届かない刃

千羽稲穂

届かない刃

 開閉式の携帯のホーム画面で流れているニュースのテロップを見つめる。そのテロップは、他のニュースと同様の扱われ、情報の海の中へ放り込まれていく。私はそれを見て、世の中にため息を零す。未だに自身の心の焦燥感や絶望感、そして高揚感を抑えきれていないことに驚く。この件はこれで終わったのだ。それでも私は何かを諦めきれていない。

 目の前には荘厳なマンションが建っている。ガラス張りの一階ロビー、そこには煌びやかなシャンデリアが取り付けられている。豪奢で目がしぱしぱする。一つ一つのガラスの断面が反射しているため、その場所から圧力を感じ、近づきずらい。現在の右肩上がりの好景気を如実に建物は物語っている。ロビーにはいくつもの監視カメラがあり、こちらを常に見つめていた。

 ちらほら周囲には報道陣の影も見られるが、目標の人物が出てこないことを悟り、撤収の雰囲気を漂わせている。

 よくあんなことをしながらこんな場所に住み続けられるものだ。艶やかな建物に心地悪さを感じる。

 私はその建物から報道陣と共に去ろうと思い、背を向けた。が、しかし、そこで一歩踏みとどまってしまう。先ほどしまった携帯が震えている。バイブレーダーが鳴りやまない。振動が体に伝い、心を揺るがす。開閉式の一般的に普及されている携帯はこの場に踏みとどまっていること、恐怖を持っていることに対して怒っているようだ。ちらりと鞄の中を見ると、ホームセンターで買った新品の包丁の柄が見えている。私の心が高ぶる。

 すぐにマンションに向き直る。ロビーに誰かこないか確認し、来たところで同時に中に入った。すんなり通ったことにより、不審がられるが、鍵を忘れちゃって、と言い笑みを見せると、理解を示してくれた。やはりここの防犯はざるだ。ロビーの監視カメラもきっとフェイクだろう。こうして振り返ってみると、この城は虚構で塗り固められている。とてつもなく滑稽な場だ。

 そこから、ある階のある部屋に、するりと流れ作業がごとく行きつく。

 決心はついていた。自身の偽名を自然に言ってのける自信もあった。鞄の中から包丁をいつでも取り出せるようにしておく。先ほどから鳴り続けている携帯は電源をきって、高層マンションから放り投げた。階下の者に当たったとしても、もう気にしない。

 そして、部屋のチャイムを鳴らした。

 当然のことながら、警戒し、最初は出てくれはしなかった。そこから何回かチャイムを鳴らし、最後にドアをノックした。何度も。声を荒げながら、呼びかける。

「すみません。戸野倉とのくらさん。大丈夫ですか。弁護士事務所から派遣された朝日です。ご連絡せず申し訳ございません。こちらも立て込んでいまして……」

 そんな呼びかけをしつこく。こういうふうに呼びかけていれば、きっとこう思ってくれるはずだ。味方が来た、と。ひきこもった部屋の中で、鳴りやまない電話や報道陣のフラッシュと格闘し、疑心暗鬼に陥っているさなか、私のような弁護士が来ることで一筋の光が差す。この孤独から救い出してくれる人がいる。聞けば弁護士だ。自身が頼っていた弁護士の手が外せず代わりの者を派遣してくれたのだ。

 そして、扉は内側から開かれる。あとは順序通りに。

 住人は中から鍵を外し、小さな隙間から私のことを見た。できる限り誠実で、無垢な、新人を装うようにする。前もって用意していた、それらしい名刺を渡す。

「大丈夫ですか」

 出てきた彼女は、はらりと白髪を一本落とした。目の下には隈が濃くはびこっている。

「弁護士の方ですか。いつもの人と違うようですが……」

「当弁護士は現在手が離せない状況で、私が急遽派遣されました。報道陣の方は大分はけてきていましたよ」

「そう、ですか」

 ほんの少し彼女に安心感が漂っている。そんなほっとした声に、少なからず怒りを感じ、演技を崩してしまいそうになる。しかし、すぐに気を引き締めて、笑みを作り続ける。彼女は私のことなど知らないはずだ。報道された当時、私だけ家に帰らず、今の今までホテル暮らしを続けているのだから。その点、家にいる両親の心労は計り知れないだろう。今動けているのは私のみだ。

「ニュース見ましたか? もう大丈夫です。落ち着くまで、一緒にいますよ。それから、今後のことを考えましょう。中、いいですか?」

 矢継ぎ早に言ってしまった。自身をとがめたが、彼女は別段気にしてはいないようで、小さく頷く。かすかな反応にも、生気が宿っている。私は生きた心地がしないのにも関わらず、彼女だけは救われている状況に心の中で舌打ちをする。

 中に通されると、すぐに目に飛び込んだのは特大のソファと特大サイズのブラウン管テレビだった。

 一つ一つの大きさに、敵の強大さを悟る。だがここまで来てしまったのだから、もうやるしかない。

 ソファに座ると、高級そうな茶菓子と粗茶を置かれた。茶柱が立っている。それを一気に折りたくなる。その後、私と向き合う形で彼女が座る。

「まずは、そうですね」と、前置きをすると、私の言葉を待たずして彼女が「ありがとうございます」と頭を先に下げてきた。その様相に、一気にどろりと黒い感情がが噴き出る。何度も頭を下げて、「息子を無罪にしてくださり、本当に、本当に、ありがとうございます」と呟く。

