おめでとうの味

神辺 茉莉花

第1話 おめでとうの味は……

 『世話を焼き過ぎてうざい』

 そういう理由で同い年の彼女、高橋沙織と喧嘩をして一週間。パンとジュースの食事。そして大学のサークル仲間と夜遊びという生活を繰り返した俺は、いくらもたたないうちに高熱を出して寝込むことになった。いつもならばこの借りているアパートに押しかけてきて食事を作ってくれる沙織はいない。

 ベッドに入ったまま、けほりと咳をして、スマートフォンに新しく届いたメッセージを読み込む。相手は大学に入って新しくできた友人、二階堂わたるだ。


  高志、お前風邪、引いたって?

  んー、まあな。今、熱38.2℃あるわー。

  マジかよ。病院行けって。


 たわいないやり取りをぽつぽつと行う。布団にくるまってミノムシと化してはいるものの、実際のところ十二時間睡眠のおかげで眠気は全くなかった。ただ、とんでもなくだるくて熱っぽい。


  そういえば、さおりんが心配してたぜ。


 さおりん……高橋沙織の愛称だ。他の誰かが俺が風邪を引いていることを話したに違いない。グループでつるんでいるし、沙織と喧嘩したことは誰にも言っていないから、伝わっていても不思議ではない。

 でも、心配していたって……本当なのだろうか。

 誰もいない部屋に、ふっと笑みを見せる沙織の姿が見える気がした。

「うう、やっぱり俺、後悔してんのかなぁ」

 行きつけのスーパーでちょっと嫌なことがあって、口調がきつくなってしまったかもしれない。

 人恋しさと、少しの後悔に俺は溜息を洩らした。

  どしたー? 寝てる?

 返事がなかなかないことを不思議に思ったのか、スマートフォンがメッセージの着信を知らせる。それに慌てて、俺は『寝てねーけど、寝る』とだけ返した。



 スマートフォンが再度ピコピコと騒ぎ出したのは、友人とのやり取りを終えて三時間後のことだ。あれだけ寝たと思っていたのに、そして、もう眠気は来ないと思っていたのに、いつの間にか夢の世界へと意識が飛んでいたらしい。

 メッセージの受信ではない。電話の着信、それも喧嘩中の沙織からだ。

「え、どうしよう」

 電子音が早く通話しろと急かしている。

 無視をする手もあったが、気になった俺は通話をタップした。

「高志っ……!」

 数日ぶりに聞く沙織の声に、思わず心臓が高鳴った。

「友達から高志が風邪引いたって聞いて……大丈夫?」

「ん、ああ……」

 大丈夫だから構うな。

 そう言って突っぱねることもできたはずだ。それでも……わずかばかり、寂しさの方が勝った。通話を選んだ以上、自らは電話を切りにくくて、ずぴりと鼻を鳴らす。

「やだ、ひどい声。ご飯は? ちゃんと食べた?」

「いや、あんまり」

 喉がガラガラする。荒れた声に顔をしかめる沙織の顔が脳裏に浮かんだ。

「熱は?」

「あー……分かんない。少し前に計った時は38.2℃あったけど……完全に風邪だよなぁ」

 お大事にね。

 そんな言葉が返ってくると、そう俺はぼんやりと思った。

 だが。

「じゃあ……」

 ザッ、と一度ノイズが走った。

「じゃあ、おめでとうだね」

 ――え?

