靴の道

PURIN

靴の道

 それをはじめて見たのは、高校の入学式に向かう道中のことであった。


 今日から高校生。中学生だった今までとは違う生活がスタートする。

 新しい友達はできるのだろうか。勉強にはついていけるのだろうか。部活はどうしようか。将来のことも本格的に考え始めなければならなくなる。


 人間関係が上手くいかなかったらどうしよう。留年したらどうしよう。部活が楽しくなかったらどうしよう。ある日突然学校に行けなくなってしまったらどうしよう……

 新たな日々に馳せる思いは、期待よりも圧倒的な緊張感。

 知らない世界に飛び込まなければならない恐怖。

 隣を歩く家族の声に、生返事を繰り返すことしかできない。


 そんな時、ふとそれが視界に入った。

 黒々と鈍く光る歩道のアスファルトの上。黒と対照的な純白。

 手のひらに乗っかるくらいの、片方だけの子どもの靴。

 その時思ったのは、それだけだった。




 その日の帰り道も、同じ道を家族と帰宅した。

 先生達の長ったらしい話はほとんど耳に入らなかった。同じクラスになった子たちにも何度か話しかけられたし、式の後に担任の先生からの挨拶もあったけど、それの内容もよく分からなかった。

 覚えているのは、心音がずっと耳元で鳴っているかのように、鼓膜が破れそうな音量で聞こえ続けていたことだけだった。

 明日から大丈夫かなあ…… と新たな不安を抱えつつ、けれどとりあえず初日は一応無事にクリアしたからとある程度安堵もしつつ、家族と笑いながら歩いていた。


 笑って細めた目に、それは映った。

 日光を妙に眩しく反射させる、小さな靴。

 その時もそれ以上何も思わなかった。




 翌日、昨日は家族と来た道を一人で進んでいた。

 行きたくない、と厭うほどの緊張感。けれど行かなければならないという義務感。

 鉛のように重い足。引きずるように、高校へ向かう。

 

 それは、その朝もそこにあった。

 まるで誰かが履いてくれるのを待ち構えているかのように、履き口をきちんと天に向け、存在している片足だけの靴。


 認識した直後、後ろから「おはよう」と聞こえた。

 ぎょっと振り向いた先に、見慣れない顔が手を振りながら笑っていた。戸惑ったが、やがて昨日同じクラスになった生徒であることを思い出した。

 「おは、よう」ぎこちなくも、挨拶を返した。




 その日は、朝挨拶をしてくれた子と一緒に帰った。

 話の面白い、いい人、という印象だった。お互いに会話のネタに詰まって黙り込んでしまう場面もあったが、それでも最後には笑顔で「バイバイ、また明日」と別れることができた。


 それは、まだそこにあった。

 スリッポンというのだったか、靴紐なんかの付いていない、足を入れるだけで履ける10cmくらいの靴。白一色で飾りなんかもない、シンプルなデザイン。

 そういえば昨日も今朝もあったなとはおもったが、やはり気にはしなかった。




 翌日もその翌日も、なんだかんだ言いつつ高校に通った。

 最初のうちはやはりどぎまぎしてばかりだった。

 けれど、徐々に徐々に慣れてきた。友達もできたし、勉強は確かに難しかったけど、なんとかまあまあの成績をキープできたし、先生のおかげで英語を面白く感じられるようになった。入部した茶道部の人達も優しい人ばかりで、とても楽しかった。

 もちろん、高校生活の全てが順風満帆だったわけではない。悪口を言われたこともあるし、数学が分からなすぎてテスト中に泣きそうになったこともあった。部活中に先輩達が喧嘩を始めて、どうしようかと思ったこともあった。

 けれども、おおむねいい3年間だった。


 そんな日々の中、通学に使う道の同じ場所、通行の邪魔にならない端っこの方で、3年間毎回必ず見かけた。

 晴れの日も雨の日も雪の日も。私がうきうきした気分の時も落ち込んでいるときも。


 あのブランドも分からない右足だけの靴は、ぽつねんとそこにあった。

 言っておくが、その靴に思い入れがあったわけではない。

 普段は記憶の片隅にもなくて、通りすがった際に思い出し、そして即座に海馬から追いやる程度の存在だった。

 ただの背景の一部として、いつもそこにあるのが当たり前な存在になっていた。そう、ちょうど身の周りの空気に酸素が含まれているのと同じくらいに当たり前だ、と。

 他にあの靴の存在を認識している人がいたのかどうかは、確かめたことがないから知らない。




 だから、靴と出会ってから3周年目、つまり高校生活最後の日。卒業式を終え、事情のあった家族が先に帰り、友人達と「一旦家に帰って着替えてからカラオケに行こう」と約束をして帰宅する途中、あの靴に近づいてみたのは、単なる気まぐれでしかなかった。

 いや、もしかしたら「この道を通るのも今日で最後だから、最後に目に焼き付けておこう」とでも思ったのかもしれない。いずれにしても、そこまで大きな気持ちがあったわけではない。


 とにかく、近づいて、上から覗き込んだ。離れたところからだと一点の汚れもない白に見えた靴は、けれど間近で見ると土のような茶色い汚れや引っかき傷が目立った。3年も野ざらしだったのだから当然か。


 この後の自分の行動の理由が未だに自分でも分からないのだが――私は、靴を持ち上げてみた。片手で、ひょいっといくはずだったのだが、思ったよりもずっしりとした重量感があり驚いた。


 履き口にもう一度目を向けた。中は空っぽで、ただ闇が広がっているだけのはずが、今はそこに円柱を半分に切断したような白く固そうなものが、赤い液体を滲ませる、濃いピンク色の柔らかそうなものに包まれてぎちぎちに詰まっていた。


 何が起こったのかと首をかしげ、それをしばらく凝視してしまった。

 やがて、嗅ぎ覚えのある匂いで、はっと覚醒した心地になった。

 血だ。肉だ。骨だ。足が、入ってる。見ちゃった。持っちゃった。


 気付いたと同時に、急に足に力が入らなくなった。尻餅をつき、けれど咄嗟に靴を放り投げた。


 ぴちっと一筋赤い曲線を描きながら転がり、こちらに履き口を向けて横に倒れた靴。




 にちゃ、にちゃ、にちゃ、にちゃ


 ガムを噛みしめるような、けれどそれよりもずっと不快な音とともに、断面から、


 どろろろろろろろ


 血管の青色。

 血の赤色。

 肉の桃色。

 脂肪の黄色。

 骨の白色。


 そこだけ彩度を調節したかのように、やたらと鮮明に見える色たち。

 溶けかけ、無秩序に混じり合い、どこからどこまでがどれなのかもはや判別は不可能。

 そんな塊が、たがを失ったように一気に、履き口から溢れ出し、動画を4倍速にしたかのような速度でアスファルトに拡散し、我が物顔で塗りつぶしていく。


 視界が、瞬く間に見たこともない色に染め上げられていく。

 一面の悪臭。酸素が消えうせたかのように、息ができない。

 私の体の下にまであっという間に潜り込む。地面に貼り付けたままだった両の手のひらが、いつも入っている風呂の湯の温度を連想させた。

 靴も靴下も服も下着も、きちんと身に着けているのに、まるでそれらがないかのように足にも尻にも同じ温度を感じる。じわじわ、水分が浸食してくる。小さい頃、漏らしてしまった時のことを思い出す。


 全身の力を振り絞って喉の奥から大声を張り上げ、立ち上がると同時に体育の授業でもこんな風に走ったことはないというくらいの速さで走った。いわずもがな、後ろは振り向かなかった。とにかく逃げて、逃げて、逃げた。




 以来、あの道には近寄っていない。その後あの道がどうなったのかは知らないが、特に変な噂は聞いていない。

 高校の時の友人から、今度高校で行われる文化祭に行かないかと誘われているが、別の道を通って行くつもりだ。


 時々考えることがある。

 あの靴は右足だった。ならば、あれの左足も、この世のどこかにあるのではないか、と。

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靴の道 PURIN @PURIN1125

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