暗黒より好敵手《きみ》に贈る

ペトラ・パニエット

暗黒より好敵手《きみ》に贈る

 それは、確かに友情だった。

 崩れていく紫水晶の城、薄れゆく意識。

 視界が消え、この身に感じる痛みと崩壊の振動を感じなくなり、水晶の割れる音が聞こえなくなって。

 私に最後に残されたのは――気高き好敵手きみの瞳だった。


「おめでとう」

 信じられなかった。

 口をついて出た言葉がだ。

 私が敗れ、奴が勝った。だのに、心の底、薄れ行く意識の残滓が伝え残す我が最後の言葉がそれなのだ。

 到底信じられることではなかった。

 実際、向こうもそんな心情だっただろう。

 奴が信じられないことを聴いたような顔をしたのを、その凛々しく勇ましい瞳が見開かれ揺籃したことを、かすかに視界の端に捉えた。

 だがそれでも、それが真実の言葉であることもまた、しかりと理解していた。


 奴は初めから敵だった。

 私が魔なるもので、奴が退魔の一族だからだ。十六年前に滅ぼしたウィアドの民の生き残り、時と運命の神ノアーニーアに祝福を受け暗黒の血族を滅ぼす定めに呪われた造花コンストラクションの英雄。

 そう言った人間がここ五百年の間に二十あまりいた。奴はその中の一人だった。

 そして呪われずとも敵となる人間はその百倍にも、千倍にも及んだ。

 本質的に魔なるものと人間は共存しない。

 根源からして、人間は日輪から零れ落ちたものを始祖とし、魔性は月夜の果ての深淵。その暗黒から生まれ出づる。昼を求める者と夜を求める者。創造の折より人間と魔の対立は宿命づけられている。

 神に呪われた英雄と人間の間に、強さ以外の違いを感じることはなかった。

 そのために、奴もまた、初めはそのような群衆の一部でしかなかった。

 エランジアの戦い、ニーアラーナ領での遭遇戦、そしてアイヴァローナ砦の防衛戦。

 奴を意識したのは、それら三度の衝突を越えてエテルラーカでの決戦の時。勇名高き魔将デーリアジャの月白銀ルナシルヴェリア製の大剣が正面から砕かれる様を見たその時だった。

 結果が、割れた剣の欠片に映る奴の太陽の色をした髪が、そしてそれ以上に鋭い眼差しが。奴が尋常ならざる例外であることを物語っていた。

 本能が警戒を求めていた。

 久しく振るわなかった戯れではない本気の剣。

 それを奴に向かって抜き放った時にいよいよそれを認めざるを得なかった。

 ……いや、今更格好つけることもない。

 恐怖から、真実奴を滅ぼすつもりで無意識に剣を奮ったのだ。

 それが、私の中で奴が群集の中の一つではなくなった瞬間だった。


 結果から言えば、エテルラーカでは取り逃がした。

 こうして最後に奴が私を打ち取ったのだから、それは言及するほどのことでもないかもしれない。

 時空間を跳躍する高次の転送魔法だ。転送を阻害するには、エテルラーカの戦域に展開した結界の維持を考えるなら余裕がなかった。あるいは久しく忘れていた脅威への無意識の称賛か。

 傷が癒え、更なる力を得るまで転移した先の次元――恐らくは精霊アーヴ界――に身を潜めるだろう、というのが予想だった。

 それは七日後のエテルラーカ陥落の知らせを以って覆された。

 即座に武装を整え、空間を跳躍し、その郊外、奴の我が城への進路において再戦を行った。

 七日前をしてなお鬼気迫り別人であった。

 私にはデーリアジャ将軍と軍勢がなかったが、向こうにはエテルラーカの反乱軍と傍らにいた森妖精エルフの小娘がいなかった。

 それはおおよそ互角か、あるいは奴の不利を意味した。

 だのに、奴は私に肉薄し、引き分けた。奴の聖剣と思しき鳳皇金フェニザイトの剣と、竜の骨と呪いで造られた我が魔剣がともに砕け散ったのだ。

 白兵においては互いに致命に至らず、魔術はまた悉く相殺された。呪法は奇跡によりかき消され、聖術はまた暗黒の秘術により始まる前に閉ざすことが可能だった。

 朝焼けの大禍時が終わるとともに私はその身を引き、その明くる日の再戦、夕焼けの大禍時にあっては奴がその身を引いた。

 朝と夕の二つの大禍時。エテルラーカより先、人外の魔なる領域。その地にあっては我らはその時が来る度に互いに殺し合い、それは決着がつくことがなかった。

 手を抜いていたとは言わない。だが、本当のことを言うなら致命傷を差し込む隙は互いにあったろうと思う。それでも、その二つの時にあっては互いに致死を与えず致命を与えず、それでいて致死と致命を求める二律背反を舞うことが互いのうちの暗黙の取り決めだった。それは、互いのともがらへの裏切りであり、その敵への秘めやかなる背徳の奇妙な契約の証だったのだと今では思える。


 はじめて『神』から賜ったという奇蹟の剣レーヴェンシオンを携える好敵手やつをこの瞳に目にしたとき、脅威に見えたのはむしろ剣そのものよりも奴自身だった。

 事実、奴は『神』の試練を経て大幅に研ぎ澄まされていた。

 剣が砕かれ、片腕を奪われ、ディーカラーパの大森林のその三分の一を犠牲にして命からがらの撤退。久しく無き敗北だった。

 魔性の頂点に君臨する身なればこそ腕の一つぐらいは幾許もなく再生するものの、果たして英雄から神話へと至ろうかとばかりの奴に対しては、少しばかり無力であった。全力に耐えうる剣と、何を越えても己自身の力が必要だった。

 今こそ暗黒の伝承のその秘奥に座する神秘なるものを求める時が来たのだと感じた。すなわち、遥かなる昔、大いなる邪悪の始祖を以って悪辣と呼び、闇の生ずる地、虚冷ニフル界の深淵に封じられた暗黒の神々の叡智と秘法を。

 魔性すら忌避する闇の果てへと踏み込み、暗黒の神々の忌まわしい取引の悉くを拒み、しまいには黒の神の一柱を滅ぼしその漆黒の剣を奪い支配した十日間の旅路を終えれば、すでにエテルラーカは遥か、ナフラカフラ、リーガーラヤ、トルメリニをはじめとしたテルノディーナより人間よりの地はことごとくが乱雑に解放されていた。

 すさぶる魔神の訪れたが如くに死と破滅が撒かれており、人の捕うる地か否かに寄らずそこに在った魔族が片端から滅ぼされていた。

 テルノディーナを直前に漆黒の剣と黄昏の剣が交差した。

 それは私からすれば義憤だったが、それが如何なる憤懣だったのかは定かではなかった。奴の剣は先よりも当然とばかりに強烈だったが、そこに気高さがなく、そのために脅威がなかった。勝利だった。勝利だったが、何を思ったか私はエテルラーカに倒れた奴を投げ捨て、とどめを刺すことをしなかった。

 それが終わりだと信じたくなかった。

 我ながら感傷的ではあるが、我らの決着がそのようにして付くことを望んでいなかった。


 三分の一は離反し、残った内の六割は戦力ではなかった。

 奴にとどめを刺さなかったことや、一度負けたことが気に食わなかったのだろう。

 私は、それらを滅ぼし、虚冷ニフル界のうちの確保した一帯に、その六割を移さねばならなかった。そして、再び立ち上がってしまうだろう奴に備えることも。

 奴と私は、以後最後の決戦までの間に剣を交えることをしなかった。


 奪還し返したナフラカフラやリーガーラヤといった都市が、再び解放されたという知らせを祈るようにして聞いていた。

 それは私が虚冷ニフル界に下っていた頃よりも遅いペースであったが、同時に乱雑な解法でもなかった。奴が立ち直り、その肩書通りの偉大さを示したことを不思議と快く思う心があった。私は奴の活躍を心待ちにしていたのだ。

 かつての到達点を越え、テルノディーナを落とされた頃にはこの城の玉座へと剣を突き付けに来る日を待ちわびるようになっていた。

 デーリアジャに続き四魔将が、四魔将に続き三魔帝が。三魔帝に続いてインヘリャル・ガーディアンズが。最たる信頼を寄せる側近のレフィアラーダとリグタラーガが。虚冷ニフル界に逃れた者・逃した者を除いては悉くの勇猛な者が次々に倒れていく報を聞いても心に募る思いは危難でなく、むしろ期待であった。

 そして最後に残ったイシルディの断末魔が聴こえたとき、それが大いなる福音にさえ聴こえたのだ。


 我が紫水晶の魔宮の最奥、玉座の扉が開かれた音が響いたその歓喜をどう表したものか。

 充足、興奮、歓待、期待、希望、憧憬、賛美――結実。

 奇蹟の剣が、アメジストにその光を落とし煌かせた。

 その先に続いたのは、私の最も満たされていた時間だった。

 レーヴェンシオンの光輝がこの身に一条差し込まれるごとに、求めたものがそれ以上の品質でそこにあったことを知る。

 漆黒の剣を振り下ろすごとに、そこにいる奴が今まで見たどの奴よりも至高なる好敵手であることを知る。

 聖術は防ぎきれず、奴はまた呪法をかき消そうとせずその身に受けて切り込んできた。

 互いが対等であるのかどうかを考えるだけの、その余裕がなかった。

 好敵手やつの成長が純粋に嬉しく、それが己によって齎されたものであることに歪んだ自負を抱いていた。

 月が天頂へと到達していた。


 この掠れ往く意識の中では、それが永遠に続いたのか、一瞬の泡沫の幻だったのか、すでに知る由がなかった。


 結局、結果として私は負けた。

 我が漆黒の剣は奇蹟を砕いたが、その剣が我が手を離れ、奴の手に収まりこの心臓を貫いていた。

 それすらを、どこか快く思っていた。


 奴を認めてからの私は、奴に形作られた。

 それが結論だ。

 確かに捉えたその真実を、疑う余地はもはやない。

 それは同様に、我が遺志を継ぐ者が確かに後に在る――これもまた、確認するまでもないことだ。

 口をついて出た言葉は、確かに真実の聲であることをどうしようもなく確かと知る。

 奇しき絆の結んだ、ただ稀なる賛辞を愛おしむ。

 だからどうか、その言葉を素直に受けていて欲しい。


 それは確かに友情だった。

 私はすべての果てに、君の旅路が、私のマスターピースが報われたことにおめでとうを伝えたかったのだ。

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