幸せ



 03



 キーンコーンカーンコーン

 聞き慣れたウェストミンスターの鐘の音が4時間目の授業の終わりを告げた。

 次はお昼休みだ。

 午前中の退屈な座学から一時的に解放されたクラスの皆は、ある者は購買へ昼食を求め、ある者は親しい人たちと卓を囲んでお弁当を広げ、各々がまるで解き放たれたタンポポの綿毛の様に自由に動いた。


 私はそんな中、バックの中から今朝自分で作ったお弁当を取り出し、一人教室を出た。

 その後、教室のすぐ横にある階段を駆け足で上がって行く。

 学校の最上階となる四階まで一気に来ると、一度足を止めて周りを見た。どうやら、ちょうど人通りが切れて幸い今は辺りに誰もいないようだ。

 そのことを確認すると、最後の階段を上った。


 終点は小さな踊り場。

 そこには錆びと時間の経過によりすっかり色褪せてしまっている金属の扉がある。

 ポツリと扉に取りつけられたインテグラル錠のドアノブを握り、私はゆっくりと力を込めて回した。

 ギィという鈍い金属の音と共に、扉は開く。


 屋上は背丈の二倍ほどあるフェンスに四方を囲まれていて、その上にはどこまでも澄み渡る青空が広がっていた。

 そして、そんなフェンスに寄りかかって座っている人物を私はすぐに発見した。

「今日は早かったね、コウくん」

「うん。今日は僕の勝ちみたいだ、サチ」


 優しい笑みを浮かべた彼の顔は中性的で、どこか女の子を思わせる。

 彼のそんな少し可愛らしい笑顔を見られただけで、自分の心が温かくなるのを感じた。

 だけど、私は彼の顔に昨日はなかった小さなひっかき傷をまた見つけてしまった。

 一瞬そのことを聞こうと口を開きかける。


 でも今のこの楽しい空気を壊したくない。

 だから、私はあえて見て見ぬふりをすることにした。きっとコウくんもそう望んでいるだろうから。


 手に握られている、一つのパンを見ながら私は尋ねた。

「あはは、負けちゃった。コウくん今日の昼食はパン?」

「うん、今日はこれだけ」

 菓子パンは正直小さくて、かなり質素なものだった。これ一つで育ち盛りの男の子のおなかが満たされるとはとても思えない。

「でも、それだけじゃおなか減っちゃうよ」


 私は彼の横に腰かけ、自分のお弁当を包んでいた藍色の風呂敷を解いた。そのまま風呂敷をお弁当の下に引いて蓋を開き、二人の間に置く。

「今日は少し多めに作ってきたから、一緒に食べよう」


「ありがとう……サチ」


 静かに礼の言葉を告げて、コウくんは眼を切なそうに窄めながら私を見た。

 このやり取りはわたし達にとって、もはや日常だった。

 私が彼に昼食を分けることは……


 だけど、それに対して申し訳なさなんて微塵も感じてほしくない。私は彼の支えになれて嬉しいのだから。傍に居られて幸せなのだから。

「ささ、はやく食べようコウくん。今日はご飯をお肉で包んで肉巻きおにぎりを作ったんだ。きっと、おいしいよ」


「はい」と、箸で肉巻きおにぎりを掴んで私は彼の口へ運ぶ。

「えっ」と彼は一瞬驚いて照れていたけれど、それから「ありがとう」と受け入れてくれた。

 少し一口で食べるには大きかったかな?

 コウくんは、口を一杯にしてもぐもぐと動かしている。

 しっかりと咀嚼をして飲み込むと、彼は本当にうれしそうに綻んだ表情をしてくれた。

「どうだった?」


「うん、すごくおいしい。サチは本当に料理上手だね。きっと将来はいいお嫁さんになれるよ」

「えっ……あ、うん。ありがとう……」

 何気ない彼の一言に頬が熱を帯びる。

 初々しくて、甘酸っぱい。そんな青春の一幕を送りながら、それから私とコウくんは屋上で二人、昼食を食べた。

 この時間がいつまでも続けばいい。

 そう願わずにはいられないほどに、その時間は幸せだった。





 ●




「それじゃあまた明日、サチ」

「うん、また明日。コウくん」

 いつもの分かれ道。

 私達は二人また明日会うことを約束し合い、別れた。

 あれから学校の授業をすべて終えた私達は二人でゆっくりと本や勉強のこと、友達のことなど、取り留めのない話をしながら帰路についた。


 今日は何気ない一日だったけど、私にとってかけがえのない思い出になった。

 こんなささやかで平穏な日々がいつまでも続いていけばいいな……

 電柱がどこまでも立ち並ぶ道の先で沈んでいく夕日を眺めながら、私は一人願った。



 家に着くと、私は静かに玄関を開いて「ただいま」と云った。

 だけど、いつもは帰ってくるはずのお母さんの返事がない。

 どうしたんだろう……

 今日のこの時間はお母さんは家にいるはずだ。

 どこかに出かけているんだろうか?

 しかし、それにしては靴はしっかりと踵を合わせて置いてあるし鍵も開けたままだ。


 胸騒ぎを感じながら急いで靴を脱いで家に上がり、リビングの扉を開いた。

 中の様子を確認すると特に変わったところはなかったけど、電気はついたままだった。


 おかしい……

 几帳面な性格をしているお母さんが、電気をつけたまま外出するなんて事はないはずだ。

「お母さん?」

 不安に押しつぶされそうな心を必死に抑えながら、私はリビングの奥。キッチンへ一歩、また一歩と足を前へ差し出していく。

 そのたびに、まるで私の不安を煽るかのようにギシリギシリという音がフローリングから鳴った。


 木製の仕切りの陰から次第に何か黒いものが視界に入る。

 それは足先の形のようだった。

 次の瞬間、なにがそこに倒れているのかを覚った私はキッチンへ飛び込んでいた。


 そこには、まるで死んでしまっているかのように顔を真っ青にしたお母さんが倒れていた。

「嘘……お母さん、お母さん!」

 必死に何度呼びかけても、何度身体を揺すっても返事は帰ってこない。

 どうしよう、どうすれば……

 突然の出来事に酷く混乱してしまう。


 そうだ、救急車を呼ばなくては。

 ようやくそのことに思い当たったのはしばらく経ってからだった。

 私は電話に駆け寄り、震える指先で119番を押す。

 それからは、もう自分が何を電話先に話したのかも、どうしていたのかもはっきりしない。

 ただ、最後に覚えていたのは担架に乗せられて救急車に運び入れられるお母さんと、まるで耳を切り裂くかのようなサイレンの音だけだ。


 気がついた時には私は病院の手術室の前にいて、手術中という文字の刻まれた赤く不気味に光るライトに照らされていた。



 どうして……

 どうしてこんな事になってしまったんだろう。

 私には何も、何一つとして解らなかった。


 ねえ、神様。

 なぜあなたは私にこんな仕打ちをするのですか。

 ただ、私は平穏に暮らしていたいだけなのに……


 どうして、どうしてなのですか……

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