雨ニモ、風ニモ
02
僕は一人、誰もいない廊下を歩いていた。
放課後の校舎は閑散としていて、吹奏楽部の楽器の音や運動部の掛け声が校庭から時折聞こえてくる。
耳に入る音たちが普段聴いているものよりも心なしか力強く感じるのは、もうすぐでコンクールや大会の時期だからなのだろう。
皆が皆目標へ向けて努力し、汗を流している。それはとても素晴らしいことで、自分も見習わなければならないなと思った。
しばらくして、僕は図書室の前にたどり着いた。その前で足を止めて観音開きの扉に手をかけ、音を立てないように開く。
木漏れ日が窓の隙間から降り注ぐ放課後の図書室は、何処までも静謐としていた。
そしてその中でたった一人、椅子に腰掛けてページをめくっている人物を発見した。
彼女が本を読む姿はまるで絵画のように様になっていて、神聖さすらも感じさせた。
その姿を眺めていたかったけれど、扉の前に突っ立っているのは邪魔になる。
再び、彼女の元へ静かに歩を進めた。
あの出会いの日から季節は幾度も巡り、僕と彼女は同じ中学校へ進学した。
そこに至る間に僕たちには幾度も困難があったけれど、まだこうしてどうにか生きている。
「おまたせ、サチ」
彼女の対面となる席に静かに腰掛け、僕は声をかけた。
本から視線を離し、サチはその大きな瞳を僕へ向ける。
だけど顔を見ると直ぐに、彼女は哀しそうに眉を顰めてしまった。
「コウくん、その頬……」
「ああ、うん」
彼女の言わんとすることはすぐに分かった。
僕の頬に当てられた大きなガーゼ。
指摘されることは分かっていたし、隠す気もない。
包み隠さず告白した。
「母さんに殴られたんだ」
「……そう、なんだ」
彼女は手に持っていた本を優しく置いた。
そして優しく僕の頬へ手を当てる。
「痛かったね……」
まるで自分の事のように彼女は言った。
でもそれを言うならば彼女もそうだろう。彼女も昨日はなかった絆創膏を口の端にしているのだから。
「君の方こそ……それは、お父さんに?」
首を縦に振り肯定する。
「うん」
やっぱり……
「そっか……辛かったね」
僕とサチが世間一般的に言う普通ではない家庭環境におかれている事に気がついたのは、出逢ってしばらく経ってからだった。
その頃からすでに僕は母親に些細なことで日常的に暴力を振るわれていた。
そして、サチは父親に暴力を……
幼心の僕はその環境が当たり前のことだと思っていたし、皆同じだと考えていた。
だけど、周りの人たちを見ている内にどうやら現実はそうではないということが次第に分かってきた。
母親も父親も暴力を頻繁には振るわないし、子供の身体のあちこちに痣などない。
それが世間一般的な普通だった。
ある日痛みを訴え、初めて見せてもらった彼女の体には僕と同じようにあちこちに痣があった。
それが彼女と僕が同じ辛く苦しい世界にいる人間であると言う事の証明だった。
サチは憂いを帯びた眼を向け、静かに告げた。
「でも……大丈夫。だって、こうしてコウくんがいてくれるもの」
彼女の眼を僕もできるだけ優しい表情で見つめ返す。
「うん……僕もサチがいてくれるから大丈夫だよ」
サチが傷ついた時は僕が支え、僕が傷ついた時はサチが支えてくれる。
今まで僕たちはそうやって生きてきた。
僕たちの関係は共依存に近いのかもしれない。決して綺麗な関係だとは言えないのかもしれない。
だけどそうするしかなかった。
こうしなくちゃ、きっと二人は生きている事はできなかった。
辛いことは沢山あるけれど、彼女がいてさえくれれば僕は生きていけると思う。
それに、彼女は僕がいてくれれば生きていけると言ってくれた。
だからこれからも彼女が必要としてくれている内は、僕は傍にいたいと思う。
生きるのは大変だけど、二人で支え合っていくことができるのならば、僕は幸せなのだから……
いつまでも暗い話題を続けるのも良くない。空気を変えるために、僕は話を少し強引にふった。
「サチ、今日は何の本を読んでいるの?」
不器用な僕の気持ちを汲み取ってくれたようで、サチは少しぎこちないけどいつもと同じ声色で答えてくれる。
「宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が載っている詩集だよ、コウくん」
随分と懐かしいものを読んでいるな、と思った。
サチは本を読むのが本当に好きで、いつもこうして放課後は図書室で過ごしている。そのせいもあってか、僕もいつの間にか彼女に影響され本を読むようになり、図書室に通うようになった。
だから当然宮沢賢治の書作にも目を通していたし、本当に数々の物語を彼女と共に読んできた。
『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』など数々の名作を生みだした、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は没後に発見された遺書のメモに記されていた詩で、彼の代表作の一つだ。
雨ニモマケズ、風ニモマケズという独特な書き出しから始まる詩は、短いがとても力強く人の心を打ち、知らない人はいないと言っても過言ではないほどに有名だ。
「でもどうして急に『雨ニモマケズ』?」
「それは……」と彼女は一瞬悩む。
「特にこれと言って深い理由があるわけじゃないの、だけどなんだか急に読みたくなって」
確かに、読む本を選ぶのに深い理由なんてないのかもしれない。僕もその時の気分によってころころ変わるし、一貫性も特にない。
「そっか……宮沢賢治の本、僕とても好きだよ」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「うん、私も好き。きっと私は、たとえどんなに辛くてもこの『雨ニモマケズ』の様に強くて優しい、そんな人になりたいと感じたからこうして今読み返しているんだと思う……」
『雨ニモマケズ』の様に強く優しい人に……
それはきっと、とても難いことだ。とても苦しいことだ。
だけど……
「そうだね……僕もそういう人になりたいな」
そういうものになれたら、どれだけ素晴らしいだろうか。
「コウくんならそう言ってくれると思った」
サチは優しいまなざしを向け、僕の手に自分の手を重ねた。
彼女の手はとても柔らかくてまるでお日様の様にポカポカと暖かい。
木漏れ日の暖かさを背に感じながら、穏やかで優しい時間が僕と彼女の間に流れて行く。
雨ニモ、風ニモ負けないで、今こうして目の前で微笑んでいる大切な女の子を守ることができる。
そういうものになりたいと僕は思った。
●
いつもの帰り道でサチと別れた後、僕は急いで家へ向かった。
今日は細やかではあったけれど、サチとゆっくり話すことが出来て、嬉しかった。
この幸せな気持ちを抱えたまま、今日を終わりたい。そう心の底から願うほどに。
だけど、自分の住まう小さなアパートの前に着いた時、なんだか嫌な予感がした。
そして階段を上がる途中、聞こえきた音によりその予感は確信へ変わった。それは弟が泣き叫ぶ声だった。
僕は急いでドアを開け放ち、家の中へ駆け込む。
そこには、ヒステリックな声を上げて手を振るうお母さんと、身体を抱えそれを必死に耐えている弟がいた。
「やめて!お母さん」
直ぐさまお母さんの元へ駆け寄り、腕を掴んでどうにか止めさせようとした。
「何よ、あんたには関係ないでしょ!」
だけどお母さんは、そう言って暴れ回った。
自分の弟が泣いているのに、関係ないわけがない。腕を振り回す母を、必死に止めようとする。
その時、不意にお母さんの右手が僕の顔に当たり、爪が皮膚を切り裂いた。
「っ」と顔に走る痛みに顔を顰める。
傷口から出る赤い血を見て一瞬お母さんは怯んだ様だったけど
「邪魔をするあんたが悪いのよ」
と言い、ようやく諦めたのか肩で息をしながら、暴れるのをやめた。
それから「もういいわよ!」と声を上げ、家から出て行ってしまう。
部屋の隅で蹲っている弟の元へ僕は駆け寄った。
「大丈夫?」
恐る恐る上げた弟の顔は涙でグチャグチャで、恐怖に染まっていた。
「怖かった……」
震える声でそう訴え、弟は僕の胸に抱きついてきた。
「ごめん……もっと早く帰って来ればよかった」
僕は謝って弟の頭に手を乗せ、少しでも安心させられる様に出来るだけ優しく撫でた。
弟が落ち着くまで何度も何度も……
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