「おめでとう……?」

「うん」

 聞き間違いではない。確かに沙織はそう言った。思いがけない言葉に衝撃と……ゆるりと憤りがわく。スマートフォンを持つ手がじっとりと汗で湿っていた。

 人がこんなに苦しんでいるのに『おめでとう』かよ。

「……悪い。切るよ」

「え、ちょっと高志っ!?」

 自分でもはっきりと分かるほどぶっきらぼうに言って、俺は引き止める沙織の声を無視して通話を終わらせた。沙織の、引き止める声がぶつりと消える。

 静寂の中で俺はまた、ベッド上のミノムシとなった。



 かすかな音に意識が浮上したのは、空気が夕焼け色に染まり始めるころだった。

 ……ポーン。ピンポーン。

 誰だろう。誰かがチャイムを鳴らしている。鍵はかけていないんだから、用があるならば開けて入ってくればいいのに。一瞬そう思って、そうじゃないと思い直す。

 ……ピンポーン

 何度目だろうか。ひとまず出てみようと、俺は汗で少しばかり重たくなった掛布団をまくり上げた。火照った肌に風が気持ちいい。



 開けた扉の先に立っていたのは恋人の……そして今は喧嘩をしているはずの高橋沙織だった。

「風邪だって聞いたし、具合が悪そうだったから……なんか食べるものだけでもと思って」

「え……」

 手に持った、お弁当入れみたいな袋を掲げる。

 確かに俺はさっき、ぶっきらぼうな電話の切り方をしてしまったはずだ。怒っていないのだろうか。

「ちょっと電子レンジ借りてもいいかな。容器開けちゃったら帰るからさ」

 まるで喧嘩したことが嘘であったかのような自然な態度だ。

 三月の半ば。外はまだ寒い。このまま追い返したら、沙織も風邪を引きそうな気がして、俺はさっきの『おめでとう』のもやもやを抱えながらも、ひとまず彼女を家にあげた。



「さっきは何か怒らせちゃったみたいでごめんなさい。あと、喧嘩したことも……。どうしても体が動いちゃう。自分から積極的に動ける人になりなさいって、ずっと言われて育ってきたからかな」

 だから、ごめんなさい。

 真正面からそう謝られて、何か言う前に、くぅと腹が鳴った。そういえば朝、パンと野菜ジュースを飲んだだけで他には何も食べていない。

「え、やだ大丈夫?」

「大丈夫じゃ……ないかも」

 腹減った。そう言って苦笑しつつ腹をさする。

「ああ、もう! 電子レンジ借りるね」

 沙織のさらさらの髪がなびいた。

 持ってきたタッパーを入れて温めはじめる。小さな作動音。

「病人は座っててー」

 勝手知ったる他人の家という表現がぴったりとくるような振る舞いに苦笑して、俺は仕方なく居間の、いつも食事をする定位置に腰を下ろした。



 それからいくらもしないうち、俺の目の前にはタッパーからお椀に移した小豆入りの玄米粥が並べられていた。ゆうらりと湯気が踊っている。

「はい、どうぞ。『おめでとう』よ」

「へ?」

「だから、このお粥の名前。『おめでとう』っていうの」

「ええ?」

 ほのかな塩気のある、とろりとした玄米粥だ。

「私のお母さんがマクロビ食の料理教室を開いているんだけど、なんでもマクロビの提唱者がこのお粥を作って出したら病気の人が元気になったらしいのね。で、『病気が治っておめでとう』って言ったから、この小豆入りの入り玄米粥は『おめでとう』っていう名前なんだって」

 俺が風邪を引いておめでとうという意味じゃなかったのか。

「私ね……」

 身じろぎをして居ずまいを正す。

 思わず俺もスプーンを置いた。

「今まで確かにウザかったかもしれない」

 いや……そんな……。

「でもね、高志のことが好きなの。好きだから……早く元気になってほしくて『おめでとう』を作っちゃったの。だから……」

 俯いた顔。肩が少し震えている。

「これからもできればずっと一緒にいたいから、お互いに言いたいことはちゃんと言おう。こういうふうに喧嘩になったり、やけになって具合悪くなったりするなんて……そんなの嫌だよ」

「うん、そうだな。俺もピリピリしてた。早く治さねーとな」

 もう一口、茶色くて暖かい粥を口に運ぶ。じんわりとしたぬくもりが胃に落ちていった。

 もう一口。

 さらにもう一口。

 沙織の笑顔を見ていると、なんだか泣きそうになるくらい嬉しかった。


 最後の一口を食べる。

 いつしか俺の体はだるさがなくなり、ポカポカと温まっていた。


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