崩壊



 04




 翌日学校に行くと、サチの姿は見当たらなかった。

 どうやら家庭の事情でお休みしたらしい。

 彼女が欠席する事は特別珍しい事ではなかったのだけど、やっぱり不安になってしまう。


 昨日はあんなに元気だったのに……

 一体どうしたのだろう。

 たった1日休んだだけなのに、ここまで心配になるのは、いくら彼女の事情を知っているとはいえ我ながら異常なのかもしれない。

 それでもやはりこの気持ちを抑えることは出来ず、授業の内容も碌に頭に入ってこなかった。


「おいコウ、お前今日どうしちまったんだ?」

 休み時間。

 右隣に座る友達が不意に話しかけてきた。

 どうやら他者から見て僕の異常は一目瞭然らしい。

「そうかな……」

 つとめて平静を取り繕い、誤魔化す。


「ああ、なんか凄え暗い顔してんぞ。もしかしてサチちゃんのことか?」

 突然図星を突かれて、ドキッとする。

 彼は普段はノホホンとしていて、おちゃらけキャラだけど、こういう時は嫌に鋭い。

 今更隠しても無駄だろう。僕は首を縦に振った。

「うん、今日お休みみたいだから」


「そうか」

 頭の後ろに手を組んで天井を見上げながら、友人は呟いた。そして

「まあ、俺が口を出すことじゃないかも知れないが、あまり気負いすぎるなよ」と云った。

 優しさの含まれたその言葉のお陰で、心なしか僕は落ち込んだ気持ちが少しましになった気がした。


 不器用だけど、優しい友人に心の底から感謝する。

「うん、ありがとう……」

「おう、良いってことよ」

 彼は相変わらず天井を仰ぎ見たまま、そうそっけなく返事をして、頬を掻いていた。



 *



 だけど心優しい友人の励ましも虚しく、翌日もまたその翌々日もサチは学校に姿を現さなかった。

 流石に彼女が三日もの間学校を欠席するのは初めてだ。不安は少しずつ、しかし着実にまるで雪のように心へ降り積もって行く。

 それは今にも堰を切って溢れ出しそうだった。


 今日、学校が終わったら彼女の家を訪ねてみよう。

 側から見たら、まるでストーカーのようで気持ち悪いのかも知れない、異常なのかもしれない。だけどもう、我慢の限界だった。



 *



 サチの家は本当に幼い頃に、僕が遊んでいる最中に怪我をして一度だけ中に入れてもらった事がある。

 外壁が赤煉瓦で出来ていて屋根には煙突があり、珍しい西洋造りの少し変わったお家だ。


 普通の日本人が住むにしては人が浮いてしまうかもしれないけど、彼女と彼女のお母さんは何処か日本人離れしている容姿をしていて、その家に住んでいても全く違和感を感じさせなかった。

 ふと、そういえば彼女のお父さんを見たことはないなと思った。


 それからかれこれ40分ほど学校から歩き、彼女の家の前に辿り着いた。

 僕は不安になる気持ちを必死に押さえつけ、表札の横に取り付けられた呼び鈴を鳴らす。

 しかし、呼び鈴は何故か本来の働きをせず、音を鳴らさなかった。


 押せてなかったのかな?

 もう一度、今度はより深くしっかりとボタンを押し込んだ。

 けれど、やはり呼び鈴はならない。

 どうやら故障?しているようだった。


 音を鳴らさない呼び鈴の不備に幾分かの不信感を覚えながら、今度は木製の扉——これも西洋風のものだ——の前まで移動した。

 扉の上部取り付けられたドアノッカーに手を掛け、コンコンコンと三回鳴らす。

「……」

 だけど、いくら時が過ぎようと物言わぬ家から帰ってくるのは静寂のみ。


 留守なんだろうか……?

「すいません!どなたかいらっしゃいませんか」

 意を決して声を張り、僕はサチの家に呼びかけた。でもそんな行為も虚しく、やはり返事が帰ってくることはなかった。


 その後も何度か声をかけてみたけど意味はなくて、とうとう僕は諦めることにした。

 帰り際、彼女に会うことができなかった事によって沈んだ気持ちのまま、最後にもう一度だけサチの家へ振り向く。


 一体どうしたんだろう……

 偶然家にいなかっただけ?

 家の事情でお休みしているという事だった。

 もしかして、ご家族の方に何かあったんだろうか……


 予感がする。

 とても嫌な予感が。

 だけどこの時の僕は家にいる弟のことが心配で、結局そのまま背を向けて帰ってしまった。


 静寂をしたためる彼女の家の中で、何が起きているかをまったく知りもせずに……


 これから起こる悲劇を夢にも見ずに……



 *



 何時もの様に、錆びて足を乗せるたびに軋みをあげる階段を僕は登って行く。

 今日は自分の家から弟の泣き声が聞こえて来ることもなく、お母さんのヒステリックな声が聞こえてくることもない。


 毎日毎日、帰るたびにお母さんは暴力を振るい弟を泣かせている。だから、それは本当に久々の事で、サチのことで不安を感じてはいたけれど、少し安心した。

 きっと、お母さんは買い物に行っているんだろう。それか、また男遊びだろうか……


「ただいま……」

 静かに煤けた水色の扉を手前に引き、帰宅を告げる。

 暗い室内から返事は返ってこなかった。

 弟はきっとまだ学校にいるんだろう。そう自分を納得させて靴を脱ぎ、家に上がった。

 その時、何か金属の様な生臭い匂いが鼻につく。


 ……?

