第6.20話 天地創造 - 6

 オーディンの独眼は目の前の光景を見ていた。


 朝までは平和だった。ユミルはオーディンの現在の研究内容を聞いて脳に異常があると思ったらしく、わざわざ病院まで連れ出されることになったが、何の異常も見つからなかった。当たり前だ。オーディンは正気だからだ――現在の研究テーマが正しいかどうかまではわからないけれど。

 ミクロ世界の生き物である〈マクスウェルの悪魔デーモン〉の存在は、その研究をしているオーディンにとってすら理解不能の領域だ。現段階では「もしも存在しているなら」という仮定でミクロより小さな世界の向き合っているだけなのだ。だから、正気を疑われても特に怒ったりはしなかった。


 ほとんど車での移動だったとはいえ、外に出るのは久しぶりだった。降り注ぐ太陽光は人間の身体に合わせた照明よりもずっと眩しく、目が痛い。照りつける陽は肌を暑くさせ、汗が出てくると不快感が大きくなった。人工音や周囲の人間たちのざわめきで研究のことを考えるのには向かないし、車もいちいち停まったり進んだりして苛々する。こんなことなら研究所の地下施設にいたほうがずっと良いと思うのだが、ユミルはそう思わないらしい。研究所の容易したリムジンの後部座席で隣に座るユミルは、車の外で何かが見えたり起こるたびにオーディンに話しかけてきた。


「オーディン、あそこにアイスが売ってるよ。買ってみようか」

 そんなことを提案して、ユミルは車を停車させた。彼女が指差したのは観光地とを往復する遊覧船の発着場がある港湾施設で、ここも一種の観光地らしい。たまたま病院からの帰りにこの港の近くを通ったのだが、普通であれば勝手に車を駐めてオーディンを連れ出すだなんてことはできなかったに違いない。それができたのは、同行していたオーディンたちの管理者――つまりユミルの上司だ――が病院でオーディンに何の異常もないことを見届けたあと、先にギンヌガガップ研究所に戻ってしまったからで、車には運転手とユミル、オーディンしかいなかったためだ。雇われの若い運転手は、オーディンが研究所に秘匿されている天才児だなどということはまったく予想していないらしく、ユミルの言うとおりに車を駐めた。


 ユミルの言うとおり、港湾施設の手前は公園のようになっていて、小さな移動式の屋台も出ていた。アイスクリーム屋の屋台まで手を引かれる。コーンに載せられたアイスクリームの値段は45NOK(約620円)と書かれている。ギンヌガガップ研究所で育ったオーディンには金銭感覚がよくわからなかったが、観光地だからきっと高いんだろうという予想はできた。

「何がいい?」

 オーディンはラムレーズンを選んだ。ユミルは抹茶だった。

 

 遊覧船が進んでいくのが見える港のベンチで並んで座りながら、アイスを舐めた。

(研究所でも食べられる)

 実際、オーディンたちが所望すれば研究所の人間はすぐに調達してきてくれる。もちろん、危険性がないもの、という条件付きではあるのだが、アイスクリームはそれに反しない。だから食べなれたものだ。

「風が気持ち良いね」

 ユミルの言うとおり、爽やかな風が肌を撫でると、暖かな日差しも相まって心地良い。穏やかな海がさざめき、人々が陸を行き交う。アイスは甘い。遊覧船からは観光客が誰とも知らないであろうオーディンたちに向けて手を振っていた。


「オーディン、あのね、わたしはあなたたちを研究所から出そうと思っているの」

 そう言うまでのユミルの表情には間違いなく躊躇いがあった。言わんとしていることはわかる。彼女はオーディンら〈運命ノルン〉の子らが研究所に使役される存在であり続けることを好ましくないと考えているのだろう。オーディンがそれに賛同するかどうかは自信がなかったものの、研究所の目が届かないこの状況はそう何度もあるわけがないと考え、決断したのだ。

「その……わたしはね、オーディンにも、ヴェーにも、ヴィリにも、研究所の中だけじゃなくて、もっと外の世界を見せてあげたいと思う。そのために、できるだけ平穏に研究所と話し合いをするための準備をしているの」


 ユミルはその決意を滔々と語った。だがオーディンの心は冷めていた。

 研究所の中だけで得られる経験は僅かだとか、普通の子どものように振る舞うべきだとか、ユミルがオーディンに対してそういった理解をすることを期待をしているのはわかる。実際、理解している。それでもオーディンは研究所の外で生活することが己にとって利になるとは思っていない。ヴェーやヴィリはまた別かもしれない。彼らには彼らなりの考え方があるだろう。だがオーディンは、自らの知を高める以上のことに興味はなかった。そのためには、余計なことをしなくても良い研究所は絶好の場所だ。

