼女は今、生まれ育ったこの街の病院に入院している。今日の目的地も、その病院だった。
「早く彼女に会いたい」――そんな
そうして、到着予定時刻から大幅に遅れて、僕はその病院へと辿り着いた。白壁の眩しい、都会の大病院にも負けないくらいの大きな病院だ。
面会時刻が終わるまで、もう猶予がない。僕は急いで駐車場に車を停めると、慌ただしく走り出した――。
「あら、遅かったわね」
「……ゴメン」
久しぶりに会った妻は、最後に見た時よりもだいぶ顔色が良いように見えた。
この病院へ入院する前は、酷い吐き気や頭痛、倦怠感のせいで、それは酷い顔色をしていたけれど……良かった、思ったよりも元気そうだ。
「……車で来たからね。ちょっと途中で迷っちゃってさ」
「え? あの車で……ここまで来たの?」
自宅からこの街までは、県を一つ跨ぐ必要がある。高速を使ってもかなり時間がかかる。
快適性ゼロの僕の愛車では、かなり辛い道程だ。妻もそれを知っているので、酷く怪訝な顔をされてしまった。
「うん。あの車も、もうすぐ手放すからね……。最後に沢山乗ってあげようと思ったんだ」
「そう言えばそうだったわね。もう、私があの助手席に乗ることはないのね……」
そう言って、妻が少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。彼女は彼女で、あの車に愛着を持っていてくれたらしい。僕が愛車を手放すことを、少し残念に思ってくれているようだった。
でも、仕方ないのだ。何故ならば――。
「もうすぐ家族が増えるんだ。2シーターの車じゃ、みんなで出掛けられないだろ?」
「……そうね。
言いながら、すっかり大きくなった自分のお腹を愛おしそうに撫でる妻。
――そう。もうすぐ僕たちの子供が生まれるのだ。2シーターのあの車では、三人で出掛けることは出来ない。
既に、4ドアの丈夫で乗りやすい車を契約済みだった。
子供が小さいうちは、ベビーシートやチャイルドシートを後部座席に装着して、そちらに乗せなければいけない。当然、妻も子供から目が離せないので、一緒に後部座席に座ることになる。
僕の隣――助手席は、当分の間空席になるのだ。
(了)
もう助手席に君の姿はない 澤田慎梧 @sumigoro
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