第6.19話 天地創造 - 5
「人間のスケールにとっては地球だとか太陽だとかいった規模はあまりにも大きすぎて、これが絶対的なもののように見える。でも、特別な観測機器を用いずとも、天には無数の星があることがわかる。太陽に似た――いや、太陽よりもずっと大きく、強く、明るく輝く星々が。
こういった星々をもっと俯瞰して見てみるとその形状は様々だけれど……たとえば楕円銀河やレンズ上銀河になってくると、その形状は原子や分子の構造に似てくる。非常に巨大なスケールの構造が、非常に微細なスケールのものに似てくるというわけだ。とすると、これは逆向きでも言えるのではないか、ということがスタートなわけだよ」
何か難しいことを喋りだしたぞ、と霜月夕美は思った。
喋っているのはオーディンである。〈
3人の天才児たちの世話をする夕美の仕事の中には、彼らの研究内容が形になる前に噛み砕いたレベルで研究所に報告するというものもある。
一般に、研究者というものが研究資金を集める場合、計画や目的に関する説明を長々と説明しなければならない。だが〈運命〉の子たちの場合、そんな悠長なことはさせてはいない。移り気な子どもたちにそんなものを書かせても長続きはしないし、そもそも非公開の存在である子どもたちに、正式な手続きはできないからだ。
だからといって、研究所は子どもたちの研究方針がわからないまま無限に資金を出すことなどできはしない。そのため、気軽に話をしてもらえる夕美が簡単にかいつまんで研究の方向性を聞く必要があるのだ。
そんな仕事を理解していて、だからしっかりと話に耳を傾けようとした夕美ではあったが、これは難儀だぞ、と思い始めていた。
「あの、〈
「悪魔……? ああ、〈マクスウェルの
「〈マクスウェルの悪魔〉………」
「ユミル、知ってる?」
「えっと、未来の行末を知っている概念みたいな存在みたいなやつ?」
「それは〈ラプラスの
自分で自分の顔を見ることはできないが、たぶん夕美は「わけがわからない」という顔をしていたのだろう。オーディンは改めて説明してくれた。
「まずエントロピーだけど……これは無秩序さの指標ともいうけどね、まぁ不可逆性の指標だと思ってくれればいい」
夕美は頷いた。ここまでは、いちおう、わかる。理学博士の博士号も持っている――物理とは少し違う分野だが、熱力学についても講義は取った。エンタルピーだとかいう、名前が似ているけど意味がまったく違う言葉もあったな、などと思い出す。
世の中のものはなべて不可逆だ。盆の中の水をひっくり返したら元には戻らないし、溢れたミルクを嘆いても仕方がない――もちろん、水やミルクを雑巾で拭いて絞り出すことはできるが、そのためにはエネルギーが必要だ。無理矢理余計な仕事をして、なんとか見た目だけでも元通りにすることができるのだが、それでも余計な仕事をしたぶんを含めて見れば、やはり元通りではない不可逆だ。そういうものだ。
ところでオーディンは〈悪魔〉が「熱力学の第二法則に反する存在」だと述べた。
熱力学第二法則は複数の科学者によって提唱されており、幾つかの表現があるが、根本の意味合いは一緒だ。たとえばクラウジウスの法則では「温度の低いものから温度の高いものへ熱を移すとき、他の何の変化も起こさないことはできない」となっている。つまり、通常は熱は温度が高いものから温度が低いものへ移るものだ。やはりこれは不可逆な現象であり、
だが、そもそもなぜ熱は温度が高いものから低いものへ移るのか?
もっと言えば、そもそも温度とは何か?