 この臭いは一体……

 どこかで嗅いだ覚えのある、不快な匂いがする事に疑問を覚えながら、僕は一歩一歩リビングに続く扉の元へ廊下を抜け近づいていく。

 緊張と恐怖のために、ドクドクと自分の心臓が暴れて痛い。


 僕は扉の目の前まで来ると、ゆっくりと押した。

 ギィという木が軋む音と共に少しずつ扉は開いていく。

 そして完全に開かれた扉の先。その先の光景に僕は「え?」と口から声が溢れていた。



 そこには……

 そこには……惨状が広がっていた。何処までも救いのない絶望があった。

 暗い部屋の中、首から血を流し床に倒れる弟。

 彼の小さな片手に握られた血のついた包丁。

 弟は一人、息絶えていた。



 気がついた時には、僕は膝をついてその場に埋まっていた。

 どうして……


 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして


 頭の中をその言葉だけが埋め尽くしていく。

 だけど同時に頭のどこかでは答えが分かっていた。

 母の虐待に耐えられなかったという答えが。すり減った心がついに耐えられなくなってしまったという理由が。


「僕の、せいだ……」

 無意識に口から言葉が漏れる。

 僕がもっと早く帰っていれば。

 僕がもっと弟のことを守ってやれれば。

 僕がお母さんをもっと止めようとすれば。

 僕が、僕が、僕が……


「ああ……」

 後悔。自分の愚かさ。弟をここまで追い込んだ母への憎しみ。そして何より、弟を守ることができなかった自分への怒り。

 色々な感情がぐちゃぐちゃになって、瞳から出た涙が冷たい床へとポツポツと落ちていく。



 その時、不意に後ろでガチャリと扉が開く音がした。

 同時に母の声が聞こえる。

「あんたそんなとこで一体何やってんのよ、気持ち悪い」


 乱暴に靴を脱ぎ捨て、バタバタと足を鳴らしながら「なんか臭いわね」と呟き、僕の元へと母は歩いてくる。

 そんな彼女も口を紡ぎ、不意に足を止めた。僕の先にある惨劇を見たのだろう。

「何よ……これ」

 恐怖に染まった震えた声で、息を吐いた。


「わ、わたし知らない。何よコレ何よ!」

 混乱してヒステリックな声を上げながら、横で彼女は頭を掻きむしっている。

「どうしよう……警察に、罪に問われて……逃げ……こいつのせいに」

 そしてブツブツと思考に上がってきたものを口から出していた。

 当然の様にそこには自分が悪かったなんていう罪悪感は全くなくて、自身の保身の言葉しかなかった。

 弟のことなんてこれっぽっちも出てはこなかった!


 ブツリ

 その時、その言葉を耳にした瞬間、自分の中で何かが切れた音を聞いた。

「ああああああああああああああああああ」

 母の身体に手を掛け、リビングの中に引きずり倒す。

「な、何すんのよぉ!」

 突然暴れ出した僕を恐れて逃げ出そうとする母。僕はそんな彼女を抑えつけて部屋の中に引きずり込む。

 その先の事は、覚えていない。


 気がついた時には、血まみれの母と肩で息をする僕。



 僕は……

 僕は、母を殺していた。




 ●




「うぐ……」

 ベッドの上、私は必死に四肢を動かして抵抗し、逃れようとしていた。


「やめ て……お 父さん」

 苦しくて息もろくにはけない中、どうにか声を放つ。

 上に恐ろしい形相で跨って、私の首に手を掛けているお父さんに向けて……

 だけどその願いが受け入れられる事はなくて、ギリギリと父の痩せて筋張った手は少しずつ着実に首へ食い込んでいく。

 どうして

 どうして、お父さん……

 私のなにが貴方をそんなにまで苦しめてしまったの?

 私の何がそこまで気に入らないの?

 分からないよ……


 このまま死んでしまうのかな。


 酸素の供給が間に合わず、次第に薄れていく意識の中でそんな事を思う。


 だけど……

 だけど、嫌だ。嫌だよ……

 死にたくない。まだ、死にたくない。

 まだ生きていたい。

 そしてもう一度、コウくんに逢いたいと心は生きる事を強く望んでいた。


 だから、私は最後の力を振り絞り、ベッドの傍に置かれた真鍮製の置物に手を掛けた。

 そのまま力の限り、父へ向けて振る。


 ゴッ

 手には何かを殴りつけた感覚と、鈍い音。

 直後、私の上に力なく覆いかぶさる父。


「お 父さん?」


 いくら呼びかけても反応はなかった。

 そこでようやく私は悟る。



 自分が父を殺めてしまったということを……

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