「うん」

 それでもオーディンは、頷いてやった。そうしたほうが、ユミルが喜ぶと思ったからだ。彼女が研究所で働きだしてから、オーディンの興味の対象はひとつ増えていた。彼女と一緒にいたいし、彼女が悲しむと厭だった。だから。

 あまり外で長居をしていると睨まれるということで、アイスを食べ終わってから研究所に戻った。


 異変が起きたのは、ユミルとともに研究所の地下施設に戻ってきたときだった。

 両の足に伝わる振動と鼓膜を打つ地響きがこれまでにない異常を理解させた。


 立っていられなくなったオーディンはユミルに抱きとめられた。そこで記憶は一度途切れた。


 そして今、オーディンの眼前にはやはりユミルがいた。その瞼はぎゅうと閉じられていて、その腕はオーディンを優しく抱きとめていて、その胸は血で染まっていた。

 オーディンの義眼は、地下施設内の状況を理解するよりも早く、目の前の物体の状態を理解させてくれた。


 呼吸なし。

 脈拍なし。

 心臓破裂。

 外傷性の心肺停止。

「ユミル………?」

 ユミルは動かない。それはわかる。死んでいるからだ。それなのに、オーディンは声をかけてしまった。その身体に触れてしまった。彼女の身体はまだ暖かく、溢れている鮮血は凝固しきっていない。だから気を失っていた時間は僅かだ。死んだばかりだ。蘇生も可能かもしれない。今すぐにでも人工心肺を繋げば、生き延びられるかもしれない。

(外に出なければ……!)

 そんな考えが生じたところで、ようやくオーディンの独眼はユミル以外に向けられた。


 改めて見れば、地下施設は酷い惨状だった。部屋中の物がひっくり返り散乱しているだけではなく、天井が崩れ、照明は割れていた。地下で電灯が切れていた代わりに、電気系統の故障に伴って発火したのか、部屋の隅で火が燃えていて黒煙を撒き散らしていた。換気口が動いているかどうかも定かではないこの状況で、しかし燃え盛る炎は灯りとなるのがありがたかった。出入り口である階段は天井から崩れていたが、地下構造物が見えるだけで外の風景は見えない。この光景が地震などの自然現象によって作り出されたものなのか、テロなどの人為的災害の結果なのかはわからないが、地下施設が復旧不能なほどの被害を受けてしまったのは間違いない。

 出入り口に近づいて瓦礫をどけようとするが、オーディンの小さな手のひらでなくても、人間の手でどうにかすることはできないほどに崩れてしまっていた。小さな隙間はないではないが、子どものオーディンですら通れないような隙間だ。それに、隙間から覗いてみてもただ真っ暗な闇が広がっているばかりで、道が繋がっているようにも見えない。

「誰か!」

 外部と連絡が取れればどうにかできる方法があるかもしれない。だから叫んだ。だが何の応答もない。オーディンの義眼には通信機能もあったが、ネットワークが切断されているらしく、外部との接続ができない。

 いや、万が一外と連絡が取れたとしても、救助隊がこの地下施設にやって来るまでにはどれくらい時間がかかるだろう。一時間? 二時間? いや、階段の倒壊具合を見る限り、そんな簡単に済むはずがない。でなくても、心臓が完全に止まっているユミルの蘇生は15分も経ってしまえばそれでおしまいだ。彼女の身体が丸ごと入るような冷凍庫はないし、細胞を壊さないように冷凍できるような設備はない。あったとしても、死につつあるこの身体を保つことはできない。もう、駄目だ。


「誰か………!」

 ひとつきりの生身の目から溢れた涙が、ユミルの身体に落ちる。表面が凝固しつつある血が溶けたことで、改めて時間の経過を感じる。もう、もう時間がない。もう、どうにもできない。

「オーディン……」

 声に反応して振り向くと、妹のヴィリを抱いたヴェーがアウドムラとともにやってきていた。ふたりは倒れ伏して物言わぬ身体となったユミルに気付くと、びくりと震えて一歩後ずさった。顔には恐怖と絶望がありありと見て取れた。

 だがオーディンはというと、ヴェーの顔を見たときに天啓が降りてきた。


「……〈世界樹ユグドラシル〉!」


〈世界樹〉。それはヴェーが老犬アウドムラを長生きさせるために作り出した人工臓器だ。彼が画策していたのは寄生した身体の機能を最大限に活かして寿命を延ばすことだったが、使い方次第では傷の治癒にも使えるはずだ。