温度はその物体を構成する分子が持つエネルギーだと言い換えることができる。より正確にいえば「平均的なエネルギー」だ。50℃のお湯があったとして、その水分子すべてが50℃相当のエネルギーを持っているわけではなく、ばらつきがあるのだが、平均的には50℃相当のエネルギーを持っている。
移動についてはわかりやすい。お湯と水を混ぜれば、個々の分子は混ざり合う。すると熱も混じり合う。
輻射は放射ともいい、エネルギーを持っている物体から常に射出されている。人間の存在する程度の温度でいうと、赤外線がそれだ。赤外線を射出することで物体は温度(エネルギー)をいくらか失い、その射出された赤外線を他の物体が受け取ることでエネルギーを増やす。
伝導は単純に物体同士が触れ合っていることで、分子そのものが移動せずともそのエネルギーが移動するというものだ。冷たい金属に触れていると、指は冷えるが金属は逆に温まり、そのうちに同じくらいの温度になる。
温度が高いものと温度が低いものがあれば、熱は移動して混ざり合い、最後にはおおよそ均一になる。温度が低いものから温度が高いものへ熱が移るときは何かの仕事が必要だが、高いものから低いものへ移るのは容易だ。それが熱力学の第二法則というものだ。
逆にいうと、温度が高いものと低いものが別個に存在していれば、そこから仕事=エネルギーを生み出すことができる。現在の発電方法なら半導体の仕組みを利用した温度差発電があるが、もっと簡単に考えてみても、温かい空気と冷たい空気の間に羽根車を付けたモーターを置いておけば、潜り込もうとする冷たい空気と昇ろうとする温かい空気の移動で羽根車が回り、それで発電ができる。
つまり、温かい空気と冷たい空気が混ざった結果の空気から、まったくエネルギーを消費せずに温かい空気と冷たい空気を別個に取り出すことができたのなら、それは無からエネルギーを取り出したということになる。永久機関だ。そのためには、全体の分子の中からより温かい分子(平均よりエネルギーが高い分子)と冷たい分子(エネルギーが低い分子)をより分ければいい。
だがそれは為せない。なぜなら熱力学の第二法則が阻むからだ。
「それに反する存在が〈マクスウェルの悪魔〉だよ」
〈悪魔〉ができることは簡単だ。分子に何の影響も与えず、エネルギーの変化を生じさせず、またエネルギーを消費せずに、分子の持っているエネルギーを知覚する。そしてもしその分子が温度の高い分子だったのなら、ばらばらに動き回っている分子が自分の近くに来たときに「温かい分子が集まる部屋」への扉を開ける。冷たい分子だったのなら、「部屋」への扉を開けない。これだけで無から有のエネルギーを取り出すことができた。
あとは一定以上の分子をより分けたところで、扉を開放すればいい。〈悪魔〉の手助けがなくなって無秩序になった分子はまた混ざり合おうとし、その過程でエネルギーを生み出す。無限に。
「もうちょっと正確に言うと、〈悪魔〉が動くのに必要なエネルギーよりも〈悪魔〉が発生させるエネルギーのほうが大きければいいんだけどね」
「なるほど」
と夕美はいちおう頷いてみせた。このような話は大学の学部生だった頃、統計力学の授業で聞いたような気がする。分子運動論だ。確かにオーディンの説明したようなことが行える〈悪魔〉がいるのであれば、一度に取り出せるエネルギーは微弱ながら、無限にエネルギーを取り出せることになるだろう。だが実際は存在しない。〈悪魔〉などという生き物は。
「そうではない、というのが今のぼくの研究なんだよ」
そう言われて思い出した。オーディンの研究テーマを聞いていたのだった。なんだっけ、宇宙がどうたらとか言っていた気がする。
「最初に言ったように、宇宙を大きなスケールで見てみると、分子の構造によく似ている。だから、もしこの宇宙が巨大な生物だったとすると、ぼくたちは彼にとっては〈マクスウェルの悪魔〉のような存在だろう。彼には地球はもちろん、太陽系や銀河の挙動ですら知覚できないに違いない。その中で動き回るぼくらは〈悪魔〉なんだ」
オーディンの話を聞きながら、またスケールが大きくなったぞ、と夕美は思った。
「逆にいえば、ぼくら生物の身体の中でも、似たような現象が起きている可能性はある。知覚できる範囲だと臓器や細胞、DNA、あるいは分子構造だとかのレベルへの理解がせいぜいだけれども、もっと小さなスケールで……プランク長、プランク時間より小さなスケールで、小さな〈マクスウェルの悪魔〉が動き回っているかもしれない」
プランク長とは物理的に観測しうる最小の大きさで、プランク時間とは最小の時間だ。だがもっと小さな大きさ、時間はある。ただ観測できないだけで。
「その〈悪魔〉を操作する、というのがいまのぼくの研究なんだよ」
夕美はなんと返答すれば良いのかわからなかった。
オーディンの話の内容が理解できなかったわけではない。改めて一から説明し直してもらえれば、エネルギーや分子の運動に関する話は思い出せた。だが、そこから続けられた天才児の語った内容はあまりに突飛だ。妄想じみていると言ってもいい。天才が過ぎて、頭がおかしくなったのかとさえ思えてしまう。
あるいは、とオーディンの左目を隠す眼帯に視線を合わせる。自分で手術して取り付けたあの義眼が脳に何らかの悪い作用を及ぼしているのではないかとさえ思えてしまう。もし脳に悪影響が出ているのであれば、事態は一刻を争う。今すぐにでも所長に掛け合い、病院に連れて行って再度検査を受けさせるべきだと夕美は判断した。それが子どもたちのためにできることだと、そう信じて。
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