翼には心を乗せて

マスケッター

翼には心を乗せて

 その男は、かつて世界で一番偉大で有名な航空冒険家として名を轟かせた。


 今や七十歳を過ぎた彼は、自らの波乱に満ちた飛行記録とは裏腹に、天国への着陸態勢をごく穏やかに決めつつあった。その意味では、まさに今自分の体をむしばんでいるリンパ腫瘍でさえ自分という名の飛行機の一部だと思えるようになっている。


 別荘のポーチで、藤を編んで作った長細い椅子に半ば横たわるように座りながら、美しいハワイの浜辺を眺め続けるのが最近の日課だ。


 祖国のアメリカ合衆国と、その仮想敵国であるソビエト連邦はいつでも核ミサイルでお互いを……というよりは世界そのものを……破滅させることができる。


 そうなる前に、この美しい景色を眺めながら天国へ行けそうだ。それは神に感謝してしかるべきことだった。


「すみません、こんにちは」


 遠慮がちに若い女性の声がした。


 日課を中断して、男は声のあった方に顔を向けた。


 青いダイヤ型の飾りのついた水色のベレー帽をかぶり、亜麻色のショートカットの髪をした女性がたっている。


 まだ幼い印象もあるが、その反面何十年何百年と生き抜いてきたような風貌でもあった。


 なにより、数えきられない死地をくぐり抜けてきた男の経験が、彼女の内面に秘める強靭さと賢さを本能的に見抜いていた。


「ああ、こんにちは」


 礼儀正しく男は答えた。


「その、お邪魔して申し訳ないんですけれど、この辺で男の子を見かけませんでしたか? だいたい私くらいの歳で、赤毛で、白い手袋をはめています」

「いや、見ていない。君のボーイフレンドか?」


 その質問は、大事な日課を破られたことに対する抗議ではもちろんなく、善良で誠実そうではあるが謎めいた女性へのちょっとした好奇心とからかいに過ぎなかった。


「いえ、そんな関係では……その……」


 と、彼女は口ごもった。


「仕事仲間というところでしょうか」

「ふむ」


 男は含むように口にした。


「こちらこそ失礼だが、学生ではなくもう卒業して働いているのかね」

「えーっと、まあ、そんなところです」


 彼が洞察したところの内面の優秀さとは離れて、あやふやな答え方を彼女はした。


「そうか。こんな綺麗なお嬢さんのお手間をわずらわせるとはけしからん奴だな」


 冗談めかして彼はいった。


「え? そんな、綺麗なお嬢さんだなんて」


 はにかむ彼女は年相応に可愛らしく見えた。


「差し支えなければ、どんな仕事か聞きたい」


 彼女のはにかみ方に一層の興味をかきたてられ、彼は聞いた。


「小説の編集と秘書に近い業務です」

「ほう、それはなかなか興味深いね」

「ありがとうございます」

「実は私も作家の端くれでね」

「そうなんですか! 素晴らしいですね」


 彼女の瞳がきらめくように輝いた。


「ああ。もっとも実質的に引退したようなものだが」

「えー。それはもったいないですね。あの、不躾ですけど、どんなご作品を書かれたんですか?」

「ノンフィクションだ。自分の体験を書いた」


 そう答えながら、男は『その瞬間』を心の中に思い浮かべた。


 何度も何度も燃料計に目をやり、眠りの誘惑に打ち勝ち、単調なエンジンの音を自分の心臓の音だと確信し続けたあの冒険。


 パリの灯りが眼下に見えた時、あれほどしつこくつきまとっていた眠気や疲労はきれいさっぱり消え失せ、叫びだしたくなる高揚感でコックピットは満たされた。


「あの、ご作品の名前はなんていうんですか?」

「翼よ、あれがパリの……」


 半世紀近く前の自分の姿を思い出しながら、男は静かに寝息をたて始めた。


 女性は、家族がいるなら知らせた方が良いのかとも思ったが、毎日の話なのだろうとも思い直してそっとしておくことにした。


「いやー悪い悪い。やっと見つけたぜ」


 背後から突然声がかけられ、女性はハッと振り向いた。目当ての少年がバツが悪そうに笑いながら頭をかいている。


「どこに行ってたんですか、カタリ」


 むくれながら女性はいった。


「ごめんごめん。カメハメハ大王の話とかすげー面白くってさ。名所巡りしてたら自分がどこにいるのか 分かんなくなっちゃって」

「いつもそんな調子ですけど、たまには私から離れないでくださいね」


 無意識に込められたその台詞の裏にある気持ちが、 今目の前で眠り始めたばかりの男から受けた質問と少しだけ重なり、彼女は我知らずなにか恥ずかしい気持ちを味わった。


「お、おい、そんなに怒るなよ。悪かったって」


 彼女の気持ちをいまひとつ察せられず、カタリは謝った。


「ところで、この人誰?」

「いえ、私も通りすがっただけで、あなたがこの辺を通ったかどうかを尋ねただけです」

「へー、そうか。じゃあ現代に戻ろうぜ」

「もう勝手にタイムスリップしちゃ駄目ですよ。あと、原稿溜まってるんですけど」

「ああ大丈夫だ。ばっちり物語は手に入れた。あとは現代の人たちに伝えるだけだ」

「分かりました」


 少女が手をかざすと、なにもない空間が虹色に歪み、そのまま等身大の長方形になった。


「ああ、バーグさん」


 長方形の虹に腕を差し入れながらカタリはいった。


「はい」

「この時代のハワイってさ、確かバーグさんと同じ名前の冒険家がいたんだよな。亡くなる間際だけど」

「そうなんですか。じゃあリンドバーグさんっていう人なんですね。どんな冒険をした人ですか?」

「1927年にアメリカを出発して大西洋をたった一人で飛行機で飛んで、無着陸でパリまで行き着いた最初の人だよ。すげー英雄なんだ」

「それは素晴らしい人ですね」

「今度会ったら、俺、いろんな話を聞きたいな」

「はい、それは良く分かります。でも、今は原稿が待ってますから」


 バーグに促され、カタルは虹を抜けた。バーグもまた虹を抜け、それは消えた。


 バーグと同じ名前を持つ偉大な航空冒険家は、夢の中でパリの民衆から熱狂的な声援を受け続けていた。


               終わり

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