「なに?」

「〈世界樹〉だ! 試作している〈世界樹〉はどこにある?」

「オーディン、いまはそんな場合じゃ………」

「そんな場合だ。ユミルが死につつあるんだ」

「そんな場合じゃない! ユミルは死んでいる!」

「まだ死んでいない! 完全には死んでいない! まだ終わっていない!」

「オーディン、目を覚ませ!」ヴェーが掴みかかってきた。これまで生きてきて、こんなふうに乱暴に扱われたことは初めてだった。「終わりだ。終わりなんだ。ユミルに〈世界樹〉を移植しようとしたら、一酸化炭素中毒になって終わりだ。それに、〈世界樹〉はアウドムラ用に調整しているもので、遺伝情報もアウドムラのものを書き込んである。人間の身体じゃ動かない」

「もう逃げられない」それでもオーディンは、言い返した。「どうやって逃げるというんだ。ぼくたちのことは研究所でも限られた人間しか知らないんだ。おまけに秘匿扱いだ。助け出してくれるとは思えない」


 そうだ。議論する必要などなかった。なにせ、オーディンたちにはできることはない。燃えつつある地下施設から抜け出す手段がないのだ。ただ待つしかない――待ったところで死ぬ前に助けが来るとは思えないが。

「ヴェー、わたしもユミルのこと、助けてあげたい………」

 そしてヴィリが最後の後押しをした。彼女の兄であるヴェーは諦めたように首を振り、それから自分の研究者へ向かえる道を探して〈世界樹〉――脊髄のような形をした人工臓器――を取って戻ってきた。オーディンは手術の準備をはじめ、ユミルの身体を切り裂き、〈世界樹〉を移植した。アウドムラの遺伝情報が残っている〈世界樹〉の移植には、ヴィリの免疫寛容の技術が役に立った。


 オーディンが手術を行っている間、ヴィリはアウドムラにリボンを結んでやり、ヴェーが外の人間に向けた手紙をそのリボンの隙間に差し込んで崩れた出入り口の穴へと誘導した。アウドムラは大型犬ではあったが、足を縮こめしまうと穴を通れるほどに細くなった。そして、ふたりの意思を汲んで穴へと潜っていく。もし穴の先が外に繋がっていれば、地下に人がいるというを気づいてもらえるだろう――それまでオーディンたちが生きていられるとは思えないが。

 手の空いたふたりにまた手伝ってもらいながら、手術が完了した。

「オーディン、ヴィリ……わかっていると思うけど、〈世界樹〉は傷を治し、もしかするとユミルを生き返らせることもできるかもしれない。だが、そこまでだ。炎がこのまま回れば、一酸化炭素にまかれるだけじゃなく、焼き尽くされる。そうなったら、〈世界樹〉も意味がない」

「それは……大丈夫だよ」


 一酸化炭素がいかにあろうと、それを呼気として吸入しなければ身体に影響は出ない。

 炎に巻かれようと、温度の高い分子と低い分子を選り分けて壁を作れば炎さえも退けられる。

〈マクスウェルの悪魔〉。オーディンの研究結果で助け出せるはずだ。

(だがそのためには………)

 

「ヴェー、聞いて……」

 手術の後始末をしながら声をかけたが、返答はない。振り返ると、栗色の髪の少年は倒れ伏していた。一酸化炭素中毒だ。意識混濁。昏睡。彼はアウドムラが戻って来るまで間に合わなかった。彼の膝に頭を預ける亜麻色の少女もだ。

 オーディンも、もはや時間がない。友人といえる存在だったふたりの目を刳り貫き、あらかじめ用意しておいた義眼――己の左目に埋め込んだものと同じものを挿入する。ふたりの脳はまだ死んではいない。だから、この義眼も機能するはずだ。

 そしてユミルにも。研究所のネットワークは断切されていたが、義眼にはそれぞれ他の義眼と通信する機能がある。これで、ヴィーやヴェリ、ユミルの義眼と通信できるようになった。

(これで………)

 オーディンは薄れゆく意識の中で、自分を見失わぬようにと祈った。なすべきことを――ユミルを救うことを忘れぬことを。


 この日、〈霜の巨人〉ユミルが死んだ。オーディン、ヴェー、ヴィーリの3人は彼女の死体に〈世界樹〉を植え、九世界を支えた。そして〈運命ノルン〉の3人は魔法の目を携えた〈呪われた三人〉として、〈世界樹〉を保つ悪魔となったのだ。

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犬の一生 山田恭 @burikino

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