三年目の不純

λμ

三年目の不純

 なかなか降りてこないエレベータにため息をつき、ジュンは眼鏡を押しあげた。


「僕、なんかしたかなぁ……?」


 昼過ぎに、同居人のみさきちさんから『今日は残業禁止!』というメッセージが届いた。何か怒らせたかと考えたが思い当たらず、『分かりました。急ぎで帰ります』と返信したものの、既読がついただけで応答はなかった。


 ようやく開いた扉をくぐり、ジュンはコンビニの袋を覗いた。みさきちさんはたいていの場合プリンで許してくれるが、今回ばかり不安だった。


「……た、ただいまー……?」


 返事がない。リビングから漏れる光が少し怖い。ジュンは怯える子猫のようにつま先立ちになってドアに近づいた。

 開けたら謝罪。開けたら謝罪。開けたら謝罪……。

 胸のおくで唱えながら、手を伸ばす。


「ごめ――!」


 パパパン!

 と、三発のクラッカーが鳴り響いた。


「おっかえりー! 三周年! 三周年だよー!」


 ひらひらと舞う紙テープの奥で、みさきちさん――ミサキが、満面の笑みを浮かべていた。


「ほらほら、ジュンくんも!」


 ミサキはジュンにクラッカーをひとつ投げ渡し、両手を広げた。

 鳴らせ……って? と困惑しながらもジュンはクラッカーの糸を引いた。小さな破裂音を立てながら紙吹雪が飛び出した。


「えっと……三周年、ですか?」

「……え?」


 ミサキの形の良い眉がにゅっと寄った。椅子の上であぐらをかき、腕を組み、首をかしげた。


「忘れるかー? そこでさー」

「す、すいません。えっとお詫びに、その、プリンを買ってきたんですけど……」

「またプリン? ――ま、いいけどさ」


 ミサキはニッと笑いながらテーブルを指差した。小さなケーキの上に、三周年を祝うチョコレートプレートと、家と、一組の男女の小人が、みっちみちに詰まっていた。


「私とジュンくんが同居しはじめてから、今日で三周年でーす」

「……あ、ああ! それかー……」


 ニコニコしているミサキに、ジュンは安堵の息をついた。


「とりあえず、着替えてからでもいいですか?」

「えー? なんだよもー。ノリ悪いなー」

「スーツ姿じゃノレませんって」

 

 ジュンは苦笑し、頬を膨らますミサキを横目に自室に入った。途端、

 もう三年も経つのか、とため息をついた。

 

 三年前、就職を機に会社近くに引っ越したばかりのジュンを、不幸が襲った。アパートで消防法違反が発覚し、退去を命じられたのだ。すでに前の住居を引き払っていて、時期的に次が見つかるまで時間がかかりそうだった。


 慌てて同期に救援を頼むも、みんな自分のことで手一杯。ジュンは藁をもつかむ思いで大学の一年先輩だったミサキに電話をした。同じサークルで親しくしていたのもあってか、ミサキはいくつかの条件を呑むならと部屋を提供してくれたのだ。


『ひとつ。絶対に手をださないこと。

 ふたつ。家賃を半分だすこと。

 みっつ。家に他人をよばないこと』


 壁に貼った筆文字の三か条が、絶対のルールだ。他にもいくつか決まりはあるが、どれもこれも共同生活をする上で当然のものばかりで、守るのも苦ではなかった。


 あれから三年か、と奇妙な感慨を抱きながら、ジュンはTシャツとジーパンに着替えた。

 すぐに新しい家を見つけて出ていくつもりだった。しかし、新社会人としての仕事に追われるうちに、ずるずると一年を過ごしてしまった。


 二年目こそはと思ったら、今度はミサキの方に問題が起きた。仕事を辞めてしまったのだ。先輩に付きまとわれ、頭に血が上って、つい……らしい。相手は住所を知ってて怖いからしばらく一緒に暮らしてほしいと頼まれ、嫌とはいえなかった。

 そうして、ミサキが落ち着くまでに二年目も過ぎ去って、


「気付けば三年目、か」


 そろそろ出ないとな、とジュンは思った。

 みさきちさんも新しい仕事が決まったみたいだし、それに――。


 このままだと、ひとつ目のルールを破ってしまう。


 慣れのせいか最近のミサキはだらしがなく、ジュンは悶々とさせられていた。派手めな下着を室内干ししていたり、部屋着の露出度が高くなったり、この前なんか風呂上がりにバスタオル一枚でリビングに入ってきた。かろうじて理性を保ってきたが、限界は近い。


「今日こそはちゃんと出ていくって言おう」


 固く決意し、ジュンはリビングに戻った。しかし、


「遅いおそーい! せっかく作ったのに冷めちゃうだろー?」


 ミサキの気持ちのいい笑顔に、決意が揺らいだ。また薄手のシャツにショーパンという無防備な姿だ。目のやり場に困るし、そうと口にすること自体も悪い気がする。

 ジュンは眼鏡を外して誘惑から目をそむけつつ、テーブルについた。



「どう? 美味しいっしょ?」

「はい。店ひらけるんじゃないかってくらい」

「それは言いすぎかなー? でも。ありがとー」


 ミサキはニコニコしながら赤ワインを注いで、ジュンに差し出した。


「今日くらいは一杯つきあってねー? お祝いなんだしさ」

「あ、はい」


 酒を飲んだら理性が緩みそうで怖いのだが、せっかくのお祝いムードを壊したくなかった。


「んで、ケーキ食べたら、一緒に映画ね?」

「え? 映画ですか?」

 

 みさきちさんホラーばっかなんだよな……と、ジュンは頬を引きつらせる。

 ホラー映画が好きなくせに、一人で見るのは怖いという。しかも血がドバっと出るようなシーンになると悲鳴をあげながら抱きついてくるのだ。


 ジュンとしては映画に集中できないし理性は揺さぶられるしで、たまったものではない。

 そんな思いを知ってか知らずか、ミサキはニヤリと片笑みを浮かべた。


「だいじょーぶ。今日のは恋愛映画だから」

「え、恋愛、ですか……?」


 それはそれで困るのだが、


「そ。あま~いやつ。逃げるなよー?」


 可愛らしく迫られると頷くしかない。自らの意志の弱さに苦笑しながら、ジュンはワイングラスに口をつけた。


 ――で、恋愛映画って、これ……。


 ルームシェアを始めた男女が恋に落ちていくという、やたらに甘いストーリーだった。

 傍らに目をやると、クッションを抱えるミサキは、ワインのせいか仄かに頬を染め、真剣に映画に見入っていた。今にもこちらを見てきそうな気がして、ジュンも画面に目を戻す――が、


 画面では、裸の男女が愛を囁きあっていた。


 ――――ッ! まただよ! 濡れ場多すぎ! 気まずい! 気まずいよ、みさきちさん!


 まだ半分にも達していないのに、何回するのか。ときに激しく、ときに艶かしく、熱烈に。

 ストーリーの大半がベッドの上で進行している気がする。

 ジュンは肌色ばかりの画面から目を反らし、ワイングラスを取った。空だった。すばやく視線を走らせる。ボトルも空だ。

 

「――ちょ、ちょっとワイン取ってきますね?」


 ジュンはここぞとばかりに腰を上げたが、しかし、ミサキにシャツの裾を掴まれ半ば無理やり座らされた。


「逃げんな」


 妙な迫力をもった声に、ジュンは正座になった。


「……あ、あの、みさきちさん、ここ最近ちょっとおかしくないですか?」

「……何が?」


 ミサキはジュンをじろーりと睨みあげる。


「な、何がって……」

「おかしいのはそっちじゃない?」


 ミサキはずいっとジュンに迫り、襟首を掴んだ。


「三年! 三年だよ!? もう三年経ったんだよ!?」

「えっ!? ええっ!? なに!? なんですか!?」


 突然のミサキの剣幕に、ジュンは慌てて尋ね返した。何を言いたいのか分からない。みさきちさんは何に怒ってるんだろうか。考えても考えても答えは出ない。

 ミサキは叫ぶように言った。


「いい加減に手を出してこいよコノヤロー!」

「――え? えぇぇぇぇぇ!?」


 絶対に手を出さないのが同居のルールのはずでは。

 というか、


「な、なに言ってるんですかみさきちさん! 手、手って……」


 つまり、そういうことをしろって?

 困惑するジュンのシャツから手を離し、ミサキはグラスを呷った。


「なんなんだよもー……。三年だよ? 三年も一緒に暮らしてて、何も思わんの? そりゃ最初は? 最初はそういうの求めてなかったよ? でもさ、二年目は? 私のワガママまで聞いてくれちゃったりして、なのに、なんなん!? なんで!? 私、そんな魅力ない!?」


 ミサキはじろりとジュンに目を向けた。


「わざわざ使いもしない勝負パンツ買ってきてさー、恥ずかしいの我慢してバスタオル一枚で出てきたりしてさー……こんな! こんなドエロい映画まで借りてきたんだよ!? 履歴残ったら嫌だから変なレンタルショップの会員になったりして! 見ててエロい気分にならんの!? そんなに私ダメ!?」


 酔っているせいなのか、怒り心頭だからか、少し訛っていた。

 ジュンは両手を上げてなだめた。


「お、落ち着いて、落ち着いてください」

「……落ち着けるか。ばかー……」


 うるうると、ミサキの目が水っぽくなっていく。

 ジュンは目をそらしたくなる衝動に耐え、まっすぐ見つめる。逃げてはだめだと思った。


「……あ、あの……い、いいんですか? 手、出しても」

「いいよ。てか、出してよ。どんだけ待ったと思ってんの……?」


 ミサキの声は消え入りそうなほど小さくなっていった。


「……ほんとにいいんですね?」

「いいよ。出してよ。草食系にも程があるだろー……?」

「…………マジで、手、出しちゃいますよ?」


 いいのか。いいんだろうか。

 いいと言ってくれているんだからいいはずだけど。

 ええい! 迷うな!

 ジュンはずいっとミサキに迫り、言った。


「い、今から、僕は、みさきちさんに、手……手を出します!」


 そう宣言し、ジュンはぐっと身を乗り出した――瞬間、

 ぺちん、

 とミサキの手がジュンの視界を遮った。


「…………えっと? みさきちさん?」

「ご、ごめん。なんか改めて言われると、照れた。……やっぱりなしとか、だめ?」

「……無理です。無理に決まってます」


 ジュンは眼鏡を外した。


「だ、だよね……って、あ、ちょ、ま、待って!」



 三周年を祝う夜は、静かに更けていった。

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