 なぜそんなことができるのだろうか。私の想定していた彼女の姿はもっと狡猾で、貧乏人を蔑んでいるイメージなのに、これでは狂ってしまう。今回の計画自体、ただの八つ当たりだけれど。

「顔をあげてください」

 私の感情が揺らぐ。鞄を手放せない。すぐに包丁を抜き取り、彼女を刺してもよかったのにできない。重なるのは私の母の面影だ。私が犯罪を犯したとき母もこのように庇うのだろうか。


「……なんだ。案外普通の人だったんだね」


 すると無意識に言っていた。言い訳をしても仕方ないので鞄を引き寄せ、私は彼女が顔を上げるのを待った。その表情に張り付いたのは驚愕の文字だった。その顔を見て笑みを崩し、歪に口角が上がる。

 目の前のこの人が憎かった。あの男を産み落とし、庇い、罪を背負おうとせず、償いもしない。こうして感謝する加害者の親が、憎くてたまらない。

「もっとひどいやつだったら良かった」

 私は唇を噛みしめた。そろそろここまでくると、彼女も分かってくるだろう。私の顔を見て、少しずつ記憶も明瞭になってくる。そして行き当たるのは、被害者の写真の顔だ。私と似てはいない、妹の写真だ。だからここまで来ることが出来た。報道陣は被害者の妹とのあまりの似てなさできっと気づかなかったのだろう。いつも不思議がられた。でも妹とは確かな血の繫がりもあったし、彼女を愛していた事実は変わらない。写真を嫌ってあまり撮らなかったことも幸いしたのか、誰も私を写真片手に探さなかった。ここまで来れたのは運が良かったと言わざる得ない。

 私はただ加害者の家庭が見たかったのだ。私の妹を強姦し、暴行を加え、脅し、お金を巻き上げ、売春を斡旋し、あげく使えなくなったら殺し、その辺に捨てたとされている、犯人の家庭だ。きっと荒れているに違いないと思っていた。この虚構でできた家庭で育てられ、何らかの欠陥が作られた、そんなストーリーがあったのなら、すぐにでも包丁を取り出し、めちゃくちゃにしてやったのに、目の前にいる犯人の母親は普通なのだ。しかも、母子家庭だ。彼女は苦労してこの財を築き上げたに違いない。そしてそんな母親は犯人に対し無罪だと信じ続けている。

 しかし私は納得がいかない。状況証拠だけ、自白もない。遺族の私は法廷の傍観券をとれずじまい。国は被害者に対して何もしてくれない。

 これではあんまりだった。

 だから、加害者の自宅に押し入った。私の有り金全てはたいて、探偵に取り入って特定させた。

「あなた……」と彼女は口を小さく開けた。その口穴は底なしの闇が潜む。

「あんたの息子はやってんだよ。私の妹を脅して、男に売って、殺したんだよ。なんで無罪なの? ふざけんな」

 殺したい。

 包丁を鞄の中から抜き取り、彼女に向けた。切っ先は乱反射する。手汗がじわじわとにじみ出る。噴き出す額からの熱い雫は頬に沿って落ちていく。そのまま、綺麗なフローリングにぽたっと注がれる。

「なのに、どうして。あんたは普通なの?」

 目の前にいるのはたった一人の母親だった。息子の無実を信じてやまない。どうたらいいのか分からなくなってくる。この切っ先を突き立てる覚悟はしてきたののに、今やぶれぶれだ。そのまま体を押しやるも、彼女の方へ刃が向かない。彼女は私からそろそろと離れていく。緊張の糸が張り詰めている。私と彼女は包丁の視線で繋がれている。が、私はそれを彼女へ振り下ろさず、床に放り投げた。フローリングに傷が入る。似つかわしくない景色が床に広まる。

「やめた」

 皮肉にも私は、もう闘志も覚悟もなかった。目の前の人はそれほどまでに普通の二文字を背負っていた。加害者の遺族も生きる価値は私にとってない。しかし、どうにももう意識が向かない。普通が殺人の恐怖を湧き立てたのかもしれない。私はとんだ臆病者だ。

「ああ、そうだ。まず言わなきゃいけないことを言わなきゃね」そして、ここに来た時言おうと思っていた一言を思い出した。判決をニュースで知り、いち早く伝えようとしていたことだ。

「無罪判決おめでとうございます。

 そしてさようなら。

 私のこと、警察に殺人未遂でもなんなりと通報してください。

 あなたに任せます」

 一人では大きすぎる部屋を私は後にして外へ出る。冷たい風が私の頬を刺す。汗が冷えて寒い。心が震えている。

 妹に申し訳なかった。情けなさ過ぎて、その場にうずくまって喉をうならせた。どうしたらよかったのか。どうして私は刃を落としてしまったのか。後悔の念が溢れだす。

「臆病者で、ごめんね」

 塩辛くも痛烈烈な刺激が脳内を駆けていった。刺激に応える信号はどこにも発信されなかった。

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