逆さまの蝶

マルフジ

出逢い



【私には私の、貴方には貴方の地獄がある】




 01




 僕の家の近くには砂場と鉄棒。そして古びた木製のベンチがポツンと一つだけ置いてある寂しい公園があって、そこで遊ぶのが当時10歳の僕の日課だった。


 公園にはいつも誰もおらず閑散としていて、僕は一人で砂場で山を作る。

「一人で寂しくないの?」と、通りすがりのお婆さんに声を掛けられたことがあったけれど、僕にとってこの静かな場所で一人で過ごすことは当たり前の日常で、そんな事は微塵も思わなかった。


 だからその日も当然のように一人で遊ぶものだと信じて疑わなかったし、誰も居ないのだと思っていた。


 けれど予想と反して公園には先客がいた。

 先客は小さな女の子。

 彼女は寒空の下、砂場で小さな山を作っていた。

 今まで碌にこの公園で遊んでいる子供を見たことが無かった僕は、突然訪れた日常の変化に思わず入り口にボケっと突っ立ってしまう。


 そんな僕の事にしばらくして気がついた彼女は伏せていた顔を上げ、こちらへ不思議そうに眼を向けた。

 長い黒髪に隠されていた彼女の顔は何処か憂いを帯びた大きな瞳が特徴的で、浮世離れしていた。そして、その美しい顔の右頬が誰かに叩かれたように紅く色づいているのに僕は気がついた。


 彼女は一体誰だろう。

 どうして頬が誰かに打たれたみたいに少し腫れているんだろう。

 僕がそんな事を考えていると、彼女は口を開いた。

「……あなたは?」


 小さなその声は、何処までも透き通っていて柔らかさを感じさせる。

 突然話しかけられた僕はびっくりしてしまった。でも、いつまでも黙っているわけにも行かない。

 どうにか声を絞り出して、返事をする。

「あ……僕は、コウ。翁草おきなぐさコウ」


 頭を少し傾け、彼女は僕の名を繰り返す。

「コウ……くん?」

「うん幸福の幸って漢字を書いて、コウって言うんだ」

「私と同じだね」


 嬉しそうに微笑む。

 だけど彼女が言った言葉の意味が分からなくて、僕は「え?」っと思わず声を出してしまった。

 僕と同じコウという名前何かな?

 疑問に答えるように彼女は名前を告げた。

「私の名前は都忘みやこわすれサチ。私も幸福の幸って漢字を書いて、サチって読むの」


「サチ……いい響きの名前だね」


 純粋に思った事だけど、自分の口から出た言葉に後から恥ずかしくなって顔が少し熱くなった。

 普段からあんまり女の子と会話をしない僕は、どうやら想像以上に口下手らしい。

 でも、彼女は喜んでくれたようで「ありがとう!コウくん」と笑ってくれた。

 その向日葵のような笑顔が眩しくて、ますます顔が熱くなるのを感じる。


 顔を振って無理やり熱を追い払い、恐る恐る尋ねてみた。

「サチちゃんって呼んでいい?」

 すると直ぐに「うん」と頷いて

「良かったら一緒に遊ぼう、コウくん!」と僕の事を誘ってくれた。


 断る理由などない僕は勿論大歓迎で頷く。

 そうして彼女の横に並んで一緒に山づくりを始めた。



 *



 青空の下、一生懸命に横でペタペタと砂を乗せている彼女の横顔を僕はたびたび盗み見ていた。

 彼女はとても綺麗で相変わらずドキドキしてしまうけれど、そこには依然として腫れた頬があった。とても痛そうで、僕は悲しい気持ちになる。なぜ紅く色づいているのか理由が気になって仕方がなかった。


 本当は聞くべきではないのかもしれない。

 それでも幼心の僕は「ねえ」と彼女に尋ねずにはいられなかった。

「サチちゃん。どうして頬が紅く腫れているの?」


 聞かれた彼女は手を止め、悲しそうな顔をする。

 それでも答えてくれた。

「……お父さんに叩かれたの」

「そうなんだ……」


「でもね」と彼女は言葉を付け足す。

「私が悪いことをしたからいけないの。だからこれは仕方がないことなんだ」

 そう言って彼女は俯いてしまった。


 僕はそんな彼女に手を伸ばした。

 そして出来る限り優しくその頬に触れた。

 頬を撫でながら僕は彼女の痛みが少しでも和らぐように「痛いの痛いの、飛んで行け」とおまじないを唱えた。

 彼女の気持ちが僕には痛いほどわかる。だって僕も悪いことをしたらよくお母さんに打たれるから。


 彼女は突然の出来事に驚いて固まってしまっていた。

 それでも、すぐに微笑んで「ありがとう」と言ってくれた。

 恥ずかしかったけれど、こんな僕の行動で元気を出してくれたようで嬉しかった。彼女の痛みが少しでも和らげばいいなと思った。



 *



 それから夢中で遊んでいると、気がついた時には辺りはすっかり橙色に色づいていて、日が今にも落ちそうになっていた。

 楽しい時間というものは本当に過ぎるのが早い。

 ふと僕はもうすぐ帰らなくちゃいけない時間だということを思い出す。

 でも、家に帰ったら……


「どうしたの?」

 僕が手を止めていたのに気がついたからか、彼女は眉を少し下げ、心配そうに声をかけた。

「もう少ししたら、お家へ帰らなくちゃ」

暗い声音で言うと、彼女も少し目線を落として「そうだね……」と消え入りそうな声で呟いた。

 同類の哀しみがその声には含まれている。


「おうちに帰りたくないな……」

 ぽつりと呟やく。

 叶うのならば、僕もまだこの公園で彼女と遊んでいたい。

だけど子供は日が落ちたら帰らなくてはならない。それは僕にとって、そして恐らく彼女にとっても変えることのできない決まりだ。


 だから僕は立ち上がり、弱気になる心を抑え込んで彼女に言った。

「……ねえサチちゃん。あの……僕と友達になってくれないかな。それで、またこの場所で遊ぼう。明日もその次も……」


 今まで一度も友達というものが出来たことがなかった僕にとって、この言葉はとても勇気のいることだった。

 相変わらず恥ずかしくて顔は火照っているし、不安で胸が押し潰されそうになる。

 でも、この気持ちは心の底から本当に願ったことだ。だからちゃんと伝えなくちゃいけない。


 彼女はまるでそんな言葉は初めて言われたというように驚き、眼を見開いた。

 でも、それからすぐにやさしい笑みを浮かべて静かに頷いてくれた。

「うん、私も友達になりたい。友達になろう、コウくん」


 本当に嬉しい。心の底からそう思った。

 彼女の綺麗な眼を見て言う。

「ありがとう、よろしくねサチちゃん」


「うん、よろしくコウくん」


 互いに名を呼び合う。



 そうしてその日、僕たちは友達になった。






 ●





「どうして、おまえはいつもそうなんだ!」


 突然お父さんは体が震え上がるほどの恐ろしい声で私のことを怒鳴りつけ、顔を殴りつけた。

 小さく痩せている私の身体は簡単に宙に浮き、椅子から突き飛ばされる。


「やめて下さい!」

 お母さんが叫び、直ぐに私の元へ駆け寄って抱きしめてくれた。

 そして抗議の眼をお父さんに向ける。


 自分の何が一体お父さんの機嫌を損ねてしまったのか。

 なぜお父さんはそんなに怒っているのか、私には全く分からなかった。


 だから、ただただお母さんの胸の中で謝ることしかできなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」と……



 神さま、お父さんの事を怒らせる駄目な私をもっと良い子にして下さい。


 お願いします……

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