おめでとうが、わからない

中文字

ある男は、おめでとうなのか

「退院、おめでとうございます」

「ええっと。はい、ありがとうございます」


 俺は苦笑いしながら看護師さんに別れを告げて、病室から出た。


 病院前にあるバス停に立ち止まり、掲示されている時刻表をみてから、スマホを出す。


『10時40分』


 時間を確りと確認して、時刻表の10時の欄を見ていく。

 次のバスの到着は『10時50分』だ。十分ほど待つことになりそうだ。


 バス停のベンチに座っているかなと思ったら、バスがやってきた。


 どうして時間前に来たのだろうと首を傾げていると、バスの後部の扉が開いたので、そこから入った。

 乗客は少なく、席は多く空いている。

 座席に座ろうとすると、パスの運転手が放送で声をかけてきた。


『お客さん。券を取り忘れてますよ』

「券、ですか?」

『乗ってきた場所の横にあるでしょう』


 見ると、四角い箱があり、長方形の小さい紙が突き出ている。

 紙を掴んで引っ張ると『ちんっ』と音が鳴った。紙には、いま俺が乗ってきたバス停の名前と番号が書いてある。


 この券というものの意味がわからず、俺はバスの運転席に行き、運転手さんに聞くことにした。


「これ、どう使うんです?」

『お客さん、都会の人?』


 返答に困っていると、運転手さんは券の意味を教えてくれた。


『都会じゃバス料金は一律でも、地方じゃバスに乗車した距離で乗車賃が変わるんだよ。上の電光掲示板見て。券に書かれた数字の場所が料金だから』

「なるほど。ありがとうございます。ああ、もう一つだけ質問が」

『なんです?』

「バスの到着する時間って10時50分じゃなかったですか?」

『それは平日だよ。今日は土曜日。10時43分が到着時間だよ』

「ああ、そうでしたそうでした。今日は土曜日でした。ありがとうございます」

『いえいえ。ああ、ちゃんと座席に座ってくださいね。揺れますから』


 運転手さんの言葉に従い、空いている座席に座る。

 バスが走り出し、景色が流れていく。

 ボーっとその景色を見ていくが、見慣れないものばかりなので、見ていて飽きない。


「ああ。下りるバス停の名前、ちゃんと覚えておかないと」


 俺はスマホを取り出し、メモ帳を確認する。

 ああ、そうだ。到着予定時刻を平日のもので書いてしまっているので、土曜日のものに直しておかないと。



 俺はメモ帳に書いた停車駅で下りた。

 バスが走り去っていく音を聞きながら荷物を背負うと、スマホで地図アプリを呼び出し、それが示す通りに進んでいく。


 十分ほどで、平屋二階建てのアパートが現れた。ここが地図が示す目的地だ。

 階段を上り、二階の端の部屋「206号」室へ。荷物の中から鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し入れる。

 これで開かなかったらどうしようと思いながら鍵を捻ると、俺の心配をよそに、あっさりと開錠できた。


 扉を開き、中に入る。念のために、扉の鍵を内側から閉めておく。

 その後で、ゆっくりと中の様子を確認する。

 台所にある使い込まれた鍋や包丁。寝崩れた状態のままの布団。床に放置された雑誌。小さいちゃぶ台に乗ったテレビとリモコン。

 それらを見て、抱く感想は一つ。


「やっぱり、見覚えがないな」


 俺は財布から保険証を取り出し、そこに書かれている住所のままに地図アプリに打ち込んで、検索。

 示される場所は、やはりこのアパートのこの部屋だった。


「先生は「自分の家に帰れば記憶喪失が回復するかも」って言っていたけど、ここが本当に俺の部屋か、見ても実感がわかないな」


 俺は『頭にある真新しい傷痕』を撫でつつ、ベッドの上に腰を落ち着ける。


「自分の家の場所もわからない。どうやって生きてきたかもわからない。交友関係もわからない。スマホに入っている連絡先が誰かすらわからない。こんな状態なのに「退院、おめでとう」か。なにがおめでたいのやらな」


 やるせない気持ちになり、やる気がなくなっていくが、記憶はなくなっても、体は元気だ。

 医者の先生に言われた通りに、家探しして記憶を取り戻す切っ掛けを探すとしよう。

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