果てに
06
雲に包まれ暗く淀んでいる空の下、僕はアスファルトの道を進んでいく。行く当てもなく、行先もなくただ身体の赴くままにたった一人で。
一体どれくらいの時間、街を彷徨っているんだろうか。
もう僕にはそれすらも分からない。
それでも気がつくと、知らぬ間に無意識であの場所へ向かっていた。
あの場所。それは、サチと初めて出逢ったあの寂しい公園。
歩を進めていくうちに、次第に公園の入り口が見えてくる。
今さらこの場所へ向かって、自分は一体何を望んでいるのだろうか。
何をしようとしているんだろうか。
彼女にまた逢うこと?
彼女とまた話すこと?
そんな都合よく彼女が居るはずがない。
それにそんなこと、出来るわけがない。
僕は人を殺めた。それも、自分の母親を……
だけど、そうと分かっていながらも足は公園へ向かっていく。
いくら無駄だとわかっていようと、きっと最後に人生の中で最も重要な場所をもう一度だけ目に焼き付けたかったんだろう。
やがて公園の入り口に辿り着く。
誰も居ないはずの公園。いつもの様に廃れていなければならない場所。
しかしそこで、居るはずのない人物を見つけてしまった。
まるで初めて出会ったあの時の様に。
公園の端にあるベンチ。
そこにポツリとサチは俯いて座っていた。
どうしてこんな場所に?
どうしてこのタイミングで……
こんな事があるはずがない。
夢でも見ているんだろうか。
まるで反射の様に、勝手に彼女の元へ身体は足を踏み出そうとする。
でも僕は必死に抑えつけ、その場で立ち止まった。
駄目だ。
行ってはいけない。
もう自分は彼女の近くに居ていい人間ではないんだ。
まるで身を切る様な思いでゆっくりと彼女に背を向ける。
これでいい。
僕はこの場を一刻も早く立ち去らなければならない。
その時、不意に声が聞こえた。
「コウ……くん?」
びくりと自分の身体が驚くのを感じる。
駄目だ。今すぐ走り出してこの場を立ち去らなければ。
分かっている。
分かっているのに……
それでも背を向けたまま動く事ができなかった。ただ無言で佇んでいることしか出来なかった。
ゆっくりと彼女は一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。二人の距離は少しずつ、着実に縮まっていく。
やがて彼女は僕のすぐ後ろへ。お互いの体温を感じられるほどの距離に辿り着いた。
そして、僕の背中に触れた。
その手は弱々しく、何かを恐れているかのように震えていて、頼りなかった。
どうしてこんなに震えているのだろう。
其処には悲しい事情がある気がしてならなかった。
相変わらず、無言で背を向けたまま立ちすぼむ僕。
物言わぬ背中に彼女は告げた。
「コウくん。私ね聞いて欲しい事があるんだ。私、私ね、もうコウくんと一緒に居られないの……」
「え?」
突然の言葉に耳を疑う。
だってそれは、自身が言わなくてはならないと思っていた言葉だったから。
一体それはどういう……
自らに課した決まりを破り、結局僕は彼女の方へ振り向いてしまった。
これは言い訳だけど、それでもあまりにもサチの事が心配だったから……
この日初めてまじかに見るサチは眼を赤く腫らしていて、一眼で泣いた事がわかった。それにとても哀しそうな表情をしていた。
まるで、許されない罪を犯した罪人の様に……まるで今の自分を映し鏡で見ているかの様に。
「サチ、それは一体どういう……」
何故そんな表情をしているのかと気が気でない中、どうにか言葉の意味を尋ねる。
「それは……」
サチはそう呟き、俯いてしまった。
黙り込む彼女と僕。
二人の間に静寂が訪れる。
哀愁を感じさせる風の音だけが世界に流れて行く。
やがて、彼女は決心がついたのか重苦しく、哀しげな声で静かに訥々と告げた。
自身が犯した罪を。
「私……お父さんを、殺したの」
短い言葉。
だけど彼女の口から出た言葉を理解できない。
殺した?
サチが?
一体、誰を?
お父さんを
そんな……そんな事があるはずが……
とてもじゃないが信じられなかった。信じたくなかった。
でも、何処かで分かってもいたのかも知れない。
いずれこの日が来るかもしれない事を。
崩壊の日が来るかもしれない事を。
彼女は途切れ途切れに続ける。
「三日前。お母さんが突然倒れて、死んでしまったの……それからお父さんはおかしくなってしまって……
それでお父さんは今日、私の首に手をかけて……
私は死にたくなくて、必死に抵抗したの。
そうしたら偶然掴んだ置物がお父さんの頭にぶつかって、動かなく……
殺すつもりはなかったんだと思う。
でも、やっぱり私はどこかでお父さんを……」
まるで何処までも暗闇に落ちていくかのようなサチの告白。
このままだと、これ以上告白を続けさせてしまうと、彼女が壊れてしまう気がして、僕は無理やり言葉を遮った。
「もういい……サチ。もういいんだ」
少しでも安心させようと彼女の手に触れようとする。しかし、その手はあと少しのところで止まってしまった。
血にまみれた手。
罪を犯した手。
こんな手で彼女に触れるわけにはいかないから……
サチは、どうして触れてくれないの? という不安そうで、弱弱しい眼差しを僕へ向ける。
「そう、だよね。私のこと怖いよね……コウ くん」
今にも泣きだしそうな声。
違う。
違うんだ。
確かにサチはお父さんのことを殺めてしまったのかもしれない。罪を犯してしまったのかもしれない。それでも、怖いだなんて僕は絶対に思わない。
君に触れられないのは、自分のせいなんだ。自分が犯した罪のせいなんだ。
僕は……
たとえ彼女に嫌われたとしても、恐怖されたとしても告白しなければならない。
そうしなければ、きっと前に進むことが出来ない。そうしなければもう、彼女に触れることはできない。
これはエゴかもしれない。ただ彼女に罪を告白して自分が楽になりたいだけなのかもしれない。それでも云わなくてはならない。サチが云ってくれたように。
「違うんだ、サチ」と首を横に振って否定する。そして僕は……すべてを彼女に告白した。
自分が犯した罪の全てを。
「サチ……僕、僕もなんだ……
今日、君のことが心配で僕はサチの家まで行ったんだ。
その後自分の家に帰ると、弟が……弟が包丁で自殺してしまっていた……
僕はその光景を見て絶望した。でも、それからしばらく経っ帰ってきたお母さんの言葉に僕はさらに深く絶望した。
お母さんは、弟のことなんて、そして僕のことなんてこれっぽっちも愛してはいなかったんだ。
そのことをようやく今さらになって理解した僕は、目の前が真っ赤になって……
気が付いた時には、お母さんを……お母さんを殺してしまっていたんだ……」
全てを云い終えたその時、突然サチは僕の胸に飛び込んできた。
驚きながらも、彼女を受け止める。
「ごめんね……コウくん」
罪悪感と後悔を含んだ声で、胸に顔を押し当てながら彼女は涙を流していた。
何故彼女が謝るのだろうか。
謝らなくてはならないのは僕の方だ。
僕は彼女のことを守れなかった。
あの時。
家を訪れた時、もう少し粘っていれば、違った行動を起こせていれば、結果は変わっていたのかもしれない。
彼女は罪を犯さなくて済んだのかもしれない。
自分の愚かさ。
彼女への思い。
色んなものがぐちゃぐちゃになって自分の瞳からも、熱いものが溢れるのを感じた。
「ごめん……ごめん、サチ。僕は、君を守ることができなかった」
僕は震えながら何度も躊躇いながら、彼女を抱きしめた。
「ううん。私も、コウくんを守れなかった……」
罪を犯した僕と彼女は、静かな公園で抱き合いながら涙を流した。
灰色の世界にたった二人で……
*
いつの間にか日はすっかり沈みがかり、雲の隙間から橙色の夕陽が射し込んでいた。
夕陽はまるで初めて彼女と出会った時のように二人を照らしている。
「落ち着いた?」
僕は自分の胸に顔を押し当て泣いていたサチに声をかけた。
出来る限り優しく、穏やかに。
顔を上げ、彼女と眼が合う。
サチは泣き止んではいたけれど、それでも眼が真っ赤に腫れてしまっていて、胸が痛んだ。
それに僕も散々泣いたから、きっと酷い顔をしているだろう。
サチは静かに「……うん、もう大丈夫」と言ってくれた。
そして
「コウくん。これから私たち、どうすればいいんだろう……」と不安げに呟いた。
僕と彼女が犯した殺人という罪。
それは例えどんな状況であろうと、そこにどんな理由があろうと、決して赦されない禁忌だ。
罪の先には罰がある。
だから……だから僕たちは償わなければならない。報いていかなければならない。
それがこの世界の理なのだから。
「……自首しよう」
彼女の眼を見つめて応えた。
「…………」
見つめ返す彼女の眼が不安と恐れに揺れるのがわかる。
でも、それでも彼女はその感情を必死に押し殺し、頷いてくれた。
「……そうだね。きっとそれが正しいと思う。私は、そしてコウくんは、罪を犯したから」
しかし「でも……」とその後、彼女は消え入りそうな声で呟く。
「やっぱり怖いな……」
小さなその身体を震わせながら、サチは俯き、心の内を吐露した。
「…………僕も、怖いよ」
そうだ。
怖いに決まってる。
これから僕たちに待つ罰。
それは一体どの様なものなのか。
そしてこれから先の未来は、どうなってしまうのか。
わからない事だらけで、今にも心が押しつぶされそうだ。
だけど、それでも……
僕はサチの手を握った。
今度は迷いなく、力を込めて。
「僕も怖い。だけど、サチには僕がついてる。
そして、僕にはサチがいてくれる。
だから、きっと大丈夫。
これから辛い事がたくさん待っていると思う。それでも、僕たちは行かなくちゃいけないんだ」
僕の言葉を聞き遂げた彼女は、驚いた様に眼を見開いた。
それから、とても穏やかで嬉しそうに「ありがとう、コウくん」と云ってくれた。
「うん……そうだね。まだ、怖いけど、私にはコウくんがいてくれる。それに、私はコウくんの近くにいる」
サチは僕の手を強く握り返した。
「行こう、サチ」
僕は静かに告げる。
「うん、コウくん」
彼女は静かに頷く。
この先何が起こるのか、今はまだわからない。
今も恐怖で心が押しつぶされてしまいそうになる。
だけど、僕にはサチがいてくれる。
そしてサチには僕がいる。
だから、きっと……
きっと、いつか幸せになる事が出来るはずだ。
僕たちは手を繋いだまま、沈んで行く夕陽へゆっくりと歩き出した。
互いを支えながら、二人で……
逆さまの蝶 マルフジ @marumaru